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プロローグ
肺臓が体の奥に押し込まれる。胸がぎゅっと締めつけられ、自分がとても小さくなってしまった。そんな気にさせられる。
彼女の呼吸に合わせて金色の巻き髪と温かいミルクティーの水面が波打った。こっくりとした匂いが体中を満たす。
「知ってたの……?」
静謐な時間だった。平日だからだろうか? 昼を過ぎ、ますます日照りが強くなる頃合いだというのに客の姿はほとんどなかった。
今は目の前に腰掛けている紳士だけだ。
自分で問いかけた吐息混じりの声は、程なく溶けてなくなってしまった。唇は閉じきれず、薄く開いたままになっている。
「知っていて、私を傍に置いたの?」
二度目は、もう少しだけ強く言う努力をした。念を押すように。軽く顎を引いてみる。真剣な眼差しで相手を見た。
陽光が差す窓が曇っているからか、紳士はいつになく白い顔をして、その肌に昔のような血の揺れは感じられなかった。緊張で喉が引き攣っている。この瞬間は、頬も年齢より垂れ下がっているらしかった。
息を殺して、互いの様子をうかがう。
店員たちのおしゃべりも、厨房で食器がぶつかる音も、シンクに打ちつける水の音や店内のBGM……そのすべてが遠い。
彼は何も言わなかった。
――その日、私達は禁忌を犯した。
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