act.10

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act.10

<side-SHINO>  翡翠庵から柿谷酒造までは、そんなに遠くない。  せいぜい3kmってところかな。  ただしもっと山の懐深い、人里離れたところにある。  山の岩清水を直接引いてくるために、その場所に酒蔵を構えたのだ。  確かにくねくねとした走りにくい道だけど、俺は嫌いじゃなかった。  左手にはあまり幅は広くないが、エメラルド色の美しい水が流れる川がずっと続いていて、右側には豊かな広葉樹林の森が広がっている。  秋になると、いい具合に紅葉も楽しめるんだ。  砂利のままの広い駐車場に車を停めて車から出ると、あのひんやりとした空気が俺の頬を撫でた。  それだけで気分がしゃきっとする。  多少寝不足気味でぼんやりしていた頭がやっと覚めたって感じだ。  千春を見ると、彼もこの澄んだ空気を気に入ったのか、大きく深呼吸をしていた。 「ちょっと肌寒いくらいですね。シノさん、その格好で大丈夫? ジャケット着た方がいいよ」  千春が再び車のドアを開けて、俺のグレイのジャケットを取ってくれた。 「サンキュー。 ── 事務所、こっちだから」  俺はジャケットに袖を通しながら、千春の先を歩いた。  事務所といっても、そこは古くからある酒蔵の一部で、入口はちょっと立て付けの悪いガラスの引き戸だ。  事務所の入口の脇には、柿谷酒造の大吟醸銘柄『薫雫(くんな)』の樽酒が3つ、ピラミッド型に積まれてある。いかにも酒蔵に来たって感じだ。  建物は事務所を中心にして、左手に酒蔵、右手に居住スペースがあった。  事務所の奥はうなぎの寝床のようになっていて、事務所の後ろに一間挟んだ後長い廊下が続き、その先には中庭と倉庫がある。  むろん酒蔵にも直接行けるがそこはやはり聖域なので、余程のことがない限り、俺は必ず事務所にまず挨拶をしてから入るようにしていた。 「ここが事務所の入口」   俺が千春を振り返ると、千春は「うん」と頷いたが、その顔は緊張してるようだった。  この旅に出て初めて気がついたのだが、千春はかなり人見知りをする。  俺も結構そうなのだが、俺とは質が違うような気がする。  俺の場合、初対面の人間ならどんな人でも同じような感じなのだが、千春の場合は相手によって態度が違う。  どうも、千春が興味のない人間に対しては一切人見知りなどしないのだが、千春がそうすべきでないと考えた人に対しては激しく人見知りをする。  しかも、千春が「そうすべきでない」と判断するのは、大抵が“俺絡みの人”だ。  例えば、翡翠庵でもそうだ。  サインを求めてきたあのカップルには一切人見知りをしなかったが、俺が柿谷の奥さんを通じて予約を入れた翡翠庵の女将や仲居さんには激しく人見知りしていた。  これってどういうことなのかな?  千春が、俺の身の回りの人のことを大事にしなきゃって思ってくれてる証拠なのかな?   ── だと、いいけど。  現に今、柿谷酒造の皆と顔をあわせることになって、これまでの中で一番緊張している様子だったから。  もし俺の仮説が正しいのなら、俺の大好きな柿谷酒造の人達を千春も大切に思ってくれるってことだろ?  俺は少し微笑みながら、千春の肩を軽く叩いた。 「そんなに緊張しなくても大丈夫。皆いい人達ばかりだから」  千春は少し笑ったが、その笑顔はちょっと強ばってた。  俺は、ガラス戸をガラガラと開けた。 「こんにちはー」 「あら! 篠田くん!」  娘の百合枝さんが、張りのある声で返してきた。  百合枝さんは姿こそ親父さん似だが、性格は完全に奥さんの血を引いていた。  明るくて、声が大きい。  身体付きは親父さんに似て細身だったが、しゃべり方や声質はなぜか奥さんにそっくりだった。 「今日はスーツじゃねえんだぁ! 私、初めで見るかも。篠田くんの私服姿」 「いや、そう言われるとちょっと恥ずかしいです・・・」  俺が頭を掻くと、「ううん。予想してたよりカッコいい。意外」と百合枝さんは言った。   ── まぁ、俺の私服は大概千春に頼るところが大きいので、俺の手柄というよりは・・・。  俺がそう思いながら後ろに視線をやると、百合枝さんが千春の存在に気がついた。  千春はまだ、ガラス戸の外に突っ立っていた。 「ひょっとして、一緒に翡翠庵さんに泊まったっていうお友達?」  百合枝さんがそう訊いてくる。きっと奥さんから聞いたんだな。 「ええ、そうです」  俺が頷くと、百合枝さんはふいに笑い出す。 「どうしたんですか?」 「いや、お母さん、完全に勘違いしちゃってるわと思って」 「勘違い?」 「んだべ。お母さんったら、篠田くんに電話貰った後、血相変えで翡翠庵に電話してたからどうしたんだべって訊いたら、ついに俊ちゃんに恋人ができたってそりゃもう、大騒ぎしてて・・・」  お母さんったらとんだ早とちりよねぇ、と百合枝さんは笑い続けるので、俺は思わず「いや、百合枝さん、それが・・・」と言いかけた。  そこに千春が割って入るように近づいて来て、「成澤千春です。初めまして」と挨拶をして、軽く頭を下げた。  明らかに、俺が言おうとしたことを遮ったな。  俺が千春を横目で見ると、千春はいつもの魔性の微笑み ── つまりどんな人間も虜にしてしまうキラースマイルだ ── を浮かべつつも、物凄く力のある目つきで視線だけ俺の方に向けた。   ── シノさん、それ以上口を開かないで。  まるで脳みそに直接言われた感じがした。  俺がその目に怯んでると、千春は柔らかな口調で「随分歴史を感じさせる素敵な酒蔵ですね」と百合枝さんに向かって声をかける。  百合枝さんは、突然現れた「俺の友達」があまりにハンサムなんで、若干頬を火照らせながら、「ええ、そうなんですよ。父で三代目になります」といつもより高めの声でそう答えている。   ── 百合枝さん、あなた既婚者でしょうに・・・(汗)。  俺がう~んと唸っていると、奥の部屋と事務所を隔てる木製の引き戸が開いて、奥さんが姿を現した。 「よぉく来たっぺ! 待ってたよ。百合枝の奇妙な声が聞こえてきたんで、すーぐにわかったわ」 「なによ、お母さん、奇妙な声って」 「奇妙言うたらあれだべ。四十も超えたええ年のくせにキャピキャピした声よ。和人さんが聞いたらさぞガックリするだべなぁ」  奥さんはそう言いながら笑うと、千春の顔を見た。 「あれ、あなた。あん時の」 「?」  千春が再度横目で俺を見る。  なんで奥さんが自分を知ってるんだ、といった表情だった。  それを奥さんも察したらしい。 「ほら、デパートの地下で。薫風のサンプルボトル配布会に来てくれて、アンケートまでちゃんと書いてくれてただべぇ? あの時、俊ちゃんに『あの人、お友達じゃねぇの?』って訊いてたんだべ」  奥さんはそう言う。  それを聞いて千春が、「そうだったんですか」と笑顔を浮かべた。  奥さんは小さく息を吐くと、「そうねぇ。あなたが、俊ちゃんと翡翠庵にお泊まりしたお友達かねぇ」と言って、改めて千春を見た。その視線に一瞬緊張した千春だったが、奥さんがすぐに温かで大らかな笑顔を浮かべたので、ホッとしたようだった。 「俊ちゃんもこんな素敵な人を連れてきてくれて、おばさんも嬉しいわ」 「なによ、お母さんだってすっかりのぼせちゃってるんじゃない! それに、篠田くんが恋人連れてくるって騒いでたのもお母さんが最初だべ?! それも見事に外れちゃって。お母さんの言ったことを信用した方が間違いだっぺ」  顔を赤くして百合枝さんがそう言う。奥さんはきょとんとした顔をしてそんな百合枝さんを見た。  妙な沈黙が流れる。 「なに、ホントのことでしょ・・・」  百合枝さんがボソボソと呟いたのを聞いて、奥さんはプッと吹き出すと、「ハイハイ、そうやったね」と軽くあしらった。  さすが、奥さんだ。いくら百合枝さんが似てると言っても、貫禄が全然違う。   奥さんは、千春の腕に軽く触れて、「よぉーぐ来なさったなぁ。ここまで運転大変だったでしょう? 奥でお茶でも飲んでまずはゆっくりなさってくろな」と奥の部屋に千春を誘った。俺も後に続く。  千春は、まさかそんなに最初から千春の方が優先的に熱烈歓迎されるとは思っていなかったのだろう。凄く戸惑った顔をして、時折俺を見た。  でもなんか奥さんと千春の雰囲気はとてもいい感じだったし、努めて平静を装っていてもどこかオロオロとしてる千春が可愛くて、俺はそのまま放置することにした。 「おいしい羊羹があるのよ。甘さが控えめで上品な羊羹。甘いものは大丈夫け?」  「あ、大丈夫です。好きです」  へぇ。千春、甘いもの好きなんだ。  最初は奥さんに合わせてそう言ってるのかと思ったけど、実際に羊羹食べてる様子を見ると確実に好きって顔してた。  千春は、一緒に外食とかする時には、俺がひっくり返るくらい辛いものとかも平気で食べるし、お酒も強いから、辛党なんだと思ってた。  う~ん、俺って千春の知らないこと、いっぱいだな・・・。 「ひょっとしてこれ、和三盆とか使ってます?」  千春がそう奥さんに訊くと、奥さんは俺達にお茶を出しながら、目を丸くした。 「あら! わかる? そうよ。これ和三盆糖使ってる羊羹よ。まぁ、俊ちゃんのお友達は舌が繊細ねぇ! おばさん、感心したわ」  奥さんがそう言ったので、俺は一瞬、千春とのキスを思い出してしまった。  そう、奥さんが言う通り、千春の舌は凄く繊細な動きで俺を翻弄してくるんだ・・・。   ── ゴスッ! 「グエ」  突然横っ腹に千春の拳がめり込んだ。 「今、変なこと考えたでしょ」  目線を千春に向けると、完全にブラック・チハルが俺を睨んでいた。 「す、すみません・・・」  本日何度目になるかわからない謝罪の言葉を俺が吐き出すと、それを見ていた奥さんがハハハハハと笑い声を上げた。 「まぁ、仲がよぐて何よりやわ!」   ── 奥さん、今のやり取りが仲よさそうに見えたんですかね???  俺はそんな疑問を若干感じたが、そんなことを口にするとまた千春に怒られそうで、話題を切り替えることにした。 「そう言えば、親父さんは?」 「ああ、うちの人なら、魚雅に行ってっぺ。上等の魚を選んでくるって意気込んで」 「え? ホントですか?」  俺は、顔を顰めた。  海のない山間のこの町で、一番のごちそうといったらそれは、海の幸だった。  親父さんがそれを買ってくるってことは・・・。  今度は俺が、千春を見る。  千春はそれが何を意味しているか、イマイチわかっていないようだ。  この状況からして、親父さんはきっと俺が結婚相手を連れてくるって思ってるんだ。いや、それって全然間違ってないんだけど、肝心の千春はそれを柿谷の皆に黙っていて欲しいみたいだし、かといってただの友達のフリをするなんて、なんだか頭がこんがらがりそうだし、ホント、俺、どうしたらいいんだろ・・・。  俺が目を白黒させているの様子が、奥さんには手に取るようにわかったらしい。 「大丈夫よ、俊ちゃん。アタシがうまくやるから。今日はせっかく初めて仕事抜きで遊びに来てくれたんだべから、遠慮なんかせんで、ゆっくりしたっくりやぇええんよ。今夜は泊まって行くべ?」 「いいんですか? シノさんだけならともかく、僕は初めて来たのに・・・」  千春がそう言うと、奥さんは「なんよ」と千春の腕を叩いた。 「俊ちゃんの大事なお友達なら、アタシらにとっても大事なお客様だべから。ぜひ泊まっていってくろな。あの人が帰って来るまで広山さんに言って酒蔵の見学してもらってもええし、翡翠庵以外のお風呂に入りに行って来てもいいべ。ここら辺は田舎だから何にもないけど、自由にゆったり過ごしてもらったらええんだべさ」  千春はテレくさそうな笑顔を浮かべて、「ありがとうございます」と頭を下げた。  それを見た奥さんは、「そうと決まったら、俊ちゃんがいつも泊まってる部屋に荷物、上げたらいいべ。ねぇ、俊ちゃん」と言いながら立ち上がった。  そのままの勢いだと、奥さんが俺らのカバンを持って上がる勢いだったので、俺と千春は慌てて「自分達で運びますから」と奥さんを何とかその場に押しとどめたのだった。
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