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act.11
<side-CHIHARU>
僕たちは、泊まる予定の部屋にカバンを上げた。
その部屋は、奥さんに訊くと、昔、杜氏が住み込みで働いていた時に使っていた部屋だそうで、母屋の二階にあって、中庭に面した位置にあった。
今は酒蔵の規模も小さくなって、杜氏さんらも通って来ているそうだから、この部屋以外にもいくつか空いた部屋があるらしい。
中庭の景色は、ネズミ色の屋根瓦と漆喰塗りの壁が美しい酒蔵と倉庫、中庭の真ん中に植えられている松やサツキの植栽がいかにも昔ながらの日本の風景といった感じで、とても趣があった。
自分でも驚いたが、そういう空間が僕とって意外に心地のいい場所だということにも初めて気がついた。
よく考えると、僕は元々月島が好きだったし、使っている家具はアンティークなものが多いので、その点で言うと僕は古いものに惹かれるというか、そういうものを好むらしい。
お昼までまだ少しだけ時間があったので、僕は酒蔵の見学をしてみたいとシノさんに言った。
シノさんは凄く嬉しそうな顔をして、すぐに奥さんと杜氏の広山さんに頼んでみようと、僕の手を取って一階に降りた。
きっとシノさんは、僕がシノさんの世界のことに興味を持つのがとても嬉しいんだろうけど。
こうしてさり気なく手を繋がれたりとかすると、凄く焦るし、テレる。
シノさんって、30代になっても童貞だった訳だから、当然恋愛下手なんだと思うけど、こうして付き合い始めると、全然そんなことないって思う。
本人は自覚してるかどうかわからないが・・・いや絶対に自覚なんてしてないだろうが、行動や仕草の要所要所が僕のツボをついてくる。
根が正直だからか、「ありがとう」とか「嬉しい」とか「ごめんなさい」を素直に口にするし、僕のことが好きだってことも隠さない。
現にさっきだって、柿谷の人達に「僕たち付き合ってます」って宣言する勢いだったし。そんなことしたら、困るのは絶対にシノさんだから、僕はそれを防御するのに必死だ。
大体、大抵の世の中の男子って、そういうの口に出すことを凄く恥ずかしがるというか、面倒くさがるし、よほどのマメ男でない限り「釣った魚には餌はやらない」タイプの男が、圧倒的に多いんだと思うんだけど。実際、この僕がそうだったしね。
なのにシノさんは、釣った魚である僕にどんどん餌を投げ込んでくるし、そのせいで僕もついつい「シノさんの為に美味しくなるにはどうすればいいか」なんてことを最優先に考えてしまう。
だからこんなにつくせる男になっちゃってんだよな。
要するに、シノさんがそうさせるんだ。
きっと、シノさんがもし僕以外の人と付き合っても、その人も同じようなことになると思う。
シノさんだって凄く恥ずかしがり屋だし、消極的なところもたくさんあるけれど、彼の場合は一度こうだと信念を決めると、絶対に折れないんだ。
僕はシノさんのそんなところに、メチャクチャ惹かれてる・・・。
さすがに、柿谷酒造の人の前で手を繋いでるところを披露する訳にはいかず、一階に下りると僕はさりげなくシノさんの手を離した。
シノさんが僕を確認するように振り返ったので、僕は離した手で壁に掛けられている絵を指差しながら、「凄く古い絵ですね。この酒蔵の風景ですよね?」と言った。
「ああ、この絵?」
「うん」
「そう。これ、創業時にプロの画家さんに描いてもらったらしい。今で言うパースかな。時間が経って大分黄ばんできてるけど、いいよね、味があって」
「ええ、とても」
そんな会話をしていたら、ガラガラと廊下の左手にあるガラス戸が開いて、白髪で短髪の小柄な男性がのっそりと現れた。
「おお、篠田くん。来とったんか」
「広山さん!」
広山さんと呼ばれたその人は、シノさんの姿を見ると顔の皺をくしゃくしゃに寄せて笑顔を浮かべた。
僕は年配の男性がそんな表情をして笑っているところなんて見たことがなくて、ちょっと驚いた。
だってそういう年代の男性って、大抵気難しそうに口をヘの字にしてるイメージがあるからさ。
僕の身の回りにはそんな年代の男性が皆無だったらから、僕の頭の中にはそういったプロトタイプのデータしか入っていない。
「丁度良かったです。酒蔵を案内してもらおうと思って」
「案内?」
「はい。千春が見学したいって・・・」
シノさんが僕を見る。広山さんも僕を見た。
「ああ、奥さんが言ってた友達さんやな」
「成澤千春です。初めまして」
僕が軽く頭を下げると、広山さんも同じように頭を下げた。
「若い人がこんな古い酒蔵の見学なんかして、面白いかどうか、わからんけど」
そう言って笑う。
「そんなこと言わないでくださいよ、広山さん」
シノさんが広山さんの腕を押す。
広山さんはシノさんにそうされて、益々笑った。もう目なんて皺と同化してる。
「篠田くんの頼みは断れん。うちのおバァが死にかけたところを助けてくださったのは彼やから」
僕はそのことを初めて聞いて、目を丸くしてシノさんを見た。
「え、そうなの?」
僕が訊くと、シノさんは頬を真っ赤にしながら、頬をガリガリと掻いた。
「もう随分昔のことだから。そんなのいちいち言わなくてもいいですよ、広山さん」
「だって、ホントのことやから。何を照れとるん。 ── ほいたら行こか」
朗らかな広山さんの笑い声の後について、酒蔵の中に入って行った。
酒蔵の正面には、「酒林」と呼ばれる杉でつくったボール状のものが吊り下げてあった。
なんでも新酒ができたことを知らせる意味と酒の神様へのお供え物という意味で吊り下げられるもので、最初は青々としているらしいのだが、今は新酒の時期ではないので少し茶色くなっていた。
工場の中は、独特の甘い香りで満たされていて、蔵の中にはアルコール発酵させるためのタンクがずらっと並んでいた。けれど、近代的な作り物もはそこだけで、後は昔ながらの道具があちらこちらに整然とならんであった。
「うちはそんなに裕福な酒蔵じゃないから、自然と古いものを長ごう使うて酒造りをせないかんようになっとるわね。甑使うて米を蒸しとるところはそんなにないと思うよ」
広山さんがそう言いながら見せてくれた木の大きな樽は、大人が十人以上入れそうなぐらい大きなものだった。
一方、麹室と酒母室は仕込みのシーズンではなかったので閑散としていた。
広山さんは中に入っていいと言ってくれたが、きっとここに住んでいる酵母菌で酒の味が決まるんだと思って、僕は入るのを遠慮した。
酒蔵を見学しながら聞いたところによると、元々広山さんの祖先は関西の方でお酒を造っていたらしく、家系の歴史からして杜氏の生き字引のような人だった。
顔はシワシワだったが手のひらはツルツルで、どうしてか理由を聞くと、麹を蒸したお米に揉み込む作業をしていると、自然と手が綺麗になるらしい。
最後に、原酒を味見させてもらった。
原酒は水を加える前のアルコール度数が高い酒で、ほんの少し琥珀がかった色をしていた。
シノさんは、「これ飲むと、俺はすぐに酔っぱらっちゃうから」と辞退したが、僕は二つ返事で飲ませてもらった。
「新酒の時期やったら、熱処理してないほんまもんの生原酒が飲めたんやけどな。今の時期はただの原酒しかないわ」
原酒は、凄く濃厚な香りでコクもあり、荒々しい辛口の酒だった。確かに度数はかなり高そうで、シノさんが一発でノックアウトされると言った意味がわかるような気がした。確かに原酒は、男臭い飲み物のように思う。
僕は普段洋酒ばかり飲んでいるのだが、日本酒がこんなに個性的だとは思わなかった。
僕らが酒蔵を出た時に丁度、柿谷酒造のご主人が魚屋さんから帰って来た。
「お! なんだ、蔵を見学すっところか」
細身だがいかにも頑固そうなカミナリ親父といった風情の人だ。
「社長、もう今終わったところやわ」
「なに?! そりゃぁ・・・。帰ってくるのが遅かったべか。魚雅が鮎の一日干しもあっと言うから、あいつのいとこンちまで連れて行かれとったんだわ」
「鮎の一日干し?!」
シノさんが目を丸くする。
柿谷さんは、「そうよ。うまいんだべ。これが結構」と顔は不機嫌なままだったが、声は上機嫌な感じでそう言う。
「で、嫁さん、どうした?」
柿谷さんにそう言われ、シノさんは僕を見る。
僕はえ?!っと思って目を瞬かせると、ゴホンと咳払いして、「すみません、お嫁さんとはいかなくて・・・。成澤と言います」と挨拶をした。
柿谷さんは、明らかにがっかりしたかのような表情を浮かべた。
「なんだ~・・・。嫁さん連れて来たんじゃなかったか・・・」
「すみません」
僕が謝ると、広山さんが「あんたが謝る必要はないわ。早とちりした社長が悪いんやから」と言う。
どうも広山さんの方が柿谷さんより年上らしく、柿谷さんも広山さんには反論しなかった。
そうこうしてたら、奥さんが事務所から出て来た。
「まぁまぁ、あんた、帰ってきとったの。魚、どうした? 早く、冷蔵庫に入れねぇと」
「なんだ、お前が騒ぐから、こっちもうまい具合にのせられたっぺや。てっきり俊介が嫁さんを連れてくると思っとったのに」
「いいじゃねぇの。あんた、俊ちゃんが仕事抜きでこんな山奥まで、大事なお友達連れて来てくれたのよ。感謝しねぇべと。もうお昼も随分過ぎちまったから、ご飯を用意してんべので、食べてくろな」
奥さんは、柿谷さんを完全に置き去りにして、僕の手を取って事務所奥の部屋まで引っ張って行った。
僕は、こんな年配の女性からこんな風にされたことは祖母以来だったので、何だか胸がじんわりしてしまった。
「ごちそうは夜に取っておいてっから、お昼は普通の家庭料理だけど。ごめんねぇ」
確かにそこに並んでいたのは、決してレストランでは出てこなさそうな和食のおかずが並んでいたが、僕に取ってそれは酷く懐かしくて、まさしく「ごちそう」だった。
中でもやはり酒蔵というだけあって、野菜たっぷりの粕汁は美味かった。思ったよりさっぱりとしていて、発酵臭も少なく、意外に食べやすい。
それを奥さんに言うと、「あんまり大きな声では言えねぇんだけどね」と大きな声で言った。
「うちの酒粕はあんまりおいしくねぇのよ。酒粕としては味が薄いというか。だから、酒粕ファンには評判が悪いの」
「へぇ、そうなんですか・・・」
「そりゃ、うちの酒が米の旨味をみぃんな酒にしとる証拠だべ」
後からクーラーボックスを抱えて入って来たご主人が、そう言い捨てながら、そのまま廊下の先へと消えて行く。
「でも、身体にいいのはホントよ。身体がポカポカ温かくなってくっから」
確か奥さんが言った通り、昼食を食べた後しばらくは身体の芯が温かかった。
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