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 ゲームは苛烈(かれつ)を極めた。  安全策を捨てた僕は、リスクを恐れず、アリスの数々の揺さぶりにも耐え、必死の勝負を続けていった。  そして、遂にゴールが見えた。今、アリスがいるのは二十一歩目の地点。ゴールまで残り九歩。そしてなんと、僕がいるのは二十七歩目。リードしているどころか、あと三歩でゴールなのだ……! 「はは……」  僕は思わず口元を緩ませた。あと三歩という事は、チョキでもパーでも、グーでもゴールできるという事。対するアリスは、最低二回は勝たなければならない。こちらが圧倒的に有利だ……! 「もう勝ったつもりでいるの、お兄ちゃん……?」  アリスが恐ろしい程の上目遣いで僕を(にら)む。 「そうはいかないんだから……! あたしはぜったい負けない。ぜったいに……!」  そう言うとアリスは、目つきはそのまま、邪悪な笑みを浮かべた。 「……約束は守るんだろうな……? 僕が勝ったら、君は引っ込むんだ」 「お兄ちゃんが勝ったら、ね」  気押されては駄目だ……。勝って西之宮さんを元に戻すんだ……! 「……行くぞ……。勝負だ……!」 「ジャン……!」 「ケン……!」 「ホイッ!」  アリスの手はパー。僕が出したのは、チョキ……! やった、勝った……!  と、そう思った瞬間だった。 「ウッ!」  指がッ……! 僕の指がッ……! 「ウウググッ!」  僕の指が勝手に折り曲げられていく! 物凄い力で人差し指と中指が押し潰されていく! アリスは笑いながら、パーの手を掲げている……。掌を、僕の右手に向けて……! 「パー対、グーね……!」  アリスが言った。僕の右手は、見えない力によって、(いびつ)な形の拳を握らされていた。 「キャッハハハハッ!」  アリスは大声を上げて笑うと、広げた右手を下ろした。その途端、僕の右手に掛かっていた力も消えた。 「じゃ! パ・イ・ナ・ツ・プ・ル! っと!」  アリスはケンケンをしながらタイルを進み、僕の隣に並んだ。僕は痛む右手を左手で押さえながら叫んだ。 「ッこんなッ……! ひきょ……」 「なにか、言った……?」  アリスが不気味な笑みを浮かべてこちらを向いた。その目は獲物を狩る猫のように、瞳孔が開ききっている。  ……駄目だ……! 不正を非難したところで、怒らせてこっちの寿命が縮まるだけ……! 甘かった……! こいつは楽しめればそれでいいんだ……! まさかここまで滅茶苦茶なコドモだとは……! 「さ! お兄ちゃん! 泣いても笑っても、つぎがさいごね!」  いったい……、どうすれば……! 「殺しちゃうのはちょっとざんねんだけど……、あたし、楽しかったわ!」  アリスは右手を軽く握って持ち上げる。僕の右手は骨こそ無事なようだが、痛みで未だに動かせない。 「ジャン……!」  どうすればッ……、どうすればいいッ? 何か出さなければ、こいつは掛け声が終わった瞬間、僕の首をひねるだろう。どうすれば……! 「ケン……!」  その時……。  僕の頭の中に、か細い、ほんの僅かな光が射し込んだ。瞬きする間に消えてしまいそうな弱い光……。だが、これを辿るしかない……。この一筋の光に賭けるしかない……! 「待てッ! 待ってくれッ! 整えたいッ!」  僕は叫んだ。 「はあ?」  アリスは顔を引きつらせている。僕は右手を持ち上げ、彼女に見せながら続けた。 「手が痛くて、素早く動かせないんだ……! 見えないように手の形を作って整えて、その状態から出すようにさせてほしい……!」 「……フン。そんなこと言って、あと出しみたくする気でしょ?」 「ッそんなつもりじゃないッ! ちゃんとジャンケンホイの『ホイ』の時、体の前に出せてればいいんだろッ? 後悔だけは、したくないんだ……!」  アリスはしばらく僕を睨みつけると、黙って右手を開いてこちらに向けた。しくじったか……? 「……フフッ。いいわ。でも五秒だけね? いーち……」  五秒……。僕は体の後ろに両手を持っていき、左手でさすりながら、痛む右手の形を作った。 「……しーい、ごッ! それじゃあ思いのこすことはないのね? ジャン……!」 「ちょッ…!」  僕は左手を持ち上げて彼女を制するように出したが、彼女は既にジャンケンの体勢に入っている。僕は急いで右足を半歩引いて体を斜めにし、右の腰の後ろに右手を当てた。 「ケン……!」  ……思い残す事、だって……?  ないわけがない……! 不安で、恐怖で、気が狂いそうだ……!  何か少しでもミスすれば終わり……! 運が悪ければ簡単に死ぬ……! 気まぐれ次第で、すぐ殺される……! 理不尽で不可解で残酷な、この何かに……!  ……けど……、それでも僕は……。  戦うぞ……! 最後の最後まで……! 愛する人のために……!  その時が来た。  僕は隠していた右手を腰から抜いて振り上げる。その手の形は、チョキ。  目を見開いて僕の右手に照準を合わせるアリスの手は、パー。  互いが互いの手を認識した瞬間、僕の体の横まで来た右手に異変が起こる。見えない力が指を捕らえて無理矢理曲げようとする。 「う、ぐおおお……! させるか……!」  僕は必死で抵抗する。が、さっきの勝負の時と同じだった。右手は醜い拳を握らされた。それと同時に、アリスが叫んだ。 「ホイッ!」  ……決着だ。僕は立っているのがやっとだった。 「キャッハハハハッ! キャッハハハハハハッ! パー対、グー! やっぱりあたしの勝ちね、お兄ちゃんッ! さあッ! 罰ゲームッ!」 「……君は……、猫は好きか……?」 「はあ……? あたしのすききらいはカンケーないのよ、お兄ちゃん?」 「猫に限らずだけど……、獲物を狩ろうとする時の動物って、無防備なんだよ。獲物に全神経を集中するから、周りが全く見えなくなるんだ。例えば、顔の、すぐ近くの物でさえ……」  僕はそう言って、左手首を少し振った。この最後のジャンケンが始まる時、アリスを制するように持ち上げた左手。それはそのまま更に前に突き出されて、アリスの顔のほとんど真横に留められていた。ただし、その手の先は……。 「パー対、チョキだ……!」  僕はそう言った。今やアリスの目の前にある僕の左手は、見紛(みまご)う事なきチョキの形をしている。 「ッそんなッ……! ッだめだめッ……! だってッ、右手はグーだものッ……」 「右手は出してないッ! 右手はジャンケンに使ってないッ! 確認したろ? 『ホイの時、体の前に出せてればいいんだろ?』って! 見ろッ! 右手は体より前に出してないッ!」 「なッ……!」  僕の言葉の通りだ。僕の右手に握らされた拳は、未だ脇腹の真横に留まっている。 「出しているのは左手ッ! チョキだッ! チョキ対パーだッ! つまり――」  僕の勝ちだ、と、そう言おうとした瞬間、アリスはその右手を僕の顔に向けて声を上げた。 「このッ……!」  が、彼女はすぐに青ざめた。見えない力が、僕に襲いかかることはなかった。アリスはうろたえ始めた。 「……認めたんだろ……。君の心が、負けを……」  目の前の何者かは、両手で頭を押さえて震えだした。 「いや……! あたし、もどりたくない……! 暗いよ……! さびしいよ……! どうして……? あたしももっと……」  彼女は涙を流していた。 「いやァアアアアアア!」  暗く冷たい校舎のはざまに、少女の慟哭(どうこく)が響き渡った。
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