act.26

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act.26

<side-CHIHARU>  カフェで儀市と別れた後、ホントいうと僕の仕事場で岡崎さんと新しい雑誌の仕事の打ち合わせが入っていたのだが、何だかちょっと胸騒ぎがして、僕の足は月島に向かっていた。  岡崎さんには、「すみません、今日、ちょっと気分じゃないから」と電話を入れると、「その台詞聞くの、なんだか久しぶりだわ」と苦笑いされた。シノさんと付き合う以前の僕は心身ともに凄く不安定なのが常だったから、岡崎さんとの仕事の約束を袖にすることが多くあったからだ。  僕が軽く事情を説明すると、「心配事があるんなら仕方ないわね。でも代わりに明日、午前中に社の方に来てね。明日は私、社外に出ることができないから」と言われ、了承した。  車でシノさんの家まで帰って、取り敢えず家の中に入ったんだけど、帰って来たからといって何がどうなるわけでもなく、仕事をわざわざ断る必要もなかったかな・・・と思い返したりもした。  窓の外には今朝干したシノさんのワイシャツが風になびいていて、もうすっかり乾いていた様子だったので、取り敢えず洗濯物を取り込んだ。  昨夜ずぶ濡れになったシノさんのスーツは、カフェに行く前に商店街の外れにあるクリーニング屋に出している。  壊れた携帯電話は、シノさんがスーツのポケットに入れて行った。  シノさん、携帯屋に寄る時間、作れるのかな・・・。  自分でも漠然とした不安が何であるか答えを出せずに、僕は一先ず不足している食材を買いに出かけた。  まだ夕方前の商店街は客の姿も疎らで、総じて暇そうな顔つきの商店店主達に髪型を変えたことをからかわれながら、徒然なるままに買い物をして、シノさんの家に戻った。  建物に入ろうとして、背後で車の音が聞こえて来たので何気なく振り返ると、KAJIMIYAのロゴが見えた。  シノさんかな?  そう思って目を凝らすと、運転席には女性の姿が見えた。  女性が、車から降りてくる。  ああ、夕べ会った彼女だ。 ── 確か、田中さん。  田中さんは僕の目の前まで来ると、「ホントよかったです、成澤さんに会えて!!」と慌てた様子だった。 「篠田さんが熱を出しちゃって・・・」 「え? 熱? 酷い?」 「38.5℃。本人は平気だって言ってたんですけど、課長の判断で帰宅命令が出まして」  それを聞いて、僕の胸騒ぎはこれだったんだなぁと思った。  今朝は普通に出て行ったシノさんだったけど、夕べあれほど身体が冷えた状態だったので風邪をひいたんじゃないかなって無意識に思っていたんだと、今にして思う。 「篠田さんの家に電話しても留守電になったから、半ば諦めてたんですけど、成澤さんがいてくれたら安心だわ。本当は、成澤さんにご連絡しようと思ったんですけど、篠田さん、携帯水没させたっていうんだもの・・・」 「ああ、シノさんごとずぶ濡れになっちゃってね」  田中さんは眉間に皺を寄せた。 「え・・・? 篠田さんも、ですか?」 「ええ。どうやら昨夜、雨の中一人で歩いて帰って来たみたい」 「ああ、それで風邪をひいちゃったんですね・・・。今朝から元気ないなって思ったんです」 「川島さんとは・・・、会えたのかな、シノさん」  僕は思い切って ── でも努めてさり気なくそう聞いた。すると田中さんは、「川島さん?」と言いながら瞼を数回瞬きさせた。 「ええ。今朝社内で。お互い挨拶はしてましたけど・・・。そういえば、なんかいつもと感じが違ってましたね」 「僕から言うのもなんだけど、どうやら昨夜、川島さんと何かあったみたいなんだ。電話で話したらしいんだけど。何を話したかはわからないんだけど、シノさん、随分ショックを受けたみたい。悪いけど、しばらく二人の様子、気にかけてくださいますか?」  僕がそう言うと、田中さんも何かを感じてくれたらしい。生真面目な顔つきで、「はい」と頷いた。 「もしよかったら、僕の携帯の番号、田中さんにお知らせしておいていいですか?」  僕がジーンズの腰ポケットからiphoneを取り出すと、田中さんは目を丸くした。 「え!? 教えていただいていいんですか?」 「ええ。今の調子だと、シノさんの携帯、いつ復活するかわからないし。会社でのシノさんがちょっと心配だから。スパイを雇おうかと思って」  僕が少しおどけて肩を竦めると、田中さんはフフフと笑った。 「じゃ、私の携帯番号もお知らせしておきますね。なにか心配なことがあったら、お電話ください。仕事中出られないこともあるかと思いますけど、必ず掛け直しますから」  僕らは携帯の番号とメアドを交換しあって、車に向かった。  助手席の窓を覗き込むと、目を潤ませて頬を赤く上気させたシノさんが、気怠げに頭を動かして僕の方を見た。   ── かわいらしい、まるで子どものような表情。でも少し、苦しそうな息づかいで。  ああ、辛そうだ、シノさん。  心が「大丈夫」って言い張っているものだから、身体が「大丈夫じゃないんだよ!」と抵抗している。  助手席のドアを開けて、僕が「おかえり」って声を掛けると、シノさんはふっと表情を綻ばせた。  その表情を見て、胸がキュンとなる。  まるでシノさんが「帰ってこられてホッとした」っていうような顔つきだったから。  それを見るだけで、ああ、ひょっとして僕って、シノさんの「帰る場所」になれてんだなって思えた。  現実には、シノさんと一緒にはまだ住めないけど、それでもいいじゃんって飲み込めた瞬間だった。  本当に熱くなってるシノさんの身体を抱え ── 流石にシノさんをお姫様だっこはできない ──、部屋に戻った。シノさんの荷物を持って来てくれた田中さんにお礼を言って、明日の朝、シノさんの様子をメールで知らせると約束をした。  取り敢えず、シノさんの会社の人に僕らの関係がバレているのは些か不安だったが、田中さんは誠実そうな人だし、なによりなぜか僕らの関係を応援してくれている様子が窺えるので、返ってこの状況はいいのかもしれない、と僕は考えた。  まさか、会社中には広まっていないだろうけど、田中さんのような人がシノさんの会社にたくさんいてくれれば・・・と思う。  そうすれば、僕の抱える絶対的な不安は随分軽減される訳で。  外から加えられる圧力は、少なければ少ないほど、いい。 ── まぁ、世の中、それほど甘い訳じゃないことは、重々わかっているけどね・・・。  僕は、シノさんをベッドに腰掛けさせた。 「とにかく服、着替えましょう」  僕はそう言いながらシノさんの前に跪き、靴下を脱がせる。  頭上でシノさんは「ごめん」と言おうとしたが、途中で声が絡まって、コンコンと咳をし始めた。 「シノさん、完璧、風邪ですね。まぁ、無理もないけど・・・。クスリは? 何か飲んだ?」 「会社で・・・。解熱剤・・・」  道理で、シノさんの足、しっとり汗をかいている訳だ。  足でこれなら、上半身はもっと汗が出てるだろう。  風邪なら多少熱を出しておいた方がいいはずだけど、熱が高すぎるのも怖いから、ま、いいか・・・。 「風邪は寝て治すのが一番ですから。昨夜もちゃんと眠れてないんでしょ? 返ってよかったんじゃないですか?」  シノさんのジャケットを脱がせると、案の定、ワイシャツは所々汗で透けていた。 「クスリが効く間熱が下がるでしょうから、ゆっくり眠れますよ」  シノさんのワイシャツのボタンを外す指の動きが心もとなかったので、僕がワイシャツを脱がせた。  シノさんの美しい胸板が汗できらりと光って、何とも扇情的だった。  シノさんが元気ならこれ以上にないほどセクシーなシチュエーションなんだけど、今は我慢。   シノさんは何度もかすれ気味の声で「ごめんな・・・」と呟いた。 「もう、そんなに何度も謝らなくて大丈夫ですよ。シノさん好きでしょ? 大丈夫って言葉」  どこか視線も朦朧としているシノさんに暗示をかけるようにそう言うと、シノさんはきょとんとした顔つきで「大丈夫?」と言い返してきた。  凄くその様子が子どもっぽくて可愛らしかったけど、ダメだシノさん、熱の所為で思考が停止してるみたいだ。  僕はシノさんの身体をタオルで拭きながら、母親が子どもに言い聞かせるように、「そう。もう大丈夫。あとはゆっくり眠ったらいいからね」と言って、下もすっかり着替えさせた。  僕がシノさんをベッドに寝かせて額に軽くキスをすると、シノさんはすぅっと眠りに堕ちていった。  <side-SHINO>  俺は、何度も何度も川島からハンマーで頭を殴られていた。  でもなぜか俺は、そのハンマーを避けることができなくて、白い床には赤い血溜まりがみるみる広がっていく。  避けられないのは、俺の身体が金縛りみたいになっている所為なんだけど、そういう状態にしているのは、俺自身のような気がした。   ── 偽善者。  川島が、そう言いながらハンマーを振り下ろす。   ── 偽善者。  周囲に目をやると、会社の人達が皆そう俺に言う。  もっともっと目を凝らすと、俺が高校を辞めるまでの友達や、中学校の同級生らが同じような顔つきで「偽善者」と口々に呟いた。  俺は一体今まで、幾人の人達を、俺の何気ない言動で傷つけて来たんだろう。  自分がよかれと思ってしてきたことが、返って相手を傷つけていたなんて。  そういや、学生時代の友達なんて、もうほとんど連絡を取り合っていない。  十年くらい前は頻繁に同窓会も開かれていたけど、俺一人仕事が忙しく参加できなくて、「付き合い悪い」と言われ続け、結局誘いも来なくなった。  皆、俺のこと、偽善者って思ってたのかな。  俺、やっぱ偽善者なのかな・・・。  頭に痛みは感じなかったけど、がつんがつんと打ち付けられる衝撃は感じていた。  川島からハンマーで罪を悔い改めるように促されて、ハンマーが打ちつけられる度に、スローモーションで赤い液体の華が散る。  なんとなくその光景がキレイだなと思って、この期に及んでまだそんなことを思っている俺は、他の人と比べてどこかネジが緩んでいるのかもしれないと思った。  ただ、何だかさめざめと悲しくて、無表情の俺の頬に、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。  喉が苦しかったから、何度も声を出そうとしたけどでも、声がうまく出せなくて。  その代わりのように、大粒の涙が次々と深紅の血溜まりの上に落ちていった。  ああ、ごめんな、千春。  こんな俺じゃ、君には相応しくない。  君を支えていけない。  君のことを守りたくて始めた愛だったのに。  俺はちっとも君を守れないでいるし、それどころか・・・。  「・・・さん! シノさん!!」  目を覚ますと、すぐ目の前に千春の顔が見えた。  その顔を見て、俺は少し顔を顰めた。 「千春・・・なんで泣いてるの?」  俺は、親指で千春の涙で光る目尻を拭った。  その途端、荒々しく抱き起こされて、ギュッと抱き締められた。 「シノさん、もう苦しまないで」  一瞬、なんで千春にそんなことを言われるのか、わからなかった。  涙に潤んだ千春の大きな瞳が、俺を見る。  千春は俺がさっきしたように、親指で俺の目尻を擦り、そして俺の頬全体を手のひらで擦った。  そこで初めて、自分も涙を流していたことに気がついた。 「川島さんから言われた言葉って・・・偽善者、なんですね」  ドキリとした。 「なんでそれ・・・」 「さっき、シノさんが寝言でうなされながら言ってた」  そう言われ、俺は唇を噛み締めた。 「シノさんは、偽善者なんかじゃないよ。シノさんの優しさは、本物だよ、いつだって」   千春が俺に言い聞かせるようにそう言ってくれる。 「・・・千春・・・」 「僕は、シノさんがもういいって言うまで言いますよ。シノさんは偽善者じゃないって。なんなら、僕が川島さんの首根っこを捕まえて、言い聞かせてやってもいい。僕は本気ですよ。だって、人生ズタボロだったこの僕を偽善者なんかが救い出せるはずがない。僕はね、シノさん。もう充分あなたに守られているんです」  千春にそう言われ、思わず頬がカッと熱くなった。  俺、まさかそんなことまで寝言で言ってたのか?! 「あなたが、あなたらしくいてくれるだけで、僕はあなたという存在に守られている気分でいられる。そういうことなんです、シノさん。だから、そんな風に思わないで。守れないでいるだなんて思わないで」 「千春・・・」  千春は、涙を溜めた瞳のまま、ふっと笑顔を浮かべた。  とても美しい笑顔だった。 「それに、もうそろそろ僕にも、シノさんのこと守らせて。僕だって、愛する人を守りたい。シノさんがそう思っているようにね。これって、凄くフェアな関係でしょ?」  俺は、頷いた。 「シノさんは、僕から一方的に貰ってばかりだっていつも言うけど、僕はいつもシノさんから守られてばかりで、それが苦しかった。だから、僕がシノさんにいろんなことをしているのは、シノさんに与えているつもりでやっているんじゃないってことをわかってほしい。いつも危うかったこの僕が、こんなに安定して日々を過ごせてるのは、シノさんが傍にいてくれているからこそな訳で、だから少しでもシノさんに恩返しがしたいから、シノさんのこと手伝いたいって思うのは、いけないことですか?」  千春、そんなこと思ってたんだ・・・。  俺は首を横に振った。  千春がそんな風に思ってくれていたことが胸に響いて、恥ずかしいけどでも、また涙がこぼれてしまった。  千春が少し笑いながら、俺の涙を指で拭ってくれる。 「僕たちはフェアな関係です。シノさん、そうでしょ?」 「・・・うん・・・うん・・・」 「だから今度は、僕がシノさんを守るよ。僕だけは、最後までシノさんの味方だ。シノさんを、絶対に一人にはしないよ」 「千春!」  俺は千春に抱きついた。  千春は俺を抱きとめながら、優しく何度も俺の背中を撫でた。 「だからシノさん。勇気を持って。偽善者と言われたって、傷つく必要はないから。シノさんが偽善者じゃないこと、僕は知ってる」  千春は、再び俺から身体を離して俺を見つめると、またにっこりと微笑んだ。 「僕が味方についてるのなら、まさに百人力って感じでしょ?」   ── 確かに。千春が絶対的に味方になってくれるだなんて、負ける気がしないよ。  俺がふっと笑うと、千春が「よかった。やっと笑顔が見れた」と言って、タオルで俺の頬に濡らしていた涙や額の汗を丁寧に拭ってくれた。 「それに、取り敢えず熱は引いたみたいですね。・・・クスリ、効いたみたい」  そう呟いた千春から、優しくて、でも充分に深いキスをされて、俺は思わずうっとりと「・・・ん・・・」と緩く鼻を鳴らしてしまった。  そしてハッとする。  慌てて千春のキスから逃れて、「風邪がうつるよ!」と叫んだ。いつもと違って、随分と掠れた声で。  ああ、確実に風邪ひいちまった、俺・・・。  千春はとぼけた表情を浮かべると、「別にうつったっていいですよ。むしろその方が、シノさんの風邪が早く治ったりするんじゃないですか?」と言って、再び俺にキスをした。  優しく背中を撫でられ、なんだかたまらない気持ちになる。  ああ、千春。ありがとう。  こんな俺のこと、好きになってくれて。  俺の味方でいてくれて。  千春はキスをし終わると、「汗で濡れたTシャツを着替えたら、また一寝入りして。今度は夢なんか見ずに、ぐっすりね。晩ご飯の時間まで、まだ少しあるから」とベッドから立ち上がって、着替えのTシャツを取りに行こうとした。  俺は、その千春の背中に縋るように抱きついた。 「どうしたの? シノさん・・・」  千春が、怪訝そうに振り返る。  俺は、千春の着ているシャツをクシャッと掴んだ。 「千春・・・してほしい・・・。 ── 抱いてほしい・・・」 「え?」  千春の大きな目が、瞬いた。
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