act.24

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act.24

<side-CHIHARU>  シノさんの同僚に二人の関係がバレてる可能性が高いと知って、僕はかなり動揺した。  降りしきる雨の中、取り敢えずシノさんの部屋まで戻ってきたけど、いろんなことを考えてしまって、どこをどう運転して帰ってきたか、記憶が定かでなかった。  僕らの関係がどういう理由かわからないけど、もう既にシノさんの会社の中で広まっていたとしたら・・・。  車の中で何度もそう考えたけど、ここのところのシノさんの様子におかしなところはなく、その可能性は低いんじゃないかって思い直した。  会社の中で男と付き合っているのがバレれば、絶対にシノさんは普通でいられないはずだから。  ここ数年でゲイに対しての理解が広まってきたとはいえ、ビジネスの世界ではそうも言えないのが現実だ。  日本の社会で力を持つのはいまだ年配の男性だし、その年代の男性は往々にしてゲイに対して拒否感を抱く人が多い。  そんな中でシノさんが「男と付き合っている」のだとバレれば、明らかに何らかの圧力がかかるはずだ。  その圧力は大抵強力で、そして陰湿な場合だってある。出世の道は断たれ、これまで通りの仕事ができなくなっていく。  僕は、そうなって行った人をもう何人も見てきた。  そして、僕がかつて愛した人はそれが怖くて、僕の元から去って行った。   ── 僕が最も傷つき、恐れを抱く、恋の終わりのかたち。  それを少し想像するだけで、僕の背筋は凍り付く。  こういう恋愛は凄く重くて、自分がそんなこと言われたらかなり引くけどでも、もしそういう理由でシノさんと別れないといけなくなってしまったら・・・。  きっと僕は「死ぬ」。  身体は死なないかもしれないけど、心が死んでしまうだろう。確実に。  僕はシノさんちのドアの鍵を開け、中に入ると、緩く頭を振った。   ── 大丈夫。大丈夫だよ。  やっぱり、ここ最近のシノさんの様子を思い浮かべてみても、いつも通りだったもの。  うん。きっと大丈夫。  田中さんの発言についてだけ、シノさんに確認をしてみればいいことだ。  そう、これはそういうシンプルな話。  自分で事を大げさにして右往左往してるだなんて、無様極まりない。   ── 冷静になろう、千春。冷静に。  僕は、ドアに凭れたままフーッと大きく息をついて、靴を脱いだ。  それから一時間経っても、シノさんは帰ってこなかった。  ダイニングテーブルに広げた雑誌から目線を上げて、壁掛け時計を見た。  同僚と飲み明かしているといえども、もう日付変更線は跨いでいる。 「シノさん、明日も仕事なのに・・・」  僕は、再度シノさんの携帯に電話してみた。  電話に出ないどころか、電源が入ってないと言われた。  シノさんは毎日必ず携帯の充電は欠かさない人だから、意図的に電源を切っているとしか思えない。  僕は急に不安になった。  もう電車もバスも動いていない時間だし。  タクシーでちゃんと帰って来れるかな。  お酒に弱いシノさんのことだ、まさかタクシーに乗って寝ちゃってるとか・・・。  僕はいてもたってもいられなくなって、再び玄関に向かった。  ドアを開けたところで、人影と鉢合わせした。 「おっと・・・」  ぶつかりそうになって思わず身を引く時、水滴が僕の手の甲を濡らした。  シノさんだった。  全身ずぶ濡れのシノさんが、そこに立っていた。 「 ── どうしたの?!」  夜中だというのに、僕は思わず大きな声を出してしまった。  シノさんはくしゃりと苦笑いして、「雨に降られたんだ」と言った。  声まで湿っぽい。 「とにかく、家に入って。早くその濡れた服、脱がないと風邪をひいちゃいますよ」  僕はシノさんの背中を押して、家の中に入れた。  靴を脱いだシノさんが廊下を歩くと、足の裏の形で水の跡がついた。  うわ、足先までずぶ濡れだなんて・・・。 「待ってシノさん! そこで服脱いで!」  洗面所のドアの前で僕がそう言うと、シノさんはゆるりとした動きで足を止め、僕の方を振り返った。 「すぐにお湯をはるから、まずはお風呂に入って身体を温めて」  僕はシノさんにそう指示を出しながら、お風呂場に入って、蛇口を限界まで開けた。そしてまた取って返すと、シノさんは丁度ジャケットを脱いだところだった。  中のワイシャツまでベッショリで、ブルーのストライプのワイシャツだったけれど、ところどころ肌が透けて見えていた。  普段なら、凄くセクシーって内心萌え萌えに萌えるところなんだろうけど、僕はそれどころではなかった。  シノさんから受け取ったジャケットの重さといったら!  袖の先から、大粒の水滴がボタボタと床に落ちた。  これ、ちょっとやそっと濡れた量じゃないよね。 「ずっと外で飲んでたんですか? 濡れながら?」  僕がそう訊くと、シノさんはぼんやりとした顔で僕を見て、「飲んでないよ」と答えた。 「え? 飲んでないんですか? 川島さんと一緒だったんでしょ?」 「川島・・・」  シノさんはそう呟くと、一瞬眉間に皺を寄せた。 「・・・いや、川島とは一緒じゃなかった・・・」  僕は一瞬見せたシノさんの表情で、何だかわかったような気がした。  シノさん、川島さんと何かあったんだ。 「とにかく、早くお風呂に入って。本当に風邪をひくから」  僕がシノさんを急かすと、シノさんは正気に戻ったようにさっさと服を脱いでいった。  僕は受け取った下着と靴下、ワイシャツを洗濯機に放り込んで、またお風呂を覗き込んだ。  よし、お湯は丁度いい量になっている。  蛇口を締めて、シノさんをお風呂場に呼んだ。       「ごめんな、千春・・・・」  ばつが悪そうに頭を少し傾けてそう言うシノさんの前髪から、また水滴が落ちる。  その様が凄く美しかったけど、でも、シノさん・・・。  どうしてそんなになるまで雨に打たれてしまったのか。  これじゃ、雨に濡れたまま、ずっと歩いて帰って来たみたいじゃないか。   ── 「みたい」じゃなくて、本当にそうなのかも・・・。  ああ、どうして僕は、車でここまで帰ってくる時に、シノさんを見つけることができなかったのか。  何だか僕の方が泣きそうになってしまう。 「いいんですよ、謝らなくても。さ、早く入って」 「ああ」  シノさんが湯船に浸かったのを見届けて、僕は風呂場のドアを閉めた。  そして僕は、タオル置き場からバスタオルを一枚取って床に広げると、そこにスーツを形を整えながら置いて、バスタオルを折り、濡れたスーツを挟み込んだ。  軽く手で押さえる。  バスタオルは、みるみる湿っていった。  ああ、これ、一枚じゃすまないかも・・・。 「ねぇ、シノさん」  僕が声を掛けると、「ん?」と普段のシノさんの声で返事が返ってきた。 「ひょっとして・・・夜、何も食べてないの?」  まさかと思って僕がそう訊くと、シノさんが「そういや、何も食べてない」と答えた。  僕は思わず顔を顰める。  でもその表情は極力声に出さず、努めて何気ない声で「なんか軽く食べる?」と訊いた。 「ああ。お茶漬けでいいよ」  すぐにそう答えが返ってきたので、内心僕はほっとした。  シノさん、お湯に浸かって無事気持ちが落ち着いたのかも。 「わかった。お茶漬けね」  僕はキッチンに取って返すと、冷凍のご飯を電子レンジに入れて、冷蔵庫からしらすとショウガの煮付けのみじん切り、そしていつか妹さんに貰った佃煮の残りを取り出した。  昆布とカツオ節で出汁を取っている間に、小さなすり鉢で白ごまを形が荒く残る程度に擦った。  茶碗にご飯と具を盛っている間に、シノさんがお風呂から出てきた。  チラリとシノさんを見ると、大分血色もよくなっていて、また僕はほっと胸を撫で下ろした。 「わざわざ出汁までとってくれたの?」  シノさんがタオルで髪を拭きながら、キッチンを覗き込む。 「そんなに丁寧にひいてないから、あまり美味しくないかも」 「いや、嬉しいよ」  シノさんがニッコリと微笑む。いつものシノさんの笑顔。 「早く服来て、そこに座ってください」 「はい、はい」 「はいは一回」 「はい」  シノさんは苦笑いしながら、寝室に消えて行った。  シノさん、案外大丈夫なのかも。  何があったか、わからないけど。  Tシャツにハーフパンツという出で立ちでシノさんは帰ってくると、いつもみたいに静かにお茶漬け・・・というか出汁茶漬けをを食べ始めた。  一口啜った後に、「うん」と頷く。  よかった。味は悪くないみたいだ。  僕は冷蔵庫を覗いた。 「 ── シノさん、これも食べる?」  作り置きのセロリのきんぴらと切り落としの牛肉を煮たものを見せると、シノさんは「うん」と頷いた。  僕は、もくもくと食べるシノさんを眺めながら、お茶を煎れた。  シノさんはすっかり茶漬けを平らげて、ふぅと大きく息を吐いた。 「ああ、一息ついた」 「そ? よかった」 「ありがとう、千春」 「どういたしまして」  シノさんがお茶を飲んだ後、僕はまた湯のみにお茶を注ぎながら、「大丈夫?」と訊いた。 「ん?」  シノさんが、目線を僕に向ける。  僕は、もう一度言った。 「大丈夫? シノさん。何か、あったんでしょ?」  シノさんは、はにかむような微笑みを浮かべた。 「大丈夫。俺は、大丈夫」 「ホント?」 「うん。大丈夫じゃないのは、川島の方だから」 「そうなんだ」 「ああ。あいつが立て直そうとしてた酒蔵が倒産しちゃって。かなり落ち込んでるんだ」  川島さんって、シノさんと一緒によく出張とか行ってる人だよね、多分。 「倒産、か・・・。それは厳しいですね」 「そうなんだ」 「でも、こんな雨が降る日に外で慰めていたんですか?」  シノさんは、いやいやいやと首を横に振った。 「電話でね。話してたんだよ」 「電話? ああ、それで電池切れてしまったんですか?」 「電池?」 「うん。さっきかけたら、繋がらなかったから」 「え・・・? あ!」  シノさんが、バタバタと廊下を取って返す。 「あ、シノさん、カバンなら、水滴を拭いてここに置いてありますよ。中身、大丈夫みたいですけど」  シノさんがまた戻ってきて、カバンの中を見る。  元々防水加工してあるビジネスバッグだったのか、スーツほど酷い有様じゃない。  シノさんは、カバンを覗き込んで、再びハッとした顔つきをした。 「・・・スーツ・・・!」 「え?! スーツのポケットに入ってたの?!」  僕らは洗面所に駆け込んだ。  スーツが重たかったのは、雨に濡れただけの重さじゃなかったのか。  バスタオルをはいでスーツの胸元を探ると、電源の切れた携帯が出てきた。 「あ~・・・、電源、入らない・・・」  シノさんが弱々しく呟く。  これだけずぶ濡れになっていたのだから、水没したのとほぼ等しい状態だったのだろう。 「どうしよう・・・。取引先の情報とか入ってたのに・・・」  動揺するシノさんに、僕は声をかけた。 「シノさん、落ち着いて。明日携帯屋さんに行けば、メモリは助けられるかもしれませんよ。取り敢えず、バッテリー抜いておいたら?」  僕がそう言うと、シノさんは緩く「うん」と頷いた。  携帯からバッテリーを抜いた後、シノさんは僕をじっと見る。  僕がその視線に疑問を感じて小首を傾げると、シノさんは顔を顰めた。 「ああ、もうホント俺、何やってんだろう」  シノさんが前髪をくしゃくしゃと掻き乱しながらそう言う。 「俺、千春がいなかったら、全然ダメだ・・・」  シノさんがそう呟いた時、僕の中の何かのしがらみがすっと消えたような気持ちになった。 「 ── シノさん、一緒に住まない?」  自分でも驚くぐらい、すんなりと自然に、口をついて出ていた。  僕自身、本当に自分でそう言ったか定かでないくらい「自然」だった。  でもシノさんが「一緒に住む?」と訊き返してきたので、ああ自分は本当に言ったんだと思った。  でも不思議とドキドキもバクバクもしていなくて、意外なほど落ち着いていた。なぜだかわからないけど。 「ここに住むか、僕の仕事場に住むのか、それとも別の場所に住むのかはどうしたらいいかわからないけど、シノさんがいいって言ってくれたら、僕、準備します。ダメ・・・かな?」  僕が再度しっかりした口調でそう訊くと、シノさんは黒めがちな瞳がパチパチと瞬かせて、ふいに泣きそうな表情を浮かべたのだった。
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