溺れる綺麗な白魚へ

安普請のアパートの2階で、恵美と同棲を始めた数日後。梅雨入りして、土砂降りの雨が降った。
朝から晩まで降り続く雨にうんざりしながら、黒いコウモリ傘を差しながら僕は帰路を急いでいた。とっぷりとした真っ暗闇だ。面白みのない会社員の「勝負服」であるスーツと革靴を身に着けていたから、水たまりに足を取られないようにだけは気をつけてはいたけれど。

「ただいま～。…あれ、恵美？いないのか？」

部屋が暗いし、カーテンもしまっていない。けれど、スーパーにも蛍の光が流れるほどの時間帯に、こんな雨の中出かけることがあろうか？
とりあえず明かりを点け、うろうろと部屋ーー家賃はケチったものの、一応2DKを借りているのだーーを覗いて回り、黒いロングヘアの彼女を探していると、思いがけない光景を目にして僕は思わず小さく声を漏らした。

ーー彼女は一人、小さな屋根しか無いベランダでずぶ濡れになっていたのだ。

「おい、恵美！何やってんだ、風邪ひくぞ」

窓を開け、恵美に少しだけ荒い口調で声をかけた。…正直、彼女の気が触れたのではないかと怖かったのだ。
しかし、恵美は少しだけこちらを振り返り、いつもどおりの微笑みを僕に返した。その姿がまるで陸に上がった人魚姫を連想させて、何だか綺麗で目が離せなくなった。

「昔、おじいちゃんが言っていたわ。ーー”雨の日は世界が溺れているんだ”って。地面は為す術なくぐしょ濡れになって水を吸って、動物は植物に隠れたり巣に籠もったりする。ある意味、一番有機物が無力な時だと思わない?」

恵美は僕を手招きして、ベランダに呼び寄せようとした。でも僕は動けなかった。スーツの型崩れを気にしたとかではなくて、本当に足が動かなかったのだ。

「親元から離れて自由になったら、一回だけ私も雨に思い切り濡れてみたかったの。傘っていう無機質な作り物を捨てて、自然体で振る舞ってみたかった。…ねぇ、ほんとに凄い開放感」

もう僕は言葉を発さなかった。ただ恵美の気が済むまで、じっと雨に溺れ続ける彼女を眺めていた。
僕は濡れていないはずなのに、水滴を滴らせる恵美を見つめながら雨音を聞いていると、仄かな肌寒さを感じた。結局五感は互いに影響しあっているのだ、といういつかの講義の内容を思い出していた。

「ふふ、気持ちよかった。…シャワー浴びてくるね」
「湯船にもゆっくり浸かれよ。絶対明日具合悪くなるから」

僕が持ってきたバスタオルで髪を拭いた後、恵美は室内に戻って、風呂場に向かった。その背中を追って視線を動かすと、僕が帰り道で差してきた、無愛想なコウモリ傘がしずくを垂らしている。玄関の扉に立てかけたまま放置されていたのだ。「そういえば、うちにある傘はほとんど黒とか茶色だったな」。そう気付いた時、僕はつい恵美に呼びかけていた。

「ーー今度、もっと綺麗な傘を買いに行こう。恵美が差してもおかしくないやつ」
「あら、本当に?そんなつもりじゃなかったのに。別に傘が嫌なわけじゃないのよ。でも…そうね、今あるやつじゃ、あいあい傘もロマンティックに見えないから」

やがて風呂場から水音が聞こえ始める。僕はインターネットで最近の傘の流行を調べていた。雨に濡れなくても、恵美の美しさを引き立てる事ができるとびっきりを探して。

<今夜のぐしょ濡れの君を見て、また僕は恋をし直したようだった。>