act.30

1/1
1639人が本棚に入れています
本棚に追加
/55ページ

act.30

<side-CHIHARU>  目を覚ますと、僕はベッドに寝かされていた。 「・・・千春?」  傍でシノさんの声がした気がして頭を動かすと、シノさんがほっとした表情を浮かべて、僕の顔を覗き込んでいた。 「よかった、気がついた」 「・・・? シノさん、なんで・・・?」  シノさんがこんな時間なのにそこにいるのが信じられなくて、僕は夢か幻覚を見ているのではないかと思った。 「千春が倒れたって岡崎さんから知らせがあって。田中さんにそのことを話したら、外出届書いておくから様子を見に行ってこいって会社をたたき出されたんだよ」  シノさんは優しげな声でそう言って、くしゃりと笑った。  田中さん? ── ああ、田中さんね・・・。ホント、僕らここのところ彼女に世話になりっぱなしだ。今度、なにかお礼をしなきゃ・・・。 「でも、知らせって・・・シノさん、携帯は?」  シノさんはポケットから真新しいiphoneを取り出して、僕の目の前に翳した。 「昼休みにね。これを機に、思い切って乗り換えしてきた。これで晴れていつでも無料で千春と電話できるようになった」  シノさんはそう言った後、気難しそうな表情を浮かべて、「でも使い方、全然わからないんだよな。千春、後で教えてくれよな」と唇を尖らせる。  その顔つきが可愛くて、僕はクスクスと笑った。 「ああ、よかった。笑っていられるぐらいなら、大丈夫みたいね」  ふいに岡崎さんの声がして、僕はハッとした。  あの記事のことが脳裏に浮かんだ。  ガバリと身体を起こす。 「そうだ! シノさん!! 大変なことに・・・」  僕の慌てようとは打って変わって、シノさんは凄く穏やかな顔で、ベッドの上に腰掛けた姿勢のまま、僕を落ち着かせるように優しく僕の肩を撫でた。 「うん、さっき岡崎さんから聞いたよ。雑誌も見た。この後、社に帰って社長に話してくる。岡崎さんもついてきてくれることになってるから、心配いらないよ」  シノさんが寝室の入口に立つ岡崎さんをチラリと見た。  岡崎さんはウンと頷く。 「週刊誌の出版社の方には、うちの社の方から厳重に抗議をする方向で話が進んでいるわ。あなたのことならともかく、一般人である篠田さんの素性がわかりやす過ぎる記事の構成に問題があると。でも時間的な問題で発売差し止めまでは難しいらしいわ。仮に裁判を起こすとしても、その場合は篠田さんがそうしなければならない。そうなると例え発売された週刊誌を自主回収するところまで持っていけたとしても、その頃には既にかなりの部数売れてるでしょうし、そもそも裁判となると篠田さん自身の身の回りにその事実が伝わることになる」 「それは返って騒ぎが大きくなると流潮社の顧問弁護士さんにアドバイスされたんだ」  僕は、息を飲んでシノさんと岡崎さんとを交互に見た。  酷く混乱してる。この僕が。  でも、ただひとつわかるのは、僕の存在がシノさんにとても迷惑をかけてるってことだけ。 「シノさん・・・ごめんね・・・・」  岡崎さんが見ていることはわかっていたけど、僕は涙が止められなかった。  壊れた蛇口みたいに、ボロボロと涙が溢れ出た。 「僕のせいで・・・ごめん・・・」  シノさんが抱き締めてくれる。 「千春のせいじゃないよ。千春が悪いんじゃない」 「だって・・・! シノさんとつきあってるのが普通の人だったら、週刊誌になんて追いかけ回されたりしないし、付き合ってるのが女の人だったら、別に周りにバレても、そんなに支障はないのに、ゲイとなんか付き合ってただなんてバレたら・・・・」 「大丈夫だよ、千春」 「いいや、大丈夫なんかじゃない」  僕はシノさんの腕から逃れた。  ゲイという偏見がどれほどキツイものなのかを知っているのは、この場で僕だけだ。  世の中はゲイに対して、それほど優しくできているものではない。  それをまだシノさんはわかってないから。 「大丈夫なんかじゃない。僕はそれを知っています。絶対に、仕事に支障が出てくる。仕事だけじゃない。普段の生活にも偏見の目がついてまわることになる。それだったら・・・そうなる前に、僕達は・・・」   ── 別れた方がいい。  そう言うつもりだった。  シノさんと別れて、例え僕が生きられなくなっても、それでもシノさんのことが大切だから。  この関係がシノさんの周囲に知られる前に別れれば、シノさんだって「付き合ってない」って周りの人に言える。  だから、今、この瞬間に別れようって。そう言うつもりだった。  でも。  そう言う前にシノさんが僕の口を手で塞いで。  シノさんは僕に言った。 「千春、一緒に住もう」と。 <side-SHINO>  短い外出を終え、俺は会社に戻った。岡崎さんと一緒に。  俺と千春の関係が写真週刊誌に掲載され、雑誌は明日発売だという。  川島に金を渡して俺の情報を得たのは、写真週刊誌の記者なのだろう。  川島は、俺の自宅の場所と俺の簡単な生い立ちを記者に話したのだという。  確かに、川島のしたことは許すべきことじゃないのかもしれない。現に川島は、責めを受けるのは当然のことと、何度も額を床に擦り付けて俺に謝ってくれた。  俺はといえば、川島を責める気にはなれなかった。  川島が自暴自棄になった気持ちもわからないではなかったし、俺としてはむしろこれ以上千春との関係を隠し続ける必要がなくなるのだから、かえってよかったのではないかと思えたほどだ。  千春は、自分達の関係が俺の周囲にバレることにかなり怯えていた。  それは以前からの様子でわかってはいたが、まさか問題の記事を読んでぶっ倒れてしまうほど深刻に捉えていたとは思わなかった。   ── ゲイの男と付き合ってることがバレたら、普通に暮らせなくなる。  千春はそう言ったけど、俺にとって千春が傍にいなくなることの方が”普通じゃない”もの。  あの時千春は、絶対「別れよう」っていうつもりだったんだろうけど。  俺はそれを言わせなかった。  嫌いで別れるなら仕方がない。  でもあの時の千春は、俺を守るために別れを選択しようとしてたんだ。  そんなの、間違ってる。  俺達は、悪いことをしてるわけじゃない。恥ずかしいことをしてるわけでもない。  そうなんじゃないのか?  だから俺は、「一緒に住もう」と千春に言った。  千春が気を失っている間、岡崎さんから千春にとっての「一緒に住む」ことの意味を聞いた。  岡崎さんは、「あくまで私が感じていることだけど」と断りを入れた上で話してくれた。  ゲイにとって「一緒に住む」ということは「結婚」と同義であること。  しかも千春は、両親の結婚の末路を見ているためか、「結婚」ということにある種恐怖心を抱いていること。  だからこそこれまで、失うことの苦しみから逃れるために、「諦める」ことや「手放す」人生を選択してきたこと。  そんな重い気持ちを抱え込んでいたにも関わらず、あの雨の晩、千春は俺に言ってくれたんだ。  「一緒に住もう」と。  俺は、千春が恐怖心があるにもかかわらず勇気を振り絞って言ってくれたそのひと言を、ちゃんと意味を理解していなかったとはいえ、一度は拒否してしまったんだ・・・。  俺が断った後も、千春はいつもと変わらず俺に接してくれたけど、今思えば、どれだけ傷ついていたんだろう。  千春、ごめん。  俺は千春をこんなに好きなくせに、俺はまだまだ君を本当に理解できていない。  それなのに君は、今も変わらず俺の幸せを第一に考えてくれている。  だからこそ千春は、俺のためにまた「手放す」選択をしようとしていた。  でも、それは違うよ。  俺は違うと思う。  千春が「手放す」必要はもうない。  俺は、千春、君と二人で生きていくと心に決めたんだ。 「一緒に住もう」  俺がそう言うと、千春はポカンとした顔をした。  だから俺は、千春に言い聞かせるようにもう一度繰り返しそう言った。  やっと俺の言ったことを理解した千春は首を横に振りながら、「そんなことしたら、シノさん、大変なことになるよ」と言ったが、俺は千春が納得するまで「一緒に住もう」と言い続けた。  ゲイのカップルが一緒に住むことが結婚と同じ意味になるのであれば、早くそうすればいいんだ。  週刊誌の記者だって、結婚した夫婦の浮気問題ならこぞって記事に書き立てるだろうけど、家庭円満の夫婦のネタなんか、そのうち興味を示さなくなるだろ。ゲイカップルだから最初は多少騒がれるだろうが、「これが俺達にとって自然な形なんです」と開き直ってしまえば、そのうちきっと話題にも上らなくなるに違いない。  ひょっとしたら俺は、千春を得ることで何かを失うことになるかもしれないけど、千春だってその代償を負ってきているんだ。  俺だって、千春を失うくらいなら・・・。  俺は腹をくくった。  これから何が待ち構えているか想像もつかないけど、俺は千春との生活を守っていきたい。  一家の主が自分の城を守る苦労は、どの家にだってある。  俺にとって千春との生活は、ごく「普通の」幸せな生活なんだ。  社長に連絡をすると、丁度よいタイミングで打ち合わせの予定が変わって一時間ほど時間が空いているとのことだった。  千春は「僕も一緒に謝りに行きたい。きっとシノさんの会社にも迷惑をかけるから」と言ったが、顔色は依然としてあまりよくなかったので、寝ているようにと言い聞かせた。  今回の事情は岡崎さんの方が冷静に話せるから、と岡崎さんも一緒に説明をしについてきてくれることになった。  例の雑誌を社長に見せると、社長は意外にも凄く静かに淡々と記事に目を通した。  しばらくして雑誌から顔を上げると、「これは間違いなくお前のことだな」と確認するようにそう言った。 「はい」  俺はすぐに返事を返す。  社長室には、加寿宮社長と俺、岡崎さんの他に社員はいなかった。  俺と岡崎さんの深刻な顔を見て、社長も何か感じるものがあったらしい。人払いをしてくれたのだった。「お茶も持って込んでいい」と総務に声をかけてくれた。  「すみませんね。お茶もお出しできず」と社長が朗らかに言ったものだから、最初緊張していた岡崎さんも今は幾分表情は落ち着いていた。  加寿宮の社長室は、自社ビルの会社という割に狭い。  社長は毎日いまだに方々を飛び回っているし、会社に帰ってきてもいろんな部署に顔を出して、そこでお茶なんか飲んでいたりするものだから、「社長室が大きいのはスペースの無駄」と元々在庫置き場だった倉庫を設計段階で社長室にしてしまったような人だ。  見た目は冷静沈着なロマンスグレーといった少し近付き難い雰囲気がある加寿宮社長だが、一旦言葉を交わすと、豪快な物言いの割に繊細な気遣いもできて、見た目と違って親父ギャグも好んで言ったりすることが多いので、政財界にも顔が広い。  うちは加寿宮社長のワンマン会社ではあるが、小さいながらも東京で自社ビルを持ち、倒産することなく商売を続けてこられているのは、加寿宮社長の縁の強さによるところも多い。  実際、俺自身、社長に拾われてからというもの、俺の親父代わりは加寿宮社長だった。  本当に頼りになる人だし、信頼している。  俺と千春の関係は、決して世間様に顔向けできないことではないとはっきり断言できるが、でも加寿宮社長が今回のことをどう捉えるのかについては、内心少し不安だった。  家族にカミングアウトするのって、こういう感じに似ているのかなぁと頭の中でぼんやりと思った。  社長室においてある小さな応接セットのソファーに腰掛け、俺と社長は向かい側、岡崎さんは俺の隣に腰掛けていた。 「これは・・・明日発売なんですか?」  社長が岡崎さんにそう訊くと、岡崎さんは出版業界の仕組みの簡単な説明と、今回発売される雑誌の販売差し止めは難しいことなどを細かく説明してくれた。  さすが百戦錬磨で気難しい作家さん達と渡り合ってきた岡崎さんだ。話す内容には説得力があった。  社長は途中幾度も頷いていた。 「なるほど。状況はよくわかりました。今後、我が社にマスコミから取材攻勢をかけられる可能性があるということですね」 「はい。どこまで他社のマスコミが興味を示すかはわかりませんが、まったくないとは言い切れません。その場合の対策が必要だと思われます。法的なこともある程度理解しているマスコミ対応の選任スタッフを構えるのが一番だと思いますが、必要とあらば弊社から出向させることも可能ですが」 「それは頼もしいですな。ですが、ある日突然聞いたこともないような部署が現れて、見も知らない人が働き出すというのも・・・。対外的にはそれでいいが、社内的には不自然な細波が立ってしまい騒ぎが大きくなる。まずは篠田にとって身近な存在である同僚達に『変なことが起きている』と思わせないようにする方が大切なような気がしますな」  社長がそう言うと、岡崎さんもはっとした表情を見せ、「確かにそうかもしれません」と呟いた。 「マスコミ対応なら、うちにも広報部がありますのでそこにやらせます。万が一法的な問題が出てきた場合は、我が社の顧問弁護士に対応してもらうようにしましょう。ただ、岡崎さんが言う通り、マスコミ業界独特の”作法”や”流儀”もあるようですから、広報部で処理しきれない何かわからない問題が生じた時、アドバイスしていただける体勢だけ流潮社さんで組んでいただいてサポートしていただけるとありがたいですな。 ── ただ、その前に確かめておかねばならないことがある・・・」  社長はふいに俺の方を見ると、真顔で訊いた。 「お前は、どうなんだ」 「は・・・」  一瞬社長の言わんとしていることがわからず、俺は思わず訊き返した。 「は、じゃない。この記事のことは本当なんだろう?」 「は、はい」 「この澤清順さんとやらと付き合ってるわけだよな」 「はい」 「で、どうするんだ。週刊誌にすっぱ抜かれて、彼とのことをどうするつもりなのかと訊いている」 「別に、どうも」  俺がそう答えたので、社長は「なんだ、そのちんちくりんな答えは」と拍子抜けした顔をした。  俺は続けた。 「彼との関係を変えるつもりはありません。俺にとっては彼と過ごす毎日がごく普通のことだし、悪いことをしているとも思ってません。週刊誌に取り上げられようが何だろうが、そのせいで変わる関係じゃないです。しいて変わるところがあるとすれば、近々一緒に住むことですかね」  社長は目を丸くした。 「一緒に住む? それは所帯を持つってことか」 「はい。まぁ、そういうことです」 「記事にされてこれから騒がれそうになるというのに、更に一緒に住もうというのか」 「はい」  「 ── じゃ、お前、俺に反対されたらどうするつもりだ。恋人か仕事かどっちか諦めるつもりなのか」  思っても見ないことを社長に言われ、俺は一瞬言葉を失った。 「う。う~・・・。そ、それは~・・・・・。俺にとっては社長も彼のことも大切なんで二者選択なんてできません。だから、社長に認めてもらうまで、なんとか頑張るしかないです」  俺の言い草にほとほと呆れたのか、社長はハァと溜息をついた。そして岡崎さんを見ると、「ほら見てください。これがうちの(せがれ)代わりですよ」と呟いた。  岡崎さんはどう答えていいかわからなかったのか、ハァ・・・と曖昧な笑みを浮かべた。  社長は緩く首を横に振ると、こう言った。 「まったく。最初に会った日からお前は少しも変わっとらん。意固地というか頑固というか、バカ正直というか。どんなことも物事をオブラートに包むということをせん。 ── まったく、憎みたくても憎みきれんヤツだな」  俺はそれを聞いて、目を輝かせた。 「じゃ、認めてもらえるんですね!」 「なんだこのキテレツな会話は。まさか俺は、社長室で男同士の結婚を認める認めないと詰め寄られることになろうとは夢にも思わなかったぞ」 「そ、そうですけど。でも・・・」 「認めるかどうかは、お前の話だけ聞いても頼りにならん。その彼とやらをここに連れてきなさい。話は、それからだ」  社長はそう言って、腕組みをしたのだった。    翌朝。  その日も、一見するといつもと同じ朝で、変に気構えていた俺は拍子抜けした。  駅のキヨスクでは例の雑誌がもう発売されているようで、『ゲイ作家・澤清順に新恋人発覚!』と印刷されたその雑誌の中刷り広告が既に車内ぶら下がっていたが、ラッシュアワーでモミクチャにされている人々が特にそれを気にする訳でもなかった。   ── なんだ、こんなものかと思いつつ会社に出社すると、社内の方が何だかざわついていた。それもなぜか、女子社員が。  会社に辿り着くと、まず受付の女の子達から「大丈夫でしたか?!」といやに心配された。 「え? いや・・・、うん、特には・・・」  物凄く真剣に心配されたので、逆にそっちの方に驚かされたというか。  後ろを通っていく男性社員達も、俺と同じようにきょとんとした顔つきで通り過ぎていく。  廊下で女子社員とすれ違う時も受付と同じような反応で、中には「篠田君、困ったことがあったら、直ぐに言ってきて。力になるから」と声をかけてくる先輩女子社員までいた。   ── な、なんなんだろう。今朝になって、突然女子社員の中に一致団結した「絆」らしきものを感じるのは。昨日から今日にかけて、我が社の女子社員に何があったのか・・・。  何となくいつもと違う空気を感じつつ・・・しかも俺にとって悪い方向に空気が変わるのならともかく、むしろ女子社員皆が、俺に気を使ってくれているのが鈍い俺にもはっきりとわかる・・・。日本酒課のフロアに辿り着くと、女子社員の変化の原因がわかったような気がした。  日本酒課のブースに入ったなり、俺は田中さんに捕まった。 「昨日、広報課の奈緒から聞きました。成澤さんとの関係が、週刊誌にすっぱ抜かれたって。だから皆で篠田さんと成澤さんを守ろうって、私達、決めたんです」  田中さんは、俺以上に深刻な顔つきでそう言った。  田中さんにそう言われ、俺はようやく理解した。  広報課の木下奈緒ちゃんは、田中さんと取り分け仲のいい4人組の中の一人だ。おそらく昨日、社長が今後の対応の為に広報課にだけ今回のことを話していたはずが、密かに女子社員の間で話が広がっていったのだろう。 そしておそらく今朝の様子からして、田中さんの指す「私達」っていうのは、仲良し4人組を超えた、全女子社員の可能性もあるっていう・・・・。── っていうか、うちの女子社員が皆、そんなに仲良かったことが逆にびっくりなんだけど。しかも昨夜一晩の間に女子社員の間で話がまとまったっていうのって、何だか凄くないか? その機動力に、またまたびっくりなんですけど・・・。  だが、俺が呑気に構えていられたのは、田中さんがこう言い出すまでのことだった。 「雑誌、見ました。成澤さんのことはともかく、あんなに篠田さんの情報が事細かにバレてるのなんて、おかしいです。絶対に、社内の誰かがリークしたに決まってます」  ドキリとした。  昨日、川島に謝られたことが頭に浮かんだ。 「た、田中さん、それは・・・」 「私、旦那が法医学やってるんで、捜査的なことには強いんです。もう犯人の目星はついてます」 「いや、そういうのは・・・」  その矢先、タイミングが悪いことに川島が出社してきた。  田中さんが立ち上がった。 「ちょっと川島さん、いいですか」 「え? 何?」  川島は、田中さんから怖い声で声をかけられ、面食らった様子だった。 「昨日、休憩室で篠田さんに何か謝ってたみたいですけど、何を謝ってたんですか?」 「何って、それは・・・」  田中さんが食って掛かる勢いで川島に詰め寄ろうとしたのを、俺は押さえた。 「いいんだ、田中さん。もう終わったことなんだ。ちゃんと謝ってもらったから、もういいんだ」  田中さんが振り返る。 「だから何を謝ってもらったんですか? ひょっとして、マスコミに篠田さんのこと言いふらしたの、川島さんだったんじゃないですか?」  川島の顔が目に見えて青ざめた。 「ほら、図星でしょ? 川島さん、マスコミの人にどう説明したか知りませんけど、週刊誌に書かれている篠田さん、兄妹共々素行不良で高校を中退したみたいに書かれちゃってるじゃないですか。そんなの、全然正しくなんかないでしょ?! 今の社内で篠田さんに対して否定的な感情を抱いてるのって、川島さんだけじゃないですか。篠田さんの働きに嫉妬してるからって、ちょっと酷過ぎるんじゃないですか?」 「田中さん!」  俺は田中さんの腕をグイッとひっぱった。  田中さんが俺を見る。  俺は首を横に振った。 「皆が俺を守ってくれようとしてることはとても嬉しいよ。でもそう思うなら、川島のことも守ってほしいんだ。川島は昨日きちんと謝ってくれた。俺はそれを受け入れた。それでいいじゃないか」 「・・・篠田さん・・・」 「川島の言ったことを勝手に歪曲させたのは、雑誌の記者だよ。川島は訊かれたことに答えただけだ。そうだよな、川島」  俺が川島を見ると、川島は青ざめた表情のまま、二、三回頷いた。 「あの記事の写真も、本当はそういうシチュエーションじゃないのに、嘘のコメントをつけられたりしてた。週刊誌っていうのは、そういうものなんだって思うよ」 「篠田さん・・・・」  田中さんは少し困った顔をして・・・というより呆れてたのかな・・・俺の名を呟いた。  俺は再度田中さんを見つめ直すと、「それより今日、千春が社長に会いに来るんだ。凄く緊張してるから、会社に来た時はフォローしてあげてほしいんだ」と伝えた。  途端に田中さんの表情が変わる。 「え? 成澤さん、来るんですか?! 会社に」 「ああ。なんでも、社長が直接会いたいっていうから・・・」 「ふぅん・・・。そうですか、社長が・・・」  田中さんは俺から視線を外し、宙をぐるぐると見遣って何か考えているような素振りを見せた後、「わかりました。こうしちゃいられない。成澤さんが来社された時に、騒ぎが大きくならないようにしないと」と突如そう呟いて、慌ただしく日本酒課を出て行った。 「な、なんだか、大事になってるんだな・・・」  川島が申し訳なさそうにそう言ったので、俺はポンポンと二回、川島の肩を叩いたのだった。 <side-CHIHARU>  今朝の体調は、悪くなかった。  シノさんに言われるがままゆっくりと眠ったら、熱も完全に下がって、あんなに大きかった不安な気持ちも、幾分和らいでいた。  まぁ、不安感を払拭してくれたのは他でもないシノさんの温かい腕に包まれて一晩眠ったお陰なんだけど。  昨日は、僕がぶっ倒れたことを聞きつけてシノさんが会社を抜け出してきてくれて、僕を慰めてくれた。  そして僕に言ったんだ。   ── 一緒に、住もう。って。  ホント、あの人、どうかしてるよ。  これからきっと僕の存在がシノさんを苦しめることになるのが目に見えてわかっているのに、「一緒に住もう」だなんて言えるんだもの。  でも、たまらなく、嬉しかった。  シノさんは、僕との関係に本気なんだってこと、証明してくれた。  人前で涙を見せたことのないこの僕が子どものように泣きじゃくってるのを見て、岡崎さんも心底驚いた顔つきをしてたけど、僕は涙をこらえることができなかった。  そうして、なんとか一先ず落ち着けた僕だったんだけど。  今朝、シノさんに「社長が千春に会いたがっている」と告げられてから、今度はかつてない緊張感が僕を襲った。  昨日は勢いで「僕も会社に行く!」て息巻いていた僕だけど、改めて社長さんから「会いたい」と言われ、下世話な話、僕は本気で”ビビって”いた。  だってそれって、僕がシノさんにとって相応しい相手かどうか、加寿宮社長が見極めるってことでしょ。  若い頃両親を亡くしたシノさんが加寿宮社長を親代わりに思っていることは、シノさんの普段の会話から伺い知れることだし、実際シノさんの話を聞いていたら、加寿宮社長に随分可愛がられていることもわかる。  気になって僕が独自に調べてみた加寿宮社長という人は、政財界に随分顔が利く“切れ者”らしいし、顔写真も見たけど、あの鋭い眼光は偽物を瞬時に見抜くタイプだ。一代で東京のど真ん中に自社ビルを構えただけのことはある。   ── これでもし、加寿宮社長に僕が認められなかったら、どうしよう・・・。  シノさんのあの性格だ。  きっと僕と加寿宮社長を両天秤にかけることはできないはずだ。  どうせ「どっちも大切だから、認めてもらうまで俺が頑張る」とか何とか、言ってそう・・・。  世の中には頑張ったってどうしようもないことってたくさんあるし、悲しいけどそれが現実っていうことも数多くある。そういうことにぶち当たって、シノさんが傷つくのを見るのは、辛過ぎる。  もし、本当に加寿宮社長に拒絶されたら、本当に僕はどうしたらいいのか・・・。  そう思い出したら緊張感がハンパなくなって、口から心臓が飛び出してしまいそうになり、それで思わず気分が悪くなった。  しかも気分が悪くなったのが、加寿宮に行く時間を作るために岡崎さんにスケジュール調整の依頼をしている電話口でだったから、格好悪いことこの上なかった。  しまいには岡崎さんに心配され、「やっぱり私もついていこうか」と言われる始末だった。  最初は個人的なことだから、岡崎さんの仕事の時間を奪うのは・・・と断った僕だけど、「澤清順の精神の安定を図るのが、私の何よりの使命なんですけどね」と畳み掛けるように言われ、弱気だった心を突かれつつ、結局は加寿宮まで車を出してもらうことにした。 「あなたの車は赤い外車だし目立つから、返って黒塗りの愛想のないこっちの車の方がいいのよ」  いつもの流潮社の車の後部座席で、隣に座る岡崎さんにそう言われた。 「確かに、その通りですけど・・・。でも、会社には僕一人で行きますから」 「ハイハイ、どうぞご勝手に。精々、篠田さんの会社でぶっ倒れないようにしてね」  その言い草に、僕は苦笑いした。 「酷いな、その言い方」 「だって、こっちも驚くわよ。昔のあなたは、殺しても死にそうにないほど心臓に毛が生えてそうな感じだったのに、今じゃその心臓が飛び出しそうだっていうんだから。随分変われば変わるものだと」 「そっちだって変わったんじゃないですか?」 「え?」 「ネイル。今日、してないじゃないですか」  岡崎さんは、今気がついたというように、自分の爪を見つめた。 「あら、ホント・・・。昨夜落として、塗らなきゃって思ってたんだけど・・・。何だかあなた達二人のことを心配してたら、塗るの忘れちゃったんだわ。嫌だ、まるで私、あなたのお母さんみたいじゃないの」  岡崎さんと僕は顔を見合わせると、二人同時に吹き出した。  まさか岡崎さんとこんな風に笑いあえる日が来るなんてね。 「 ── 感謝してます」  一頻り笑いあった後、僕がぽつりとそう言うと、岡崎さんは僕の肩をグイッと押し、「らしくないこと言わないの」と苦笑いしたのだった。  僕を乗せた流潮社の車は、加寿宮ビルの入口が見える場所の路肩にゆっくりと停車した。  運転手と岡崎さんが身を乗り出してビルの入口を見やる。 「あ~・・・それらしきヤツ、いますねぇ・・・」 「マスコミ関係もそうだけど、一般の野次馬らしき女性の姿もチラホラ見えるわ・・・。きっと皆、目線で隠されてない篠田君の素顔を見たくて来てるのねぇ・・・」 「でも、相手が流石に一般人ともあって、会社の中まで突撃する輩はいないみたいですね」 「そんなの今だけかもしれないわ。これで澤君が会社の中に入っていくのを見られたら、一気にヒートアップしちゃうかも・・・」 「そうですねぇ」 「どうする? 澤君」  岡崎さんが、僕を返り見る。  僕は溜息をついた。 「そうは言っても、ここで引き返す訳にはいきませんよ。僕は断固、加寿宮社長と面会します」 「意気込みはわかるけど・・・。さて、どうしたものか・・・」  岡崎さんが呟いた時。  車の直ぐ後ろで軽くクラクションが鳴らされた。  三人で振り返る。  あ!っと思った。  そこには、KAJIMIYAのロゴマークがついた車が停まっていたからだ。  運転席で手を振っていたのは、田中さんだった。  すぐに僕の携帯が鳴る。 『成澤さん?』 「ああ、田中さん。どうしたの?」 『そろそろ来られる頃だと思って。私の車について来てください。ちょっと離れたところに、加寿宮の配送倉庫があるんです。そこで社の車に乗り換えてもらって本社の駐車場に入れば、パッと見、わかりませんから』  僕が田中さんの言ったことを二人に伝えると、岡崎さんはニヤッと笑って「凄い頭脳プレイじゃないの」となぜか運転手さんの頭を小突いた。  結局その後、僕は田中さんの指示通り、加寿宮の車に乗り換えて加寿宮本社に入った。  田中さんが言う通り、社の裏口にある駐車場の出入口にもマスコミや野次馬がいたが、誰も僕のことに気づく者はいなかった。  車から降りると、僕と田中さんは顔を見合わせて溜息をついた。 「本当に、ご迷惑ばかりかけてすみません」  僕がそう言うと、田中さんは首を横に振った。 「いいえ、とんでもない。篠田さんは我が社のアイドル的存在なので、彼に元気がないと会社中沈んじゃうんです。本当にいつも元気な人だから」 「本当にそうだよね。いつも弱音を吐いてるところを人には見せない人だから。でも、田中さんにはいろいろ気を使ってもらって、感謝してます。ありがとうございます。一度ちゃんとお礼を言わなきゃってずっと思ってたんだ」  田中さんはにっこり微笑む。 「そう言ってもらって嬉しいです。我が社の女子社員全員に対しての謝意だと受け取っておきます」 「女子社員?」 「ええ。篠田さんと成澤さんのこと、女子社員全員で応援することにしたんです。だって好き同士なのに、外的要因で別れさせられてしまうなんて、そんなの悲劇的過ぎるじゃないですか」   ── なんだか・・・加寿宮社内、ちょっと大変なことになってる? しかも、予想外のいい方向に・・・。  ゲイ歴の長いこの僕でも経験したことのない展開に、さすがの僕もちょっと戸惑った。  これってやっぱり、シノさんの人徳のなせる技なのか・・・。  どうやら田中さんの言っていることは本当のようで、田中さんに連れられて社内に入ると、なぜか一切騒がれることはなかったが、女子社員から「熱い視線」が僕に注がれているのがわかった。しかもその「熱い視線」が、いつものピンクじみたものではなく、まるで戦友か何かが帰還したかのような不思議な歓迎を表す視線のように思えた。  それとは打って変わって男性社員はというと、エレベーターで僕と乗り合わせたり、廊下ですれ違ったりする社員達は、総じて僕を見て驚いて声を失っているといった風だった。  それはあの週刊誌の情報を知っていての反応というよりは、純粋に僕のようなタイプの容姿の男を身近で見たことがなかった、というような反応だった。これは以前から初めて会うノンケの男性にはよくされる反応だったので、慣れたものだった。  各階でエレベーターが止まり、社員が軒並み降りて行って僕と田中さんだけになると、田中さんは僕に話しかけてきた。 「随分緊張なさってますね」  僕は少し息をする意味でも、ハハハと笑って胸を喘がせると、「そうなんだ。柄にもなく」と返した。 「うちの社長は見た目怖いけど、親父ギャグ連発の気のいいオジさんですから。ちゃんと話せばわかってもらえますよ」  僕は、写真で見た加寿宮社長の姿を思い浮かべた。   ── 親父ギャグは言いそうにないイメージの人だったけど・・・。 「シノさんは、社内にいます?」 「はい。今日は外に出ない方がいいだろうとの課長命令で内勤してます。篠田さんも成澤さんと社長が会うことで大分緊張してるみたい。あ、つきました。この階に日本酒課があるんです。社長室に行く前に、日本酒課に寄ってほしいって篠田さんが言ってたから」  くしくもシノさんの仕事場を訪れることになって、僕は別の意味で緊張した。  ゲイ同士ならともかく、ノンケだった人の職場にゲイの恋人が行くのなんて、あり得ないでしょ、普通。  フロアに降り立つと、突然視界が開けた。  エレベーターホールの前がガラス張りになっていて、広いワンフロアに複数の営業課が入ってるようだった。 「日本酒課はこちらです」  爽やかな若草色の低いパーテーションで区切られた一角が日本酒課のようだった。  シノさんの言っていた通り営業課の中では主力でないのか、隅の方に位置している。  課の中の社員は全員出払っているのか、日本酒課の中にいるのはシノさんと課長らしき年配の男性社員だけだった。 「篠田さん、成澤さんが」  田中さんが声をかけると、シノさんと課長さんが同時にこちらを向いた。  僕は課長さんと目を合わせると、丁寧に頭を下げた。  それを見て課長さんも頭を下げてくれた。  シノさんが近づいてくる。 「ごめん。忙しいのに」 「いいえ。こちらこそ騒がせてしまって。会社の外・・・」 「ああ。朝は何ともなかったんだけど、時間が経つと共に人が集まってきて・・・。田中さん達が逐一社外の様子を見てきてくれるから、その辺は安心してる」 「篠田さんが退社する時の対策も、皆で考えてます」  田中さんは、ガッツポーズをしてみせた。  なんと頼もしい。 「一緒に行きたいところだけど、社長、さしで千春と会いたいって言ってるから」  僕だって不安でいっぱいだったけど、ここでその不安をシノさんにぶつける訳にはいかない。  僕はニッコリと笑うと、シノさんに「わかってます。大丈夫ですから」と言って、再び課長さんに視線を戻し会釈した。  課長さんも同じように会釈してくる。  僕の腹は決まった。  シノさんがこのままこの会社で働いていけるようにするには、僕が加寿宮社長の信頼を得なくてはならない。  ここで怖じ気づいてばかりじゃ、ダメなんだ。  小刻みに震えていた手をギュッと握り締めて、落ち着かせる。  僕は深呼吸した後、短くハッと息を吐いた。 「じゃ、行きましょうか」 「わかりました。ご案内します」  僕は田中さんの後をついて、フロアを出たのだった。         <side-SHINO>  千春が田中さんに連れられてエレベーターの向こうに消えた後、俺が席に戻ると、課長がぼんやりと呟いた。 「あれが噂のチハルちゃんか・・・」  まさかそんなこと課長が呟くとは思えなくて、俺はビックリした顔で課長を見た。  けれど課長は俺の顔を見もせず、千春が今まで立っていた場所を見つめたまま、更に呟く。 「思っていたより・・・美人だな」 「ええ・・・まぁ・・・」  俺は一応そう答えたが、課長は俺の答えなど耳に入っていない様子だった。  続けて課長は呟く。 「道理でシノは社内の女の子に興味を示さんはずだ」 「はぁ・・・」  てっきりその後に、「シノが男を好きだったとは」と続くかと思いきや、課長が言ったのは次のようなひと言だった。 「まさかシノがこれほどまで面食いだったとはな。社内で浮いた噂が立たんはずだ。我が社には、あれほどの美人社員はおらん」  か、課長、えっ、そっち???!!!
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!