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「西之宮さんッ……!」  空気を切り裂くような恐ろしい叫びの後、彼女は今度は、がくりとうなだれた。普段の姿勢の良さは見る影もなく、酷い猫背とへたり込みそうな内股で、あちこち掻きむしったせいで服は乱れ、結っていた髪はほどけてぼさぼさになっていた。 「西之宮さん、大丈夫……?」  僕は再び彼女の肩に手を掛けようとした。と、その時だった。 「お兄ちゃん、だれ?」  幼い女の子のような、若干舌足らずな声がした。そしてそれは、西之宮さんの口から発せられたようだった。彼女はゆっくりと顔を上げ、上目遣いに僕を見つめると、両手を合わせて口の近くに持っていきながら、幼い声でこう言った。 「あたしはアリス。あそび相手になってくれるの?」  血が逆流するような恐ろしさを感じた。何……? どうした、西之宮さん……?  彼女はまるで、別人だった。目は血走り、爛々(らんらん)として瞳孔が開ききっている。顔全体が上気して赤く、口には引き伸ばされたような歪んだ笑みを浮かべている。 「……どういう事、西之宮さん……? お兄ちゃん……? 何かの遊び? さっきは大丈夫だったの……?」  僕は恐る恐る西之宮さんに尋ねた。彼女の身長は百六十センチ以上あったはずだが、今は姿勢のせいで二十センチくらい低く見える。 「お兄ちゃん、ユウカイハンとかじゃないでしょ? ここはどこ? あたし時どき、キオクソーシツになるの」  彼女は周りの様子や自分の服を見回しながら続けた。 「あたしはアリス! 七さい半よ! 今、何やってたとこ? 教えてくれる? そのあと、いっしょにあそびましょ? あたし、楽しいことが大すきなの!」  背筋が寒くなった。ますます訳が分からない……! 西之宮さんは、ありさ、だろ? 演技なのか……? なぜ……? それとも、心の病気……、いわゆる二重人格……? それともまさか……。 「ねえ、聞こえてないの? 教えてくれないの? これまでのあらすじ」  彼女がそう言って、右手を上げた。次の瞬間。 「痛ッ! い、いいいいいッ!」  僕の左耳に激痛が走った。最初は虫か、いや、犬か何かが飛びかかってきたのかと思った。が、そうではなかった。慌てて耳を押さえたが、何もいないのだ。にも関わらず、左耳には、今にもそれを引きちぎりそうな強い力が掛かっている。苦痛に僕が体をよじると、西之宮さんが手をちょっと動かしたのが分かった。彼女は右手を開いてこちらに向け、楽しそうに笑っている。  う……、嘘だろ…! 超能力? 西之宮さんがやってるのか? いや……、こんな……、こんな酷い事……。目の前にいる、これは……。  西之宮さんではない……!  悪魔か? 悪霊か? 西之宮さん……、彼女の、さっきのあの異常なまでの拒絶、あの怯え……。彼女はまさか、これが分かってて……! 「聞こえてないのね、お兄ちゃん。じゃあ、こんな耳も、もういらないわねッ!」 「ッ……、待ってッ……! 言う! 言う! 教えるからッ! 僕と君は……」  僕がそう言いかけると、西之宮さんに似た彼女は右手を下ろし、同時に僕の左耳を掴んでいた何かはなくなった。僕は耳を手でさすると、指に少し、血が付いた。言う通りにしなければ危険だ……。 「えっと……、僕と君は、クラスメイトで……、その……、ジャンケンを……」 「ジャンケン?」  彼女は怪訝(けげん)そうに繰り返してから、不穏な間を置いた。が、すぐに手を叩いて言った。 「ジャンケン! いいわ! やりましょ! 3回勝負? 負けたら罰ゲームね?」  西之宮さんに似たその何かは、子供のようにはしゃぎだした。僕はたまらず、彼女にこう言ってしまった。 「……教えてくれ……。何なんだ、君は……? 目的は……? 元の……、あの西之宮さんを、いったいどこへやったんだ?」  言い終わるや否や、僕の首を、目に見えない何かが掴んだ。耳を引きちぎろうとしたのと同じ、あの力だ。それは僕の首を絞め、僕の体ごと持ち上げた。すぐに僕は息ができなくなった。西之宮さんに似た何かが、右手を掲げながら言った。 「意味わかんない……! あたしは西之宮アリス! 楽しいことがすきなだけ! 勝ってからにしようと思ってたけど……、あそばないなら、今すぐ殺して楽しんじゃおっと!」  僕の両足は地面から浮き、首は確かに絞め上げられているのに、どう触っても何も触感がない。もがけばもがく程苦しくなった。  ……殺される……! ジャンケンしなければ殺される! 勝負に負けても殺される! なんで……、なんでこんなッ……。僕はただ……。  僕の脳裏に、走馬灯のように西之宮さんの姿が浮かび上がってきた。目の前の何かではなく、今までの、奥ゆかしく優しい西之宮さんだ。  そして……、その走馬灯の中で、最後に現れたのは、今しがた豹変する直前の西之宮さんの姿だった。目から涙を溢れさせていた西之宮さんの姿だった。 「助けて」 と、彼女はそう言っていた。彼女は僕に(・・)、助けを求めたのだ……。  僕の心臓に、小さく、けれど確かな火が灯った。そしてそれと同時に、僕の脳味噌に、ある一筋の稲妻が飛び込んできた。 「……や……る……!」  僕は声を振り絞って言った。 「そうこなくっちゃ!」  目の前の、アリスと名乗る何かはそう言うと、掲げていた右手を下ろし、それと同時に僕の体はドサリと地面に落ちた。 「ハァ……、ハァ……。勝たなきゃ……、殺されるんだな……?」  僕は体を起こしながら、息も絶えだえにそう言った。 「そ! 罰ゲームよッ!」 「なら……、約束しろ……! 僕が勝ったら、元いた所へ帰ってくれ! 分かるだろ? ここに君が現れる前に戻るんだ!」  自分でも、こんな言い方が正しいのかどうか分からなかった。相手が約束を守る保障もなかった。が、アリスと名乗る何かは、今まで浮かべていた薄ら笑いを真顔に変えて、こう言った。 「……どうせ、そうなるわ……。負けたらね……。わかってるの。がっかりして気持ちがしずんだり、たいくつな時間が続いちゃうとね……、あたしはまっくらやみ(・・・・・・)に引きずりこまれて……、そこで、キオクはとぎれちゃうの……」  暗闇に、引きずり込まれる……? 僕にはそれがどういう事なのかは分からなかったが、負けを認めさせれば、この何者かは引っ込む、それは確かなように思えた。  彼女は再び歪んだ笑みを浮かべて言った。 「でも……! 負けないわ、あたしは! 楽しませてね、お兄ちゃん!」  僕は息を呑んだ。ここで、さっき思い付いた、あれを言わなければならない。 「一つ、提案がある……。ただのジャンケン勝負じゃなくて、もっと……、楽しくするんだ」 「なになに? 何かしら?」 「君は知ってるか? グーで勝ったら三歩、チョキかパーなら六歩進む……」 「フフッ……、フフフフフッ。キャハハハハッ!」  突然、彼女は笑いだした。 「もちろん知ってるわ。面白そう! やりましょ! そのゲーム、『グリコ』を!」  食い付いた……! そうだ、グリコだ。ただのジャンケンでは、余りに運だけのゲーム。……だが、それぞれの手に差を付けて、相手の出す手を推理する手掛かりを増やせば……、もはや運のゲームではなくなる……。  僕に勝機が生まれる……!  と、僕はそう思ってしまった。
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