夜の案内者 - 序章「ネズミの案内人」
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夜の案内者 - 序章「ネズミの案内人」

 乗客がほかにいない列車で、わざわざ眠る人を起こし荷物をどかしてまで隣に座りたがることを、彼女はすぐに不審に思うべきだったのだ。彼が知りたがっていたのは、彼女が犯した殺しの理由だったのだから。  肩を揺すられた彼女は反射的に謝り、腕に持ち手を絡ませていた帆布のバックパックを自分の上に乗せるようにして抱える。  彼女が視線を上げるとそこには、厚手の黒いコートにつばのある黒の帽子をかぶった・・・鼠がいた。身長はアサの二倍はあるだろうか。 「失礼。荷物、そちらに置かれては?」  鼠は向かい合った座席を指さし、許可を待たずに彼女の隣に座り込む。巨大な鼠が隣に座ったせいで、彼女の身体は窓側にきつく追いやられる。窓の外には青い海。絵の具を溶かしたような鮮やかすぎる青水色の海が見えた。  彼女は前の座席に荷物を置こうと席を立つ。反対側の窓からは砂漠が広がっているのが見えた。右側の青い海、左側の黄色い砂漠。列車によって世界が二つに分断されているようだ。どれくらい眠っていたのだろう。北欧の田舎町から南へ向かう列車に乗ったはずだった。雪の降る白い町から、大都市へ。そこから飛行機に乗って国に戻る予定だったのに。ここはどこだろう。窓の向こうに人家は見えない。 「お名前はなんと?」  立ち上がって他の座席を見ると、乗客は誰もいないようだ。席を移ろうか。「お名前は?」悩んでいるうちにさらに聞かれて鼠と目が合う。血管のような赤い目を花緑青色の瞳で捉えるが、すぐに彼女は席を移ろうと大きなバックパックを抱えた。 「初めてこの列車に乗られたのは存じ上げております。私が少しご案内致しますよ。まずはお名前を聞かせてはいただけないですか?」  鼠は小さな左手で席に座るように促す。彼女は大きな荷物を胸に抱え、向かいの席の通路側に腰を下ろす。巨大な身体に似合わない小さな革靴が彼女の足に当たり、鼠は窓側に身体をずらした。 「あなたの名前は?」 「私には名前はないんですよね。あなたは?」 「アサ」 「アサさん、ですね。名前があるというのは素晴らしいことですね。ああ、ちょうど町に着いたようですね、では降りましょうか」  ネズミは立ち上がり、アサの足を踏まないように気をつけながら通路に出る。 「行きますよ」 「わたし、こんな砂漠で降りたくないけど」 「乗っていても構いませんが、あなたが降りない限り、この列車は進みませんよ。これはそういう列車ですから」  ネズミに促されてアサは仕方なく後を追う。ネズミは列車の左側の扉を開けて外に出て行くが、アサは反対側、海側の扉に手をかける。しかし、鍵がかかっているようで扉は開かない。  先に列車から降りたネズミが声をかける。 「この列車に乗る前に乗車券をもらったでしょう?それを出して車掌さんに見せてください」  そういえば、雪の舞う駅で列車を待っている時、黒いコートの背の高い人に紙を渡された。現地の言葉で早口で話されて何を言ってるのか分からず、返そうと思ったが、渡したままどこかへ行ってしまったのだ。ちょうど列車が来るタイミングだったので追いかけることもできず、そのままもらってしまった。 アサは青い格子柄のシャツのポケットを探って紙を取り出す。光沢のある黒い紙。やや厚みがある。表にも裏にも何も書かれていない。 「乗る時も降りる時も見せないといけないので、なくさないように気をつけてくださいね」  アサは砂と同じ色のバックパックを背負い、列車の扉から外を見る。広がる砂漠の先に町が見える。アサは扉の前に置かれた小さな階段を下りる。この階段が駅のホーム替わりのようだ。階段の脇に黒いローブの人が立っている。フードを深くかぶっていて、顔が見えず、ヒトかどうかもはっきりしない。ローブには種類の異なるたくさんの面が結びつけられていて、全身に顔があるみたいだ。丸い黄色に舌を出したような絵が描かれた面もあれば、口をゆがめた男性の顔のようなもの、本物そっくりの獅子の面まであるが、どれも目の部分だけ穴が開いているので不気味に見える。ローブの袖から長くて黒い爪の生えた手が伸びてきて、アサに向かって手招きする。アサが黒い乗車券を渡すと、車掌は何度かそれを顔の前で振ってからアサに差し返した。 「では行きましょう」  アサは受け取った乗車券を首にかけた青い小袋の中にしまい直した。
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