act.25

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act.25

<side-CHIHARU>  泣きそうな表情を浮かべたシノさんは、俯いてしまって緩く首を横に振った。  その様子を見て、僕は悟ったんだ。   ── ああ、ダメなんだって。  案の定、シノさんは俯いたまま、唸るように呟いた。 「ごめん・・・ごめん、千春・・・」  シノさんは一瞬顔を上げて、僕を真っ直ぐ見て、早口で「凄く嬉しいけどでも・・・」と言うと、すぐにまた泣き出しそうなほど顔を歪めて、頭を垂れた。 「ダメなんだ・・・。今の俺じゃ・・・今の俺じゃ、ダメなんだ・・・」  今、目の前には、僕の表情を注意深く窺いながら、アイスティーをストローで啜っている儀市がいる。  これまで能面と言っていいほど無表情だった僕は、儀市に視線を向けながらも、その実、どこか別の世界の風景を見つめている心地だった。 「・・・ハル?」  怪訝そうな声で儀市に声を掛けられ、僕の中の何かが“切れた”。 「ウガーーーーーー!!!」  突如僕は、自分でもびっくりするような声を出して、狼男のように両手で空を掴む仕草をすると、そのままカフェテーブルの上に突っ伏した。  儀市が、僕がテーブルに突っ伏す前に、僕の前に置いてあったコーヒーカップを「おっと」と寄せてくれたので、なんとかそこら辺にコーヒーをまき散らすことは避けられた。 「何、その反応。いきなり呼び出しておいて、随分面白いものを見せてくれるね、ハル。見ない間に変わったな、君。そういうキャラだったっけ」 「 ── うるさい」  僕はテーブルに伏したまま、言い返した。  静かにざわめくカフェの中の視線が僕らに集まっていることは十分わかってはいたが、そんな視線には構ってはいられなかった。  昨夜のシノさんの言葉が、僕の頭でリフレインする。   ── ごめん、千春・・・ダメなんだ・・・。 「一体全体どういうこと?」 「・・・言いたくない」  儀市の質問に僕がそう切り返すと、儀市が「はぁ?」と不機嫌そうな声を上げた。  儀市も僕と同じように「俺様」な性格の男だから、不機嫌になるのは当然だろうね。  僕は机に伏したまま、モゴモゴと言った。 「本当は葵さんを呼び出したかったけど。葵さん、地方公演の真っ最中だから」  僕の頭上で儀市が溜息をつく。 「葵さんの代わりに、僕で我慢ってか? 言ってくれるねぇ。僕、さほど暇人でもないんだけどね」  僕は、ゆうるりと身体を起こすと、儀市に負けないくらい深い溜息をついて、緩く首を横に振った。右手で顔を覆って、言葉を吐き出す。 「・・・ごめん」  儀市が目を見張る。 「凄い。あの澤清順が素直に謝ってる。 ── 更に珍しいものを見てしまった。本当に君、変わったんだなぁ」 「儀市、ホント、うるさいよ」 「だとすると、君の今付き合ってる彼氏は凄いね。篠田さんだったっけ? 彼のせいなんだろ? 君がそんなに変わったのは」  儀市の口からシノさんの名前が出て、僕の心臓はドキリと跳ね上がる。  僕は無意識のうちに、苦々しい表情を浮かべていたらしい。  儀市に何もかも見透かされてしまった。 「ハル、君、篠田さんと何かあったか?」  ぐ。  僕は思わず言葉に詰まる。  カフェのあちこちから、若い女の子から熟女までの密やかな黄色い声が聴こえてきて、それがなぜか僕を益々憂鬱にさせる。  ゲイ同士の四方山話を眺めて、何が楽しいというのか。  儀市はまたふぅと溜息をついて、僕の前にコーヒーカップをスススと寄せた。 「ま、コーヒーでも飲んで、落ち着いたら」  僕は言われるがまま、コーヒーを啜った。  本格的なドリップコーヒーが、僕の息苦しかった胸元の緊張を幾分かは緩めてくれる。 「で? 篠田さんと別れたの?」  僕は、コーヒーを吹き出しそうになった。 「ち、違う」 「違うの? まぁでも、その反応見てたら、いつも捨てる側の君がするような反応じゃないしね。別れたんじゃないのなら、一体なんなの?」  僕は、う~んと言い淀んだ。  それを見て儀市が片眉を上げ席を立とうとしたので、僕は反射的に「言う。今、言うから」と声に出していた。  儀市はニヤリと笑みを浮かべている。  ああ、これって完全にいつもと立場が逆だ。  儀市がフランスに行く前は、どちらかというと恋愛に一喜一憂していた儀市を、僕がからかって遊んでいたのに。 「一緒に住もうって言ったら、断られた」  一瞬、沈黙が流れた。  その沈黙を破ったのは、案の定、儀市の方だったのだが。 「えっ、え~~~~~~~~?!」  本気で驚愕の表情。  僕の方こそ、いつもクールな儀市のそんな顔、見た事がない。 「断られたの?! ハルが??! ってか、そもそもそんなこと、本当に言った訳? 君が?!」  凄いリアクション。  僕よりむしろ、儀市の方が動揺してないか?  儀市は、「信じられない」と散々言い散らした後、「あの篠田さんって人、すごぉ~い・・・」と静かに呟いた。  シノさんが凄いのなんて、そんなの当たり前だろ。  僕が心底惚れ込んでる人だぞ。  憮然とした表情でコーヒーを啜る僕とは対照的に、儀市はなぜかキラキラした顔つきで、アイスティーを一気に飲み干すと、大きく肩を動かして深呼吸した。またいつもの儀市が帰ってくる。 「凄い、なんか感動。今日呼び出してもらえて、本当によかった。歴史的一瞬に立ち会った気分」 「大げさだな」 「いや、大げさでもなんでもないよ。あの澤清順が、ついに身を固めようと決心した訳だからね」 「いや、だから断られたんだ」 「その割には、元気じゃん」   ── さすが儀市。・・・非常に、鋭い。  そう。  僕は意外にも、シノさんから拒絶された割に、そこのことに関してからは、さほどダメージを受けていなかった。  もちろん、まったくショックを受けなかったという訳ではない。  昨夜、シノさんに「ダメなんだ」と言われた後、なんて言っていいかわからなかったし、お互い、しばらくそのまま動けなかった。  でもそのまま洗面所にいたんじゃ、シノさんの身体が冷えてしまうと思って、僕はシノさんの身体を起こすと、シノさんを寝室まで連れて行って、ベッドに寝かしつけた。  シノさんはずっと「ゴメン」って言い続けていたけど、僕は「いいから」って返して、シノさんに早く眠れるようにと寝室の明かりを消して、僕は外に出、戸を静かに閉めた。  シノさん、本当に泣きそうだった。  だから、断られたことがショックというより、シノさんが純粋に心配で、そちらの方が昨夜は気になって仕方なかった。  大丈夫だって、シノさんは言ってたけど。  きっと大丈夫じゃなかったんだ。  シノさん、何でも自分で抱え込んでしまう質だから。  多分、僕を含め、周囲に心配をかけまいと、何でも「大丈夫」って言ってしまうんだ。  だから、断られたことよりもシノさんが僕に辛い胸の内を言ってくれなかったことの方が「効いてる」。  僕って、そんなに頼りないのかな。  まぁ僕は、今まで普通に働いたことがないから、確かに頼りにならないのかもしれないけど、でも・・・。  やっぱり、頼ってほしいよ、シノさん。  僕は、シノさんに支えてもらうだけの僕じゃなく、シノさんを支えていける僕になりたいんだ。  昔の無駄なプライドだけやたら高かった僕なら、いわゆる「恥を忍んで」自分からしたお願いを断られた段階で、更に荒れた生活に堕ちるか、「どうせそんなものさ」とまた諦めの境地を極めまくり自分の殻に閉じこもるか、どちらかだっただろう。  けれど今や僕は、自分の受けた傷の心配はさておき、自分を拒絶した相手のことを心配できるような人間に生まれ変わったんだ。  これが、人間的成長っていうんだろうか。  それとも、これまでまともな人間でなかったのだから、ようやくまともな人間になったってことか。   ── そんな風に僕を変えてくれたのは、シノさん。  シノさんにちょっと拒絶されたからって、今の僕はシノさんを嫌うことなんて、とてもじゃないができない・・・。 「彼は、『今の俺じゃ』って言ったんだね」  儀市に昨夜の一幕を一通り話すと、儀市はそう繰り返した。  僕が「ああ」と頷くと、儀市は「なるほどね」と呟いた。 「だからまだ元気なのか」 「うん・・・まぁ、そういうこともあるかもね」  儀市が言わんとしていることは、僕も既に思っていたことだ。   ── 今の俺じゃダメ。  ってことは、今じゃなければ「いい」可能性もまだあるってことだよね。  きっと、タイミングがあわなかったんだ。  そうだよね、シノさん。  だから今僕がすべきことは、ただ黙ってシノさんを支えること。  そうすれば、いつかシノさんだって、僕を頼ってくれるようになるよね。  僕はシノさんと、肩を並べて歩いて行けるようになりたいんだ・・・。      <side-SHINO>  窓の外を過ぎていく街の景色をぼんやり眺めていたら、運転席の浅川が「大丈夫ですか?」と声を掛けてきた。  ”大丈夫ですか?”  昨夜から今にかけて、もう何度言われただろう。 「ん?」  俺が運転席の方に視線をやると、浅川は前を見たまま「なんか今日、元気ないから」と言った。  浅川は、配送部の若手社員だ。  ルックスは俺と全然違うタイプの子だが、彼を見ていると自分の若い頃を思い出す。がむしゃらに配送の仕事をしていた頃の自分を、だ。  配送をかねて営業に回る時は、浅川と組むことが多い。  浅川は、普段の俺のことをよく知っている。だからこその、この発言なのだろう。 「そうか?」  俺がそう返すと、丁度赤信号に引っかかって車が止まる。  浅川が俺を見た。 「だって、昼飯も全然食べてなかったじゃないですか。今も声がいつもより小さいし・・・」  確かに。  浅川と共に入った牛丼屋では、半分以上も残してしまった。  何だか今日は喉が詰まっている感じがして、食べ物が通る気がしなかったんだ。  幸い今朝はまだそれほど「詰まった感」はなくて、千春の用意してくれた朝食はしっかり食べてきたので空腹感はなかったが、何だか胸焼けがする。胃酸がじわりと出ている感じ・・・。やはり昼飯をちゃんと食べた方がよかっただろうか。  今朝の千春は、不思議といつもと同じ様子だった。  夕べ、折角千春が「一緒に住もう」って言ってくれたことに対して、俺は断ってしまったというのに。  千春があまりにも普段と同じ様子なので、昨夜言われたことは夢だったかと思ってしまったぐらいだ。  でも、千春は確かにそう言ってくれた。  川島に言われたことを引きずっていた俺を慰めてくれるように、「一緒に住もう」と。  一瞬凄く嬉しかったけど、すぐに自分のことが猛烈に情けなくなって、気づくと俺は首を横に振っていた。  これ以上、千春に迷惑をかけてられないって思った。  食事の準備はおろか、洗濯や掃除まで時折してもらってる現段階で相当迷惑をかけてるのに、一緒に住み始めたら「たまに」が「毎日」になるわけで(食事は、今もほぼ毎日だけど・・・)。  これが結婚した夫婦なら、俺が稼いで奥さんを養う代わりに・・・というところだけど、千春はむろん専業主婦ではない。俺が養ってる訳じゃないし、こんなこと言うのは下世話だけど、千春は俺より稼いでる。  千春は「僕の方が暇してるから」と言ってくれてるが、きっと俺は千春の時間を奪ってるよな。 ── そんなの、フェアじゃない。  きっと昨日の昼までの俺なら、千春の提案に嬉々として「うん」と頷いていただろう。  でも川島から厳しいことを言われて、まるでガツンと頭を殴られたような心地になった。  川島に直接言われた訳じゃないけど、「お前は今の状況に甘え過ぎなんじゃないのか」と言われたような気がした。  いや、実際、俺は今のこの状況が心地よ過ぎて、全く足下が見えていなかった。  だからこそ、川島の抱えていた問題に気づくこともなかった。  あいつは一人で、随分悩んでいたに違いない。  その鬱憤が昨夜一気に噴出したんだ。  今朝、顔をあわせた川島は、昨日の川島と違っていた。  互いにバツが悪い感じで、でも俺から「おはよう」と声を掛けると、川島も「はよ」と返してくれた。  そしてその後、川島が低い声で「昨夜は悪かったよ」と言った。  思わずほっとしてしまった俺だったが、川島は俺が「俺の方こそ・・・」と返事を返す前に「外回り、行ってくるわ」と言って出て行ってしまった。   ── まだ、川島、落ち込んでるのかな・・・。  俺が川島の出て行った方をずっと見ていると、田中さんから「どうしたんですか?」と声をかけられた。  振り向くと、田中さんが心配げな顔をして彼女の席から俺を見ていた。  田中さんの隣の席の課長は、その時はまだ姿を見せてはいなかった。 「昨夜、川島さんと会っていたんじゃないんですか?」  そう訊かれ、俺は苦笑いした。 「電話では話したんだけどね。直接会ってはいないよ」 「え、そうなんですか? 私てっきり二人で飲みに行ってるものと思って。じゃ、成澤さんに間違ったこと教えちゃってたんですね、私」 「千春?」 「ええ、昨夜、雨が酷いからって会社まで迎えに来てくださってたんですよ」 「そうだったのか・・・」  昨日、千春はひと言もそんなこと言っていなかった。  そんなことも知らずに俺は、雨の中、ダラダラと歩いて帰ったんだ。雨に打たれたい気分だったから。  結局はずぶ濡れになっちゃって、千春に随分手間をかけさせてしまった。  なんだか千春に悪いことしちゃったな・・・。 「じゃ、会えなかったんですね・・・。成澤さん、心配そうでしたよ。携帯、繋がらないからって」  田中さんにそう言われて、一瞬壊れた携帯のことが頭に浮かび、また憂鬱な気分になった。   ── ホント俺、何から何までダメダメだ。  信号が青になって、また車が進み始める。  今、スーツの内ポケットには壊れた携帯が入っていた。  胸には会社の携帯電話をぶら下げているので、会社との連絡は特に問題ない。  今日、仕事が終わってから、間に合えば携帯屋に寄って帰るつもりだった。  がたがたと車が揺れ、後ろで瓶が擦れあう音が聞こえてくる。  浅川はハンドルを切りながら、明るい口調でこう言った。 「なんか篠田さんが元気ないと、調子狂いますから。しっかりしてくださいよ!」  俺は「わかってるよ」と苦笑いで返した。  ああ、でも、なんだかぼんやりする。  本当に仕事に集中できてないというか・・・・。俺・・・。  「篠田さん! 篠田さん!!」  身体を揺すられて、俺はハッとした。 「・・・ん?」  俺は身体を起こした。  車は、取引先のスーパーの駐車場に停まっていた。 「あれ・・・? 俺、寝てた?」 「寝てたんじゃないでしょ?! 軽く気を失ってたんでしょ?!」  俺の顔を覗き込んだ浅川が、血相を変えてそう言った。 「篠田さん、物凄い熱、出てますよ! 具合悪いなら、そう言ってくださいよ!」  浅川は、「取り敢えずヒエピタ買って来たんで、これ額と首に貼っといてください」と言いながら冷却剤を袋から取り出すと、有無を言わさずに俺の額と首にそれを貼付けた。  確かに、ひんやりして気持ちがいい。  やっぱり熱、ちょっと出てるのかな。 「どこか病院いきますか? いつも行ってる病院、どこです?」 「そんな、悪いよ・・・。午後も予定が詰まってるのに」  俺がそう言うと、浅川に真剣な顔で怒られた。 「何言ってるんですか! そんなに切羽詰まった納品はありませんよ。調整はできます。どうします?」 「 ── 病院に行くほどではないよ・・・」  浅川は疑り深い顔つきで俺を見る。  俺は苦笑いを浮かべると、「じゃ、会社に戻ってくれるか? 社の救急箱から解熱剤貰うようにする」と返した。  ようやく浅川は納得したように一回頷く。 「わかりました」  浅川は、エンジンをかけた。  会社に帰ると、案の定、田中さんと課長にどやされた。 「体調が悪いのに、無理に動くな」  でも課長、熱ぐらい・・・と俺は返したが、「程度による」と顔を顰められた。  田中さんが持っている体温計は、38.5℃と表示されている。  小規模なうちの会社には医務室はなく、各フロアに置き薬の箱が置いてある。体温計は解熱剤と共に、その救急箱から持ってこられたものだ。クスリはさっき、有無を言わさず飲まされた。 「これはもう強制送還ね」  田中さんがそう言う。  ── なんだかその台詞、どこかで聞いたことがあるな・・・・・  そんなことをぼんやりと思っていたら、田中さんに声を掛けられた。 「・・・え?」  なんて言われたらかよくわからなくて訊き返すと、田中さんは「もう・・・」と溜息をついた。 「成澤さんに迎えに来てもらってくださいと言いました」 「なんだ、迎えに来てもらえる人がいるのか」  課長がちょっと驚いた顔つきで、田中さんを見ている。 「ええ、多分迎えに来てもらえると思います。だって、こんな状態で歩いて帰せないでしょ? 駅のホームから転落しちゃいますよ」  田中さんがそう答えると、課長も「確かにその通りだな」と頷いた。 「おい、迎えに来てもらえる人がいるんなら、そうしてもらえ。外せない仕事は田中さんに言って処理してもらえばいい。熱が下がるまで会社に出てくるな」  課長はそう言い捨てると、会議に行ってくると言いながら課のブースを出て行った。  田中さんは、俺のスケジュール帳を捲りながら、「もう観念して、成澤さんに電話してくださいよ」と言う。  俺は、自分の席に座り込んだまま、緩く首を横に振った。 「実は携帯、昨夜、雨に濡らしちゃって・・・」  今度は田中さんに血相を変えられた。 「え?! 携帯壊しちゃったんですか?! もう、ホントに何やってるんですかぁ・・・」 「 ── ホント・・・、何やってんだろうね、俺・・・・」  そう言う俺を、田中さんは何を思ったのか、しばらくじっと見つめていた。  彼女は俺のデスクの電話を取ると、「取り合えず、篠田さんのお家に電話してみますね」と言いながら、プッシュボタンを押した。  多分、千春は俺の家にはいない。昼間は、千春の仕事部屋にいるか、出版社にいることが多いから。  でも俺、千春の仕事部屋の電話番号すら覚えてない・・・。 「 ── ああ、やっぱり留守電になっちゃいました。しょうがない! 私が車で送っていきますよ。多分、配送部に一台ぐらいは残ってると思うから」  へぇ、田中さん、車の免許持ってたんだ・・・・。  また・・・段々ぼんやりしてきて・・・。 「クスリが効いて来てるんですよ。配送部に車の手配している間、少し眠っててください」  田中さんの声が、いやに遠くに聞こえた・・・。  結局、俺は田中さんの運転する車に乗せられて、自宅まで帰った。  車の中で田中さんは珍しく無口だったが、車を走らせてしばらくの後、ひと言「らしくないですよ」と言った。  俺は田中さんを見たが、田中さんは俺の返事を待っている風でもなく、また俺は車の揺れに揺られて、うつらうつらとなってきた。  そこから後は、記憶が曖昧だ。  次に気がついたのはもう家の前で、「ああ、よかった!」と言う田中さんの大きな声でぼんやりと目が覚ました。  車のドアが開いて、締まる音がする。  ごろりと頭を窓側に動かして外を見ると、マンションの上がり口に買い物かごを下げた千春と田中さんが立っているのが見えた。  あれ・・・? なんでこんな時間に千春、ここにいるんだろう・・・。  二人は何か話し込んだ後、二人して助手席側に近づいてきた。  コンコンとノックする音がして、ドアがゆっくりと開く。  俺がのっそりと頭を上げると、そこには今日これまでに見て来た”血相を変えた顔達”とはまるで違った、穏やかな微笑みがあった。 「 ── シノさん、おかえり」  優しげな千春の声。  俺は心底ほっとして、全身の強ばりが緩んでいくのがわかった。
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