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 翌朝まだ暑くならないうちに、私はホテルから10分歩いてグアダルキビール川に向かった。市中にある川といっても、観光用の遊覧船が何艘も浮かぶような、大きな河川だ。  眼前に、アーチ型の大きな石橋が現れた。早足で渡る人、石造りの欄干にもたれて川を眺める人、写真を撮る観光客など朝からたくさんの人がいる。  橋のたもとに、川に沿ってコンクリートの遊歩道が敷かれているのが見えた。柵などはなく、子ども連れなら危なくて近寄れない。息子が小さい頃なら、ちょっと目を離した隙に走って行ってしまわないように、ぎゅっと手を繋いで歩いただろう。  私は寄り添って川を眺めるカップルがいない辺りを選び、彼らに倣って遊歩道の灰色の淵に腰掛けた。  目の前には、グアダルキビール川の深緑色の水が静かに流れている。水面は、淵から垂らした足の先2メートルほどのところだ。水が濁っていて、どれほどの水深があるのかは全くわからない。 「やっと来られたわね」  自然に笑みがこぼれた。  スペインを去って25年。  死神と呼ばれた夫が、ずっと来たがっていた街。  私は斜めがけにしたバッグから小瓶を取り出した。手のひらに乗せると、わずかな温もりを感じる。バッグ越しに私の体温が移ったものだと分かっていても、まるでまだ命があるかのような不思議な感傷に襲われた。  蓋を開け、小瓶をゆっくりと傾けた。白い粉が、少しの砂塵を起こしながら、さらさらと流れ落ちる。その白は水面に届くまでに風に流され分散して、川面の色を変えることなく静かにその一部になった。  この川は、いつか大西洋に流れ込む。  私はそのことを夫の死後に知ったのだけれど、彼はきっと知っていたのだろう。 「俺が死んだら、骨はグアダルキビール川に流してほしい」  夫がそう言ったのはもう何年も前のことだから、今となってはどの程度本気だったのかは分からない。でも、遺言を残せるような去り際ではなかったので、確認のしようもなかったのだ。  55歳で早期定年退職した夫は、肩の荷を下ろして間もなく脳梗塞で他界した。  日課になった犬の散歩に出かける夫を「いってらっしゃい」と見送った。その後ろ姿が最後になるとは、夢にも思わなかったのに。路上に倒れているところを発見された夫は、搬送された病院でそのまま息を引き取った。  死神と呼ばれた彼は、その鎌から手を離したとたん、本物の死神に連れていかれてしまったのだ。  若い頃なら、私だって号泣しただろう。でも、あまりに突然のことで、喪主として夫の葬儀を終えてもまだ、私には彼がもういないという実感が湧かなかった。 「お墓、どうするの?」  四十九日の法要の後、義姉にそう聞かれてハッとした。夫は次男で、入れる墓がない。義姉としては、夫を本家の墓に入れてやるつもりはないぞと、牽制する意図もあっのだろう。私はその時になってようやく、かつて夫が遺灰をグアダルキビール川に撒いてほしいと言っていたことを思い出した。  新しい墓など買っても、子どもたちに負担を残すだけだろう。その日から私は、夫の希望を叶えつつ、周りに迷惑をかけない遺骨の供養方法を調べ始めた。  業者に粉骨してもらった夫の遺骨は、驚くほどコンパクトになって帰ってきた。これで全部ですかと、電話して聞いてしまったくらいだ。それを小分けにして小瓶に詰め、5日間の滞在中に少しずつ撒くつもりでスーツケースに入れた。  面倒な法的手続きは、娘が全てやってくれた。  何かとオプションをつけて葬式を高額なパックにしようとする葬儀屋に、毅然とした態度で接してくれたのは、まだ就職したばかりの息子だった。 「二人ともすごく、頼りになったのよ。あなたの子どもは、立派に成長しましたね」  子どもの自慢など、他の人にはできない。夫の一部が流れて行った川に話しかけると、 「俺たちの子どもだよ」  そう言う、夫の声が聞こえた。穏やかで落ち着いた声色。死神と呼ばれた、優しい家庭人。  遺骨をすべて撒いたら、この声は聞こえなくなるのだろうか。子どもたちに空耳だと言われ、カウンセラーを紹介され、しまいには呆れられた夫の声は。  それでもいい、私はそう思った。  それはきっと、吉兆だ。  子どもたちはいつか巣立つ。そのときに、一人になるのが不安だった。一人残された、と、実感するのが怖かった。夫が生きているときには、そばにいないときでも寂しくはなかったのに。  帰国したら。  夫がいい顔をしなかったから我慢していたことを、いろいろやってみよう。まずは、ピアノを習うのだ。それから、スキューバーダイビングをしてみたい。25年ぶりに、商店街のみんなでワイワイやるのもいいな。  好きな服を着て、好きなように生きよう。ひっそりと目立たないようにしている必要なんてない。  私はもう、死神の妻ではないのだから。 「文句なら、私がそっちに行ってから聞くわね」  そう言うと、ストレスから解放された夫が、声もなく笑ったように感じた。  彼が愛したアンダルシアの太陽が、一人でも輝ける、と、私の背中を押してくれている気がした。 【了】
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