西川天羽の溺愛

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   初めて触れた楽器はピアノ。幼少期を過ごしたケベックシティの家で、母がいつも弾いていたから。  曲は主にポップスだった。クラシックやジャズを弾いてる事もあったけれど、一番のお気に入りはスティービー・ワンダーで、母が弾くと父が歌う。父の少し掠れた柔らかい声と、楽しそうな母の笑顔が大好きだった。勿論それは天音も同じ。 「ドニ・アンジュ、お兄ちゃまにスティービー・ワンダーを聴かせて?」  フランス系の人は、愛称をコロコロ変えて呼ぶ。アンジュにモナムール、ベべにシルヴィー、気分次第で僕は天使で愛人で赤ちゃんだ。 「何がいい~?」 「きみの得意な歌」 「じゃあまた “Isn’t she lovely“ になっちゃうよ?」 「いいんだ。ホントはそれが聴きたいだけだから」  スティービー・ワンダーが、愛娘アイーシャが生まれた時に作ったこの曲。両親は『she』を『he』に、『Aisha』を僕らの名前に替えて歌っていた。僕ら兄弟がこの世に生まれた事への讃歌だったんだ。  天音は疲れた時、ひっそり僕を訪ねて来ては、弾き語りをリクエストする。だから僕は、愛する家族(あなた)を少しでも癒せるように歌う。二十歳を過ぎてもご褒美のキスが嬉しいのもあった。  そしてそれを後ろで見つめる、葵の困ったような、くすぐったそうな笑顔も好きだった。  キスを貰う時いつも思う。実の兄弟なのに、天音は178センチ、僕は166センチ。  これからまだ伸びるかもと期待を消しきれないでいたある日、テレビでとある大御所俳優が喋っていた。子どもは周りの大人が大きくなるよう願わないと成長出来ないと。いつまでも小さく可愛いベイビーでいてほしいと願うのは、ある意味で虐待なんだと。なるほど犯人は天音だ。
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