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act.03
<side-SHINO>
幸いな事に、午前中俺がお得意様周りをした際にネットの話題が持ち出される事はなかった。
俺が受け持っている酒屋や料理店は年配の経営者が多く、どうやら彼らの目に動画が触れる事はなかったようだ。
社内では相変わらず、どこか好気の目で見られている様子も窺えたけど、表立って騒ぎ立ててくる社員はいなかった。
出先の酒屋で「お昼に食べな」と貰ってきた太巻きの寿司を自分のデスクで頬張りながら、俺はパソコンの電源を入れる。
千春と約束した温泉旅行の宿探しをしようと思ったからだ。
行き先は塩の湯温泉のある奥塩原と決めていた。
しかし残念な事に、月末から始まるゴールデンウィーク中は、すでにめぼしい温泉宿は予約でいっぱいになっていた。
「やっぱり、そうだよなぁ・・・」
篠田は溜息をついた。
── 本当は塩の湯に千春を連れて行きたかったけど。
そこは仕方なく妥協して塩原温泉の宿を検索したのだが、検索画面を見ているうち、やはり塩の湯温泉にある宿の川沿いに作られた露天風呂に千春を連れて行ってあげたいという思いが強くなってきて、結局塩原の宿の検索画面を閉じてしまった。
「う~ん・・・」
画面の前で唸っていると、俺の後ろを田中さんが通りかかる。
「あら、篠田さん、温泉ですか?」
「ああ」
「ひょっとして、ハネムーン?」
田中さんがニヤリ顔で俺を指差してくる。
俺は慌てて周囲を見回した。
その視線の意味を田中さんは察したのか、俺の背中を強く叩いた。
「大丈夫ですよ! 皆、まだご飯食べに行ってるから、今ここには私と篠田さんしかいません」
篠田さんをこのネタでからかう時はちゃんと計画的にしますから、と胸を張っている田中さんに、俺は苦笑いした。
「でも篠田さん、これゴールデンウィークのカレンダー見てるでしょ。今から空室探すの大変じゃないですか?」
「ああ、そうなんだ。ちょっと遅過ぎたみたい」
なぜか二人でふぅ~~~と溜息をつく。
そうしていたら、田中さんがポンと手を叩いた。
「そうだ! 柿谷酒造の奥さんに相談してみたらどうです? 地元の人だから、力になってくれるかも」
それを聞いて、俺も拳で手のひらをうち、そのまま田中さんを指差した。
「それ、グッドアイデア」
俺がそう言うと、田中さんが「でしょ?」と腰に手を当てポーズを取る。
俺は、善は急げと柿谷酒造に電話をかけた。
電話口に出た柿谷の奥さんに事情を話すと、奥さんは二つ返事返してくれた。「お得意先の旅館に訊いてみるから、そのまま待っておいで」と言われ、俺と田中さんは姿勢を正して電話を見つめた。
本当に直ぐに電話がかかってくる。
「5月2日の月曜日から翌日の火曜日なら特別室を空げでくれるって翡翠庵さんが言ってくれてっけど、どうすっぺ? 1泊2日だけんど・・・。ほら、残りの休みはうぢで泊まって行げばいいっぺや。うぢがらえろんな温泉宿のお風呂、入りに行げるし」
2日は平日だったから俺は思わず返事に臆したのだが、受話器に耳を押し付け内容を一緒に聞いていた田中さんが、俺の手から受話器を奪い、「はい! それでお願いします!」と答え、電話を切ってしまった。
俺は思わず田中さんを見上げる。
田中さんは、さっさと自分のデスクに取って返すと、引き出しから小さな書類を取り出し、俺に手渡した。
「はい。有休届、出して」
ということで、俺は言われるがまま、休暇届に書き込んだのだった。
う~ん・・・。ここのところ、田中さん、俺に対してえらく強気なんだよなぁ・・・。
こんなコだとは思わなかった。
まるで職場にも千春がいる気分・・・。
結局。
田中さんの後押しもあって、5月2日の休暇届は、無事課長に受理された。
我が社はいつも連休は暦通りで銘々が有給を割り当てて、自由に休暇を取るのが常なのだが、俺はあまり有給を使わないタチなので、6連休だなんてゴールデンウィークは過去経験がなかった。
ちょっとそわそわしてしまう。
これまでは独り身だったし、連休の予定は甥っ子を遊園地や動物園に連れて行くぐらいのもので、純粋に自分の予定として使ってきたことがあまりなかったが、今年は違う。
── だって、一日中、どこに行くにしても千春と一緒なんだぜ。
柿谷の奥さんが話を付けてくれた翡翠庵は、塩の湯温泉郷の中程にある老舗旅館だ。
しかし老舗といっても、五年ほど前に若女将が跡を継いだ際にモダンな和風旅館に一部改築をしたから、奥塩原の温泉旅館の中でも人気があるんだ。
しかも渓谷沿いに建っていて、五種類ある貸し切り風呂はみんな川に面している。どの貸し切り風呂も個性的な作りで、どれを選ぶか迷ってしまうほどだ。
特別室はきっとかなり高価だろうけど、この際、ちょっと贅沢したっていい。
課長に、「婚前旅行か」とからかわれつつ、俺は千春に部屋が取れた事を知らせるために、廊下に出て携帯を取り出した。
<side-CHIHARU>
「はい。・・・はい。わかりました。ええ。仕事は入っていますけど、流潮社内の仕事なんで、スケジュール調整はできます。その日、開けておくようにお願いしておきますね」
僕は電話を切った後、真新しいiPhone内のスケジュールに温泉旅行の日程を打ち込んだ。
「電話、シノくんから?」
僕の目の前に座っていた葵さんが、インドカレーに浸したナンを口に運びながら訊いてくる。
今日は葵さんに呼び出され、今話題のインド料理店にランチをごちそうしてもらうことになっていた。
どうも葵さん、僕に訊きたいことがあるらしい。
十中八九、僕とシノさんがどうなってるのかっていうところだろうけど。
でも電話の様子だけで電話の相手がシノさんだと葵さんが言い当てたので、僕は少し驚いた。
「なんでシノさんだってわかったんですか?」
僕がそう訊くと、葵さんは眉を八の字にして笑った。
「やぁだ、わかるわよぉ。だって顔つきが違うもの。電話を受けてる時の顔が」
葵さんは、手近にあったおしぼりを耳に当てると、「普段の成澤くんはこう」と言って、能面の顔つきのまま「もしもし」と低い声でしゃべる。
そして次におしぼりを違う手に持ち帰ると、「今のはこう」と今度は目を大きくパチパチさせながら、少女のような笑顔を浮かべ、「はい! もしもし!」と甲高い声で言った。
どうやら僕の電話での様子を再現してくれているらしい。
僕は派手に顔を顰めた。
「僕はそんなバカ顔なんてしませんよ」
「そんなの、ここに鏡がない限り成澤くんが自分を見れる訳ないでしょ! 絶対今のはこうよ」
葵さんはまた胸の前に両手を組み、パチパチと瞬きをさせ、乙女のポーズを取る。
僕はとうとう根負けをして、「はいはい。わかりました」とその話題を終了させた。
「それで? 新婚生活はどうなの?」
葵さんがそう訊いてくる。
「新婚生活?」
「だって、プロポーズされてたじゃない、結婚しよう!って」
僕は葵さんのその発言にぎょっとして、再び顔を顰めた。
「葵さん、あの番組見てたんですか?」
僕が問いつめると、葵さんは「ネットで見た」と答える。
僕は溜息をついた。
「なぁに? その反応」
「葵さんもか、と思って。シノさん、会社で騒ぎになって大変だったみたい」
また僕の中に得体の知れない不安感が沸き起こってくる。
察しがいい葵さんは、すぐにそれをキャッチしてきた。
「え・・・。ひょっとして会社でバレたの? 二人の関係」
バイセクシャルの葵さんは、性的マイノリティがまだまだ社会から受け入れられていない現状を知っている。特に一般企業の中でそういう関係を公にして仕事を続けて行くには数々の障害がある。だから世の中には、今だ「隠れゲイ」が多くいるのだ。こういう嗜好をオープンにしても平気なのは、アーティスティックな業界や水商売の世界ぐらいである。
僕は葵さんの質問に、首を横に振った。
「多分、そこは大丈夫だと思うんですけど。シノさん、そんなこと言ってなかったし。でも、いずれそうなるかもしれないと考えると・・・」
「心配?」
「・・・ええ」
僕は頷く。
シノさんの性格なら、バレるとかというよりもむしろ、正々堂々と関係をオープンにした方がいいといつか言い出すかもしれない。でもそれは、あまりにリスクが大きい。
過去、僕の周囲でそういったことのせいで関係を潰されてきたカップルは数多くいたし、今考えると吹越さんとの関係だって、そういう意味で終わってしまったも同然だ。
元々ノンケのシノさんが社会的に周りからプレッシャーをかけられた時に、「やはりこの関係は一時の迷いだった」と、もし思ってしまったら。
── そうなったら僕はもう、一巻の終わりだ。
よくよく考えると、現在僕は名実ともに「通い妻」な訳で、結局のところ僕の役の代わりを女性がしたって、シノさんの生活にはなんら変化はない。
料理はもちろん、洗濯、掃除 ── 夜の生活も。
ふいに葵さんが、僕の手を握った。
宙を見つめていた僕は、はっとして葵さんに視線を戻す。
「そんなに悲しい顔しないの。また捨てられるかもしれないって思ってるんじゃないの?」
── さすが葵さん、鋭い。
僕は唇を噛み締めた。
葵さんは、ポンポンと手を叩く。
「シノくんは、あのボンクラ大学教授とは絶対に違うから」
力強く彼女はそう言ってくれたが、それで僕の漠然とした不安感が消える訳ではない。
「何を考えてるの? 成澤くん。気持ち、聞かせてよ」
僕は、自分の女々しさを吐き出す事に一瞬戸惑ったが、葵さんの包み込むような目を見て、ホッと息を掃き出すと、思い切って口を開いた。
「今の僕の立場って、完全に『奥さん』なんです」
「いいじゃない、それで。イヤなの? 奥さん」
「いえ、嫌と言ってる訳じゃないんです。むしろ楽しんでるし」
「うん。それで?」
「でも、それだけなんですよ。僕が明日、どっかの女の人に代わったって、同じなんです」
「何よ、それ・・・」
葵さんが笑い顔を浮かべようとして、急に顰め面になる。
彼女は、また何か察したようだ。
「ひょっとして・・・。あなたが受けてるの? 夜」
僕は、その質問にたまらなく恥ずかしさを感じたけれど、辛うじて少しだけ頷いた。
葵さんが、露骨に驚く。
「うそ! あの成澤くんが? あなた、確かそっちは嫌いなんじゃなかったっけ?」
「嫌いというまででは・・・。昔はどっちでもいいって思ってたぐらいだし。ただ、そういう役回りの時は、心底楽しめないってだけで」
「そうなんでしょ。つまり、今も。我慢してるの? 我慢はダメよ!」
僕は苦笑いしながら、首を横に振った。
「我慢なんてしてませんよ。シノさんとの時は。むしろ、今までとは全然違って、凄く・・・。これ以上は、言わなくてもわかるでしょ?」
葵さんはポカンとした表情を浮かべていたが、急に頬を赤らめて、キャハハと笑った。
「やだぁ。喜び、知っちゃったんだ。受ける喜び」
成澤くん、カワイイ~などと声を上げる。
僕はテーブルの上を二、三回ノックして、注意した。
「葵さん、ここ真面目な話」
葵さんは、すぐに姿勢を正した。
「はい。ごめんなさい」
僕は右眉の下をカリカリと掻きながら、「つまりは、そういう関係なんで、僕が女の人と代わっても、シノさんは困らないんですよ」と吐き出すように言った。
葵さんは頬杖をついて、僕を見つめてくる。
まるで実の姉のような、いや母のような、慈愛に満ちた表情だった。
僕は、その視線を受けて何となくバツが悪くなる。
再度葵さんは、僕の手を握った。
「何言ってるの。成澤くんが他の女の人と代わっちゃったら、シノくん、うんと困るから。だって、その女の人は成澤くんじゃない人なのよ。シノくんは成澤くんじゃないとダメなのよ」
「・・・葵さん・・・」
「だって! 考えても見て。私とシノくんがホテルに行った日、私を見て何の反応も見せなかったシノくんが、あなたのヌード写真を見て反応したのよ。これって、あなたじゃないとダメって証拠じゃない!」
「そんなものですかね・・・」
「そんなものよ! 成澤くん、どれくらいシノくんの愛情を確かめれば気が済むの? シノくん、テレビでプロポーズまでしてのけたのよ。あんな人、滅多にいないでしょうが」
葵さんに少々叱られ気味にそう言われ、僕は溜息をつきながら頷いた。
── 確かに、葵さんの言う通りだ。
僕は、シノさんの愛情をいつも試しているんだ。
この人は本当にずっと一緒にいてくれるのだろうか、愛してくれるのだろうかって。
なにか自分がシノさんの愛情を推し量っているような気がして、僕は自己嫌悪に陥った。
自己嫌悪。
これもシノさんが僕に教えてくれた感情だ。
「ま、成澤くんの気持ちはわかるけどね。真剣に愛した人にあんなフラれ方したら、誰だって臆病になるもの。早くシノくんにリハビリしてもらいなさいよ」
「リハビリ?」
「そ、心のリハビリ。あ、そうだ。そんなにシノくんを女の人に取られるんじゃないかって不安になるんならさ、手っ取り早くシノくんに、男の恋人じゃないと味わえないよさを叩き込んであげたらいいんじゃない?」
葵さんの言い出した事が何を指しているかわからなくて、僕は小首を傾げた。
「やだ。普段なら察しのいい成澤くんが、わからないって顔してる。あなた、本当にシノくんの事になると盲目なのね。その表情、メチャメチャかわいい」
「からかってないで、早く教えてくださいよ」
「はいはい。だから、つまり、夜に成澤くんが『旦那様』になったらいいんじゃない。女には『旦那様』役はできないわけだからさ」
「旦那様・・・って、あ、そうか。『旦那様』か」
それってつまり、僕がシノさんを抱くってことだ。
「シノくんも、男に抱かれる喜びを知っちゃったら、シンプルに成澤くんじゃないとダメ、っていう状況になるわけでしょ。そしたらあなたのそのモヤモヤした不安も即解消! なんてよきアイデア」
僕は拳で手のひらをうち、そのまま葵さんを指差した。
「それ、素敵な作戦ですね」
「でしょ?」
葵さんは、得意げな表情 ── いわゆるドヤ顔を浮かべて、ラッシーをストローで啜った。
── なるほど・・・。ちょっと燃えてきたかも。
「いいアイデアをいただいたお礼に、今日のランチ、僕が奢ります」
僕がそう言うと、葵は「やったー!」とガッツポーズをしたのだった。
── う~ん、時折、葵さんとシノさん、反応がカブるんだよね。
こうして『シノさん・夜だけ奥様作戦』がスタートしたのだった。
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