吾輩は傘である

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 吾輩は傘である。  名前はまだない。  というか、普通ない。  傘に名前をつけるような酔狂な(やから)には、吾輩はまだお目にかかったことがない。  吾輩に固有名詞があるとしたら、「夏彦の傘」である。  夏彦とは、ある雨の日に吾輩を見染め、自宅に連れ帰った男の名だ。似たような外見の傘が何本も詰め込まれた駅の売店で、他でもない吾輩を迷うことなく手に取った夏彦は、なかなかに男前であった。  たとえ夏彦が、一般的には取り立てて褒めるべきところのない男子学生だとしても、吾輩を他の傘連中とは一線を画す存在と見抜いて身請けしたその慧眼には、敬意を表さねばなるまい。  夏彦の名を教えてくれたのは、彼の家の古参の傘たちである。彼らは概ね、新参者の吾輩を歓迎してくれた。もっとも、世の中には常に、例外というものが存在する。 「お前なんか、夏彦の傘じゃねぇ。その場しのぎに買われただけの、使い捨てだ!」  失礼極まることを言ってのけたのは、自称三年前から夏彦に愛用されている、紺と緑の格子柄がなかなか洒落(しゃれ)た傘であった。ハンドル上の丸いボタンに愛嬌があるので、吾輩は彼を格子丸(こうしまる)と呼ぶことにした。  この格子丸は、突然現れた吾輩に「夏彦の傘」という地位を奪われることを恐れ、日々くだらない言いがかりをつけてくるのである。 「おいお前、そこのアポ! そんな手前にいたら、夏彦が出かけるときにうっかりお前を掴んじまうだろ? でしゃばってねぇで、新参者らしく後ろに下がってろ!」  傘立てで休息していた吾輩を、アポなどという品位の感じられないあだ名で呼んできたのは、やはり格子丸であった。 「吾輩はアポではない。APOは傘布の素材の名だ。君が吾輩をどうしてもアポと呼びたいのなら、吾輩は君をポリエステルと呼ばざるを得ないが、それでもよいか?」 「安っちぃビニール傘のくせに、その気取ったしゃべり方はどぉにかなんねぇのかよ!」 「吾輩の傘布はビニールではない。非晶質ポリオレフィンという、安価で軽く、環境に優しい、三拍子揃った期待の新素材だ。正しい知識というものを、少しは身につけたほうがよいぞ、格子丸」 「妙ちきりんな名前で呼ぶんじゃねぇよ! 俺の名前は夏彦だ!」  この家では、傘はそれぞれの所有者の名で呼ばれるのが習わしらしく、格子丸は吾輩が一度でも「夏彦」と呼ばれたことが気に入らないらしい。  持ち手が竹でできた「お父さん」も、晴雨兼用の美しい「お母さん」も、粗暴な格子丸に手を焼いている様子であった。  なお、玄関の物入れには他に、小夏彦(こなつひこ)と呼ばれる折り畳み傘もいるのだが、その愛らしい小柄な外見ゆえか、格子丸との折り合いは別段悪くないようである。  ある日の夕方、格子丸を連れて学校に行っていた夏彦が、雨に濡れた運動靴で玄関に駆け込んできた。  ずぶ濡れの格子丸は、留守番を強いられた吾輩を見るや、 「あぁ、疲れた疲れた。朝から出ずっぱりでクタクタだぜ」 と低俗に当てこする。  夏彦はその格子丸を傘立てに突っ込むと、吾輩の白いハンドルを掴んで再び玄関から飛び出した。  雨に濡れた夏彦の手は、ひんやりと冷たい。それなのに、ドクンドクンと波打つ血潮が、人の温もりを感じさせた。  吾輩が夏彦に連れ出されるのは、これがニ度目であった。口悔しいことに、夏彦はやはり格子丸を常用しているらしく、吾輩の出番は少ない。しかしながら今回は、わざわざ格子丸を置きに戻ってまで吾輩を迎えに来てくれたのであるから、どうしても吾輩を連れて行きたい場所でもあるのだろう。  夏彦はマンションのエレベーターで、吾輩を開いて何やら検分を始めた。幸い、他に人は乗っていない。  吾輩は、まだサビ一つ付いていない体を、存分に見せてやった。当然、傘布に破れなどなく、露先(つゆさき)は一つたりとも外れていない。石突きもほとんど削れていない体は、我ながら機能美を尽くしている。  夏彦は吾輩の美を堪能すると納得したように閉じ、何故か背面の鏡で髪を整えてからエレベーターを降りた。  吾輩のハンドルを握る夏彦の手が、次第に温く汗ばんでいくのを感じる。走り戻ってから時間が経ったというのに、ハンドルに伝わる鼓動は逆に早くなるようだ。  早足でマンションの廊下を抜けた夏彦は、駐輪場の手前でピタリと立ち止まった。  夏彦が見つめる先には一人の少女が立っていた。  歳の頃は、夏彦と同じくらいだろうか。  女学生らしい制服に身を包んだ、可憐な少女であった。  駐輪場の屋根の下で胸の前に鞄を抱え、濡れた前髪の下から雨を見つめる姿を見れば、突然の雨に打たれ咄嗟にそこに駆け込んだものの、傘も無いため途方に暮れている様子がよくわかる。  夏彦はこの少女に、傘を貸してやりたいのだろう。  吾輩は傘である。  住み慣れた夏彦の家に多少の愛着はあるが、少女を雨から守るという使命のためにここを離れるのであれば、本望であった。  夏彦は一度、吾輩を握る手にギュッと力を込めると、駐輪場へ走った。短い距離だが、屋根がない。バシャバシャという音に気づいて振り向いた少女の前に、夏彦は吾輩を差し出した。 「使って」  低い声が、雨の音に混じる。 「よかったら」  夏彦の鼓動が、吾輩の体を揺らす。  不器用な男だ、と吾輩は思う。大きな図体をして、もっと気の利いたことが言えないのだろうか。  少女は驚いた顔で、言葉を失っている。夏彦が腕をさらに伸ばすと、目の前に差し出された吾輩を、小さな手が受け取った。少女の手は夏彦のそれと違い、真冬のように冷えきっていた。 「あの…… 」  少女がなにかを言いかけたのにもかかわらず、夏彦はくるりと背中を向けてその場を走り去った。  新しい主人となった少女の手が、吾輩を介して夏彦の熱が移ったかのように少しずつ温まり鼓動を響かせたのは、誠に趣き深い雨の日の出会いであった。 「珠月(みづき)、お帰り。あら、どうしたのそのビニール傘?」  少女を迎えた母親が、吾輩を見てそう問うた。少女の家は、夏彦のマンションから徒歩で10分ほどの所にあった。未だ降り止まない雨の中、傘をささずに歩いたら大変な惨事であっただろう。  珠月と呼ばれた少女は開いたままの吾輩を三和土(たたき)に置くと、母親に差し出されたタオルで身体を拭いた。 「傘、学校に忘れてきちゃったの。学校出たときは降ってなかったから。でも、駅出てからすぐにどしゃ降りになっちゃって」 「買ったの?」 「駅前以外にコンビニもないじゃない。雨宿りしてたら、貸してくれたの」 「誰が?」 「知らない人。多分、雨宿りしてたマンションの人だと思う。大学生……かな」  珠月は自分の身体を拭いたタオルで、吾輩の傘布を拭いてくれた。 「ちょっとぉ、傘は雑巾で拭きなさいよ」 「だって……貸してもらった傘だから。それにほら、ほとんど新品みたいなの」  珠月は母親の苦言を聞き入れず、吾輩にまとわりつく水滴をきれいに拭うと、母親とともに家の奥へと歩き去った。  なかなかどうして、心根の優しい少女ではないか。  吾輩は新しい主人となった珠月に拭いてもらった透明な傘布が、薄桃色に色づくような面映い心持ちに中棒(シャフト)が温かくなるのを感じた。  翌日からは晴天が続いたが、珠月(みづき)は天候にかかわらず、吾輩を常に持ち歩くようになった。現実の少女は都合よく独り言を呟いたりしないものであるから、推測の域を出ないが、近所に住んでいるはずの夏彦に偶然出くわしたら返そうと思ってのことらしい。  借り物だという意識からか、石突きで地面を叩いたり引きずって歩くようなことがないこの少女に、吾輩は更に好感を覚えた。  珠月と夏彦は、違う学校に通っているようだ。 いつ見ても部屋着と大差ない服装の夏彦と違い、珠月は毎日制服で登校している。男子を見ないので、どうやら女学校らしい。  珠月は登校すると、まず昇降口にある傘立てに吾輩を差す。この傘立てには女学生のものらしい可愛らしい色合いの傘が多いが、吾輩に似たものもそれなりにいる。  初めてここに連れて来られたとき、吾輩は取り違えられるのではないかという不安に襲われた。しかし珠月が、吾輩のハンドルに紫陽花(あじさい)色のシュシュを巻いてくれたのだ。借り物の傘に、名前を書くことはできない。しかしこの目印があれば、悪意による盗用でない限り、他の人間に持ち去られる心配はないだろう。  かくして吾輩はおよそ半月の間、珠月の家と女学校を往復するようになったのである。  珠月(みづき)と夏彦の再会は、ある蒸し暑い夕方に果たされた。  その日も珠月は吾輩を伴って登校し、夏彦のマンション付近に差し掛かると歩を緩めた。どことも知らぬはずの上階にちらちらと視線をやりながら、吾輩を小脇にギュッと抱える。彼女の胸の高鳴りを、吾輩はいつものように体で感じた。  するとその時、珠月の脇を一陣の風が吹き抜けた。束ねた髪とスカートを揺らした風の正体は、自転車に乗った夏彦であった。  夏彦は背後から走ってきて珠月を追い抜くと、マンション脇の駐輪場に入っていく。珠月の鼓動が、未だかつてないほどに強く吾輩に伝わってきた。  夏彦は駐輪場に自転車を停め、籠に入れていた白いビニール袋を手に取ったところであった。 「あの!」  珠月の声に、夏彦がゆっくりと振り返る。彼の家にいる頃には気がつかなかったが、珠月の胸の高さから見上げる夏彦は、随分と長身だ。  呼び止められた夏彦は、珠月の姿を認めると目を丸くした。  蒸し暑い初夏の空気が、二人の間に沈黙を落とす。  そして双方が口を開きかけたそのとき、マンションから鋭い女の声が響いたのだ。 「夏彦ぉ! 早く帰って来てよ! アイス溶けちゃうでしょ!」  何というタイミングの悪さか。吾輩は歯噛みした。  弾む心拍を吾輩のハンドルに伝えていた珠月の手の温度が、すっと下がったように感じた。珠月は勇ましいほどの足取りで夏彦との距離を詰めると、吾輩を彼の腹の前に突き出した。 「ありがとうございました!」  夏彦が反射的に吾輩を受け取ると、珠月はサッと頭を下げ、うつむいたまま踵を返して駐輪場を出て行ってしまった。  吾輩を掴む夏彦の手の、なんと硬く暑苦しいことか。  手放されるときの珠月の手の震えが、いつまでも吾輩の体に残っていた。 「夏彦! アイスぅ!!」  建物から再び飛んできた声に、駐輪場で呆然と立ち尽くしていた夏彦は、慌ててマンションへと戻った。  夏彦は吾輩を上がり框に放ると、アイスを待っているのであろう姉のところへ急いだ。吾輩は玄関より奥のことはほとんど知らないのだが、彼女の横暴な態度はよく覚えている。  先程夏彦を急かしたのは、この姉であった。  しかし、もしかしたら珠月はさっき、この姉を夏彦の交際相手だと勘違いしたのではないだろうか。  珠月はきっと、吾輩を返却しようと夏彦との再会を願ううちに、この朴訥な男に淡い恋心を抱いてしまったのだろう。  傷ついた珠月を呼び止めもせず、ただ黙って吾輩を受け取った夏彦には、立腹を禁じ得ない。  珠月は何日も何日も、お前に吾輩を返すだけのために、阿呆(あほう)のように晴れた日も吾輩を連れ歩いてくれたというのに……  憤慨していた吾輩を、のしのしと床板を軋ませて戻ってきた夏彦が、むんずと掴み上げた。  珠月によって丁寧に畳まれ、美しい螺旋状に巻かれた吾輩の傘布を、彼の無骨な手が撫でる。傘布をまとめるバンドを、そこに付いたボタンを、そしてハンドルを、夏彦は確かめるように、優しく撫でた。吾輩の帰還を喜び、()でているわけではないだろう。  この手が本当に愛でたいのは、きっと……  吾輩はこの不器用な男に、()もいわれぬ哀愁を感じた。  しばらく無言で玄関に佇んでいた夏彦は、大きなため息をひとつ吐くと、吾輩を古巣の傘立てにそっと戻した。 「あっ! てめえアポ、なんで戻って来やがった!」  開口一番、憎まれ口を叩いたのは久々に見る格子丸であった。 「悪いが吾輩はままならぬこの世の(さが)を目の当たりにし、誠に疲労している。君との再会を喜び合う気分にはなれないのだよ、格子丸」 「誰も喜んじゃいねぇよ! 寝言は寝て言えこの無個性ビニール野郎!」 「君たちと違って、吾輩はこの半月というもの、連日勤務の多忙さだったのだよ。少し休ませてくれ」  そう告げたのは確かに吾輩であるが。  その後ずっと何日も、暗く湿った傘立てに放置されることになるとは、夢にも思っていなかった。  本格的な雨の季節になり、家中の傘が毎日のように連れ出されるようになっても、吾輩は誰にも手に取ってもらうことなく、妙に広く感じる傘立ての中で、ひっそりと時間を過ごしていた。 「一日中降ってたわね」「靴下までぐしょぐしょだ」「洗濯物が」「大粒の雨で」「斜めに降ってくるとさ」「食パンにカビが」「早く梅雨開けないかしら」  必要とされない日々が感覚を麻痺させ、もはや家人の話し声なのか、傘たちのささやきなのかもわからない。  夏彦は傘立てを覗くたびに、吾輩に憂いのある目を向ける。そして、決まって格子丸を連れて出て行くのである。疲労自慢につき合わなくなった吾輩に、最近では格子丸も何も言わなくなった。  珠月は元気にしているだろうか。  あの優しく柔らかな手で、吾輩ではない傘を連れて歩いているのだろうか。  嗚呼、吾輩に特別な能力があれば、あれは夏彦の姉であると珠月に伝えてやることができるのに。  もしくは、珠月が夏彦との再会を願い、胸をときめかせて毎日吾輩を連れて出てくれていたのだぞと、夏彦に教えてやれるものを。  吾輩が己れの無力さに打ちひしがれていると、体の中心に何やら違和感を覚えた。枯れ葉でも入り込んだのだろうか、そう思った吾輩は、自分に与えられた使命があることを思い出してハッとした。  そうであった。なぜ忘れていたのだろう。  吾輩にはまだ、成さなければならないことがある。しかし、自分で動くことも、人間に話しかけることもできない吾輩に、どうしたらそれが叶えられるだろうか。  吾輩は暇なのをいいことに日がな一日考えたが、どうにも良い知恵を捻り出すことができなかった。 「格子丸、折り入って相談したいことがあるのだが」  家人が寝静まるのを待ち、吾輩は格子丸に話しかけた。連日の雨で、傘立てのまわりも大層湿気の多い夜であった。 「あぁ? 何だよ急に改まって。気持ち(わり)いな」  格子丸の悪態は健在である。しかし、連勤による疲れも伺えた。 「一日だけでよいから、夏彦の傘を休んではもらえないだろうか」 「は? どういう意味だよ? つうか、毎日毎日仕事仕事で、たまには代わってほしいくらいだけど? つっても俺たちに、選ぶ権利なんかねぇだろうが。夏彦が俺を手に取るのを、俺にはどうすることもできねぇよ」 「それは確かにそのとおりだ。我々にできることは極めて限られている。だからこそ格子丸、君の知恵を貸してほしいのだよ。一日だけでよいから、夏彦に吾輩を手に取ってもらうには、どうしたらよいだろうか」  格子丸は訝しむような目で吾輩を見ていたが、 「何考えてんのか、全部話せ」 と水を向けてきた。  吾輩は自分の知る限りの事情を、彼に全て明かした。夏彦と、珠月のこと。互いの名前も知らない不器用な二人の、これまでのことを。  格子丸は暫く難しい顔で黙っていたが、 「一つだけ、方法がある」 と呟いた。 「ただし、一回だけってわけにはいかねぇな。やるからには、俺はもう引退する。アポ、これからはお前が夏彦の傘になれ。……それで、いいな?」  格子丸の言う「方法」がどんなものか、経験の浅い吾輩には全く見当がつかなかった。  それでも、格子丸の口調から、彼の覚悟のようなものが伝わってきて、「それでよい」と安易に答えるのは(はばか)られる。吾輩が黙っていると、格子丸は少し寂しそうに笑った。 「ホントはな、俺ぁもうガタがきてるんだ。ボタン押しても一発で開きゃしねえし、骨を一本やっちまった。まぁだから、ここらが潮時なんだよ」 「格子丸……」 「そういうわけだからさ、まぁ、みんな、今まで世話になったな」  格子丸は「お母さん」たちにあいさつをすると、どこへともわからぬ声を張り上げた。 「お前ら、こっちに来いよ! 俺がまとめて引き受けてやる! その代わり、他の奴らには手ぇ出すなよ!」  彼がそう言うと、吾輩たちを包む黒い気配が、ざわりと動くのを感じた。動けない我々と違い、集団で力を発揮するそれらが、格子丸目がけて突進する。 「夏彦を頼んだぜ!」  黒い渦に呑まれた格子丸の最期の声が、夜中の玄関の空気をビリリと震わせた。 「やだっ! 夏彦それ!」  朝の玄関に、夏彦の姉の声が響いた。夏彦が格子丸を掴んで家を出ようとした、そのときである。 「なんか臭くない? しかもその傘、そんな色だったっけ?」  言われた夏彦は格子丸に目を向け、顔の前に持ち上げて匂いを嗅いだ。途端、不快そうに眉根を寄せる。夏彦が格子丸のベルトを外すと傘布がばらけ、青い格子柄に不規則な黒い水玉が散らばっているのが見えた。 「うわっ、最悪! カビだらけじゃない!」  昨日と一昨日の降水確率は20%で、出動したのは折り畳み傘の小夏彦。格子丸は二日間留守番だった。その間に彼は、その体に受け入れた胞子を、一人静かに育てたのだった。 「あんた、濡れたまま巻いてしまったんでしょう! だからこんなカビになっちゃったのよ! もぉ! 私のに移ってないでしょうね!」  夏彦の姉はぷりぷりと怒りながらも、時間がないのかそのまま玄関を飛び出して行った。 「しょうがないから、違う傘で行きなさい。もう一本あったでしょう?」  奥から出てきた母親に促され、夏彦は格子丸を三和土(たたき)に横たえると、吾輩に目を向けた。  気がすすまない様子なのが見て取れる。 「念のために開いてみたら? カビが移ってるといけないから」  そう言われた夏彦は、渋々といった(てい)で吾輩を手に取った。  久しぶりに触れた夏彦の手が、吾輩のベルトを外す。珠月がきちんと乾かしてから丁寧に畳んでくれた傘布が、はらりとほどけた。夏彦が親指の腹でボタンを押すと、  ポンッ という音と共に、傘布が開いた。  嗚呼、開いた……  やったぞ、格子丸……  ほぼ一月ぶりに傘布を開いた吾輩から、一枚の紙片がはらはらと舞い落ちた。  二つに折り畳まれた小さなメモ。  それに気づいた夏彦が、床に落ちた紙片を拾い上げた。  並んだ文字を目にした夏彦の表情(かお)を見て、吾輩は安堵と歓喜に包まれた。  よかったら、ラインつながりませんか?  ID : mizuki.pearl××××  いつか雨の日に、二人が会ってくれるといい。二人が笑い合う姿を見られれば、一介の傘として、これほどの幸福はないだろう。  二人が吾輩の下で相合傘をするその日を夢見て、吾輩は期待に中骨(シャフト)を膨らませたのであった。 【了】
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