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 放課後になった。  西之宮さんの事を考えて脳味噌の大半を使ってしまっている僕は、普段の勉強もまるで手に付かず、高校最初の中間テストでも赤点を取ってしまっていた。今、五時近くになって、ようやくその追試が終わったところだ。  なんとか追試をクリアして昇降口に向かう途中で、雨が止んでいる事に気が付いた。空は相変わらず黒い雲が立ち込めていたが、傘を差さなくて済むのは数日ぶりの気がする。帰宅部の活動が(はかど)る。僕は運がいいとか悪いとかはあまり考えないたちだが、思わずラッキーと、そう思ってしまった。  昇降口で靴を替えようとしたところで、丁度その先の扉を出ようとしている生徒の後ろ姿が見えた。僕はにわかに鼓動が早まるのを感じた。  まさか……! ッいや間違いない……! 西之宮さんだ!  僕は急いで靴を履き替えると、傘を回収するのも忘れて、素早くかつ密やかに、彼女を追って扉をくぐった。今は中途半端な時刻のようで、昇降口の周辺には、僕と彼女以外に誰もいなかった。  つまり二人っきり! 話し掛けるチャンスだ! まだろくに喋った事もなかったけど、これは一緒に下校も有り得るぞ!  が、内なるもう一人の僕はこう言った。いやいやいや、馴れ馴れしいって! 何話す? 拒否られたら? 根津たちに忠告されたろ?  ……いや、これはチャンスなんだ……! 行け……。行ってしまえッ……! 「…………」  やっぱ無理……! 僕は口まで開きかけて、そう結論を下した。思わず、大きな溜め息がこぼれた。  と、その時、なんと前方の西之宮さんが、突然こちらを振り返ったのだ。 「……卯月君……」 「えっ、あっ、そのっ……」  うおおおお……! ヤバイ! 美しい! 緊張する! 僕は脳味噌をフル回転させて、言うべき言葉を探しまくった。 「っ今、帰り?」  僕は昇降口の低い階段をぎこちなく下りながら言った。ちなみに昇降口があるのは、H型の校舎の横棒部分に当たり、そこを出た所、二つの棟に挟まれたエリアは、大きめのタイルが敷かれた広場になっていた。  話を戻すと、テンパりまくっている僕とは反対に、西之宮さんはほとんど初めて話すクラスメイトを相手にしても、実に落ち着いていた。 「そうよ。委員会の仕事でね。美化委員なの」  美化委員なのは知ってる。それにしても、なんて心地良い声なのだろう。まるでオペラを聴いているようだ。 「あなたは? 部活?」 「えっ、あっ、そのっ……、っ勉強してた」  本当は追試だけど、そんな事言えるはずない。僕がどぎまぎしていると、西之宮さんは優しく微笑み、こう言った。 「そう……。勉強熱心なのね。お疲れ様」  お、おおお……! この(いたわ)り……! (いつく)しみ……! (ほんとは追試だけど。)  やはり女神だ……! これは……、行ける……! 「あのっ……、良かったら……、っ一緒に……、帰ろう……、かと……」  言ってしまった。言ってしまった! 顔が真っ赤になるのが自分で分かった。すぐに僕は、やっぱりナシにしてくれと言いたくなった。  ……そして、僕はそう言うべきだったのかもしれない。  重苦しい沈黙が、流れた気がした。実際は二、三秒の事だったのかもしれないが、気が付くと、西之宮さんはうつむいていて、その口元からは穏やかな微笑が消えていた。 「……守れるの……?」 「……えっ……?」  彼女の突然の言葉に、僕は聞き返した。西之宮さんは続けて言った。 「暴漢に襲われたら守ってくれる……? 車に轢かれそうになったらかばってくれる……?」  西之宮さんって、結構心配性……? そりゃあ最近、酷い事件や事故は多いけど……。 「この先私が病気になったら? いじめに遭ったら? 悪事に巻き込まれたら? 災害に遭ったら?」  なんだ……? 彼女は何を言ってる……? 「戦争! 恐慌! 革命は?」  どういう事だ? それはいつかは起こるかもしれない。僕だって不安だ。想像すると恐ろしくなる。けど……。  僕が混乱していると、彼女はぽつりと、こう付け加えた気がした。 「……私の頭が、おかしくなったら……?」  僕は彼女に少しだけ近寄り、言った。 「いったい何を……。僕はただ……」 「ただ、私と付き合いたい、でしょう……?」 「えっ、いやっ、そのっ、そりゃあ……」  はい。僕は再び顔を赤らめてテンパった。けれども西之宮さんは、うつむいて固い表情のままで言った。 「なら……」  ここで彼女は顔を上げ、右手を軽く開き、何かを要求するように持ち上げた。その目は真剣そのもので、かつ氷のような冷たさをたたえていた。彼女は続けて、こう言った。 「あなたを試させて、卯月君」
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