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 夢は一国一城の主だ。  けれど、そのためには下積みがいる。月給をもらいながら経験を重ねるのだ、ときにはどんなことにでも、笑顔でイエスを言う男気がいる。 「やだー絶妙に似合わなーい!」  そう笑うのはこの会計事務所の事務長、吉野だ。年齢と体重の話はご法度だが、それ以外なら豊満な体を揺らして笑ってくれる、事務所のムードメーカーである。  巧亮一(たくみりょういち)は彼女の作る空気に乗って、「ホントですかあ?」とシナを作った。 「自分ではちょっと似合ってる気、するんですよ。どうですか所長、惚れちゃいますか?」 「いやあ」  強い拒絶の滲んだ声に、総勢十人の職員たちは大笑する。  巧はここでは一番下っ端の税理士だ。税理士、と言うとメガネの堅物を想像されがちだが、巧自身はそうでもない。ほんの少し染めた短髪に、水泳部で鍛えた細身の体。ファッションにうるさい姉がいたので、センスもそれなりにあると思う。  身綺麗で人当たりのいい男は基本、「営業の若手エース」だと思われる。  あながち間違ってもいないだろう。税理士をはじめとする士業は、専門職であると同時に、依頼人あっての職でもある。  だから、これも仕事の一環だ。 「化粧もがんばってもらったのにな」  鏡を覗きこんでうつるのは、やや濃い目のピンクチークに、油物を食べ過ぎたような唇。それを確認する瞳も二重のつけまつげで飾られたから、眼力が普段にも増している。 「おっと、そろそろ時間だ。けど……本当にアレで?」 「行ってください」  吉野事務長からコートを受け取りつつ、吉野所長は困惑する。――ふたりは夫婦なのだ。 「はあ、アレでね……」 「アレ、アレって所長、口にも出せない惨事みたいに言わないでください」  女子社員から千鳥格子のスプリングコートを受け取りつつ巧も言う。もちろん、外套も女物だ。  黒のジャケットに同色のタイトスカートは、先輩社員が捨てかねていたリクルートスーツ。コートも別社員のお古である。  が、ジャケット下に着ているスーツインナーだけは違う。こんなのを持っている勤め人はいない。  身動きするたび視界の端がキラキラする、金のスパンコールキャミソール。着たときは巧自身笑ってしまった。まるっきりオカマの装いだからだ。  でも、今日はそれでいい。  新宿二丁目に行くにはきっと、これが正しい服装なのだろう。
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