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暗雲が空を覆い尽くし、絶え間ない雨はこの世の全てを憂鬱な湿気で包み込んでいるようだった。
ここ、私立穴倉高校一年A組の教室も、梅雨の長雨で湿度は百パーセント。数週間前まで真夏日さえあったというのに、今日などは夏服では寒気がする程で、僕も含めてブレザーを着直している生徒が多かった。衣替えというシステムは、もう機能しなくなっているのかもしれない。
「ハァ……」
僕は思わず溜め息をついた。ただしこれは、この不快な湿気にうんざりして出たわけじゃない。そうじゃなくて僕は……。
「おーい、卯月! パスか?」
「貧民争いだろ~?」
「長考とかw」
クラスメイトの鴨志田、藤堂、根津が言った。卯月というのは僕の事だ。外は真っ暗だが、今は昼休み。食後にトランプで「大富豪」をするのが、最近のこのメンバーの日課だった。
「えっ、あっ、そのっ……。っゴメン、待って……!」
僕は慌てて言った。完全に上の空だった。既に二人が上がって、残るはイライラしかけている鴨志田と、僕だ。別に何が賭かってるわけでもないが、大貧民にはなりたくない。
……だが、大丈夫だ。大富豪には勝つコツがある……!
ペアを大事にする事。ジョーカーは不要カードの処理に使う事。そして、最も重要な事、それは、出されたカードを記憶する事だ……!
今、僕の手札はQが二枚と、Jと4が一枚ずつ。鴨志田が4のペアを出したところで、奴の手札は残り三枚。ここは……。僕は自信を持って宣言する。
「パスッ!」
「じゃ8切りで上がり!」
「よわッ!」
記憶できてなかった。
「……卯月君、それ出せば勝てたじゃん」
藤堂が僕の手札を覗き込んで言った。鴨志田と根津は僕の手を返させた。
「温存して負けるとかw」
「いやっ、これはっ……」
「勝負に行けよ!」
「だから負けっぱなしなんだよ。ゲームに限らずさ」
違うんだ……! 本来なら記憶できるんだ。ゲームは得意だ。勉強だって……。けどもう、頭の中が……。僕は頭の中でそう言い訳をしつつ、ちらりと横に目をやった。
視線の先、教室の離れた席に、友人たちと談笑している女子の姿があった。僕は溜め息をついた。
西之宮亜利沙さん……! う、美しすぎる……!
周りの誰よりも背筋を伸ばして椅子に掛ける姿は、まるでノイシュヴァンシュタイン城。そのつややかな黒髪はグランドピアノのよう。他の女子はこの湿気で髪に悩んでいるようだが、うなじの辺りで結われた彼女の髪は一筋も乱れていない。彼女は口元に軽く手を当てて友人の話を笑い、猫のような大きな目を細めていた。
入学初日に一目惚れして、以来二ヶ月。頭脳明晰、才色兼備、実はスタイルも抜群で、それでいて優しくおしとやか。ちなみに美化委員。知れば知る程、彼女への思いは募るばかり……。
「やめときな」
突然、肩を何かが叩いた。僕は心臓が止まるかという程に驚いた。
見ると、根津が僕の肩に手を置いていた。根津も鴨志田も藤堂も、妙に悟ったような目をしながら僕の顔を見て、首を横に振った。
「えっ、ちょっ、何が?」
僕は取りつくろったが、三人は先程まで僕が見ていた方、つまり西之宮さんの方を見た。鴨志田は言った。
「西之宮だろ? 既にクラスの奴から上級生まで、ツワモノ共が一通りアタックして、総員玉砕した後だぜ。無理なんだよ。それに……」
ここで、鴨志田は少し声を落とした。
「……噂では……、彼女の男の拒み方は、極めて異常だとか……。中にはフラれて、廃人になった奴もいるらしい……!」
彼の口調は、真剣そのものだった。
「……それ自分の事?」
藤堂がにやつきながら言った。
「廃人ちゃうわ! 俺はもっと、胸がこう……」
彼らの話は下劣な方向に行き始めたようだが、とっくの昔に、僕の耳には入らなくなっていた。僕の視線と意識は、再び彼女に釘付けだった。
ああ、西之宮さん……! 君の眼差しを独り占めできたら……! 君を楽しませて笑顔にできたら……! そしたら僕は……。
死んでもいい……!
と、僕はそう思ってしまった。
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