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act.31
<side-CHIHARU>
加寿宮の社長室は、なぜかトップフロアにはなく、三階という中途半端な階の片隅にあった。
僕も小説を書く時に一般企業を取材することもあったが、こんなところに社長室がある会社は初めてだった。
田中さんがおよそ社長室らしからぬドアをノックすると、「はい」といかにも会社経営者らしいバリトンの声で返事が返ってきた。
「社長、澤先生がお見えになってます」
田中さんがそう声をかけるとドアが開いて、加寿宮社長が顔を覗かせた。
どうやら社長自らドアを開けてくれたようだ。
社長秘書って、いないのかな・・・と思ったんだけど、後で聞くところによると人払いをしてくれていたらしい。
「田中君、コーヒー出してくれるかね」
「わかりました」
田中さんが社長室を出て行くと、必然的に加寿宮社長と僕の二人きりとなった。
否が応でも緊張感は絶頂にまで高まる。
ああ、今にも心臓が外に飛び出してしまいそうだ。
「はじめまして。澤清順です」
僕が頭を下げると、加寿宮社長は僕に手を差し出した。
「それはペンネームかね」
「ええ。そうです。本名は、成澤千春と言います」
僕は加寿宮社長の手を握り返そうとしたが、緊張で自分の手のひらが汗でべったりなことに気付き、あわててハンカチで手を拭って、握手をした。
加寿宮社長がニヤリと笑う。
「随分緊張しているね」
僕は思わず苦笑いした。
「正直言って、これまで著名な写真家の前に立ったり、映画の舞台挨拶にも出たりしましたが、それと比べても今が一番緊張してると思います」
「何も取って食やせんよ。まぁ、お座りください」
「は・・・。失礼します」
僕がソファーに座ると、加寿宮社長は向かいに座りながら言った。
「こちらも正直な印象を率直に言わせてもらおうかな」
「は、はい」
僕は、思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
── 一体、何を言われるのか・・・。
「思ったより、男っぽいんだな、君は。背も篠田より高いようだし、仕草も何というか、男だな。当たり前かもしれんが」
加寿宮社長は、ソファーに座る僕の開いた膝頭を見てそう言った。
僕は慌てて膝を閉じようとしたが、「いやいや、別に態度が大きいとかそういうことを言ってるんじゃないよ。自然にしてくれたまえ」と言われた。
「いや正直、篠田はごく普通の男だと思っていたから、きっともっと女性的な人物かと思っていたんだよ」
加寿宮社長はそう言った。
彼がそう思ったのも無理はない。
“男が好きな男”というので一般的な人がまず思い浮かべるのは、性同一性障害の人達のことだろう。いわゆる“ニューハーフ”や“オネェ”と言われる人達だ。
僕らのような、”男として男が好き”というのは最も一般人には受け入れがたいケースのはずだ。
僕は、気づけば「申し訳ありません」と加寿宮社長に頭を下げていた。
加寿宮社長は少し面食らったような顔をした後、真顔に戻ると、「なぜ謝るんだ。それはどういう意味かね」と訊いてきたのだった。
僕自身、なぜ謝ってしまったのか自分でも少し混乱したが、少し考えてからこう答えた。
「 ── きっと僕は、ずっとこうして謝りたかったんだと思います。シノさんをこの道に引きずり込んでしまったのは、この僕ですから。僕にさえ引っかからなければ、シノさんはごく普通の人生を歩むこともできたはずです。それをこの僕が、壊してしまった。そのことをずっとシノさんにも謝ってきたけれど、彼が僕の謝罪を受け入れることはなくて、いつも『謝るな』と僕に言ってくれます」
僕がそこまで言うと、社長は思い当たる節があるとでもいいそうな顔つきをして、「まぁ、あいつならそう言うだろうな」と呟いた。
「変な拘りなのかもしれませんが、それでも僕の中の罪悪感は消えることはありません。多分、シノさんと付き合っていく限り、それはずっと消えないでしょう。それは苦しいことだけどでも、僕にとってそれは甘い苦しみです。僕はそれに溺れている・・・いや、自惚れてると言ってしまった方が近いでしょうか。・・・そういうのを含めて、僕は責めを受けるべきなんです。シノさんをずっと大切にしてきてくださった方々から」
そこまで僕が話した時、ドアがノックされ、田中さんがコーヒーを持って入ってきた。
会話は一旦そこで止まり、再び田中さんが部屋を出て行くと、加寿宮社長が口を開いた。
「いきなりそんなことを話してくるとは思わなかった」
僕は目線を上げて、加寿宮社長を見た。
「す、すみません」
「いやいやいや。悪い意味で言っている訳じゃない」
加寿宮社長は手を横に振りながら、そう言う。
その言い方がシノさんがよくする仕草にとてもよく似ていて、それは加寿宮社長の影響だったんだということがわかった。
きっとうちの親子関係よりずっと深い絆が、二人の間にはあるんだと感じた。
加寿宮社長は続ける。
「もっとこう・・・あっけらかんとしているかと思ったんだ。女子社員に聞く限り売れっ子の作家さんらしいし、まだ二十代半ばということらしいから、今時の若者のように開き直っているのかと思っていた。『シノと付き合ってますけど、何か?』・・・みたいな反応だろうと。それがまさか罪悪感を語られるとはね。意外だった」
「僕は、物心ついた時から恋愛対象が男性でした。僕自身、理由はわかりません。別に女性に対して嫌な思いをした覚えもありませんし、どうしたらこういう風になるのか、または、こうなってしまったのかの答えを出せる人間は、少なくとも僕の家族の中にはいません。両親は僕にさほど興味はないですし、そのことで僕を責めることもなければ、僕がこうなってしまったことの責任を両親に負わせるつもりもありません」
僕は、加寿宮社長にこれまでの僕の生い立ちを話した。
僕のすべてを知ってもらった上で、判断してほしいと思ったからだ。
── 僕がシノさんと付き合っていっていいのかどうか、を。
シノさんは今回のことで別れる気はまるでない、という感じだったが、やはり僕は違っていた。
加寿宮社長が僕らの関係を認めなければ、やはり別れるべきだと僕はまだそう思っていた。
それで僕の心が死のうと、知ったことか。
シノさんの社会的な地位を奪ってまで僕の幸せを優先させるべきではない。 ── そう思っていた。
僕がこれまでの経緯を話し終わると、加寿宮社長はフゥーと深く息をついた。
「君は、随分辛い生い立ちをさらりと他人事のように話すんだな」
「辛い・・・でしょうか?」
「辛いとは思っていないと? 両親は今でも連絡のひとつもよこしてこないんだろう?」
「それが当たり前として育ってきましたからね。何かを諦めるのは、得意です。 ── まぁもっとも、こんなの自慢にもなんにもなりませんが」
「では篠田のためなら、篠田のことを諦めることもできると?」
じっと真っ直ぐ目を見据えられ、そう訊かれた。
ちょっと栗色がかった不思議な目の色をしていた。
僕はしばらくの沈黙の後、きゅっと唇を噛み締め、そして小さく震える息を吐き出した。
そして僕は真っ直ぐ加寿宮社長を見つめ返すと、こう答えた。
「シノさんは認めたがらないと思いますが・・・。僕にはできます。彼のためなら、彼を諦めることが。僕の存在がシノさんにとって徹底的な悪になるのだとすれば」
<side-SHINO>
千春が社長室から帰ってきたのは、丁度40分後のことだった。
思ったより短い。
何かあったのだろうか、と思わず田中さんと顔を見合わせてしまった。
俺がエレベーターホールまで出て行くと、意外にも千春はこざっぱりとした顔つきをしていた。会社に来た時とは全然違う。
「どうだった?」
俺が単刀直入に訊くと、千春は肩を竦めた。
「僕が話すべきことは話してきました」
「それで? 社長は?」
「 ── わかった、と。君の言いたいことはよくわかったと言ってくださいました」
「それだけ?」
「ええ。それだけ」
「俺達の関係を認めた、とか、納得した、とかそういうのは・・・」
「後でシノさんに言うって、言ってましたよ」
ケロリとした顔で千春にそう言われたので、逆に俺が「はぁ?」と顔を歪めた。
「なんだよ! それ!! 人を呼びつけといて、そんな答え?!」
大きな声を上げる俺に、千春は「まぁまぁ、落ち着いて」と苦笑いする。
何事か、と田中さんが顔を覗かせてきた。
千春が、田中さんに気づく。
「じゃ、僕は帰ります。仕事の邪魔になるといけないし。田中さん、すみませんが最寄りの駅まで送っていってもらえませんか? まだ外にマスコミがいそうなんで」
田中さんは、俺と千春の顔を見比べながら、「え、ええ・・・、もちろん構いませんけど」と言って出かける準備をしてくれる。
「あのオヤジ、何考えてんだ・・・」
俺が憮然とした顔つきでそう呟くと、千春は僕の身体を肘鉄で小突いた。
「そんな風に言ってはダメですよ。加寿宮社長、いい方でした。シノさんのこと、大切に思ってくれている素敵な人です」
千春は穏やかな微笑みを浮かべて、そう言った。
「千春・・・」
「成澤さん、お待たせしました」
俺が千春の名を呟いた時、田中さんがエレベーターホールに飛び込んできた。
「じゃ、行きましょうか」
「はい。お仕事中に本当にすみません。じゃシノさん、行くね」
「う、うん・・・」
「今日はどっちに帰るの?」
「え? あ・・・、俺ん家の方・・・」
「じゃ、夕食、用意しておく」
千春は軽く一回手を振ると、田中さんと一緒にエレベーターの向こうに消えていった。
なんだか俺は、その場にぽつねんと残されてしまった。
・・・・・・。
こ、これって一体、どういう展開・・・・???
背後に視線を感じたので振り返ると、課長が壁越しに俺のことを覗き込んでいた。
俺と課長の目が合う。
課長は言った。
「 ── なんだ、シノ。結局フラれたのか」
「違いますよ!!」
俺はそう叫ぶと、社長室のある三階に向かって猛然と階段を下りて行ったのだった。
「社長!」
俺が猛然とドアを開けると、窓際に立っていた社長は顰め面で振り返った。
「こら! 騒がしい。ノックぐらいせんか」
俺は社長に言われてハッとして、「すみません」と謝って、開いた状態のドアをノックした。社長は苦笑いすると「今更遅い」と言った。俺は再び「すみません」と謝って、部屋の中に入るとドアを閉めた。
「でも、あの、例の件は・・・」
俺が言い淀むのを気にする素振りも見せず、社長は再び窓の外に目をやると、こう言った。
「お前、広田弘毅を知ってるか」
「は? え、えぇと・・・」
突然あまり聞き馴染みのない名前を言われた俺は、宙を見上げ、誰だったか思い出そうとした。
だが社長は俺から答えが出ないものと最初から思っていたのか、すぐに言葉をつなげた。
「文官で唯一A級戦犯になった政治家だ」
「あっ、あぁ・・・」
社長にそう言われ、確かにそうだと思い出した俺だったが、なんで突然社長がそんな話を始めたのか、その理由が俺にはさっぱりわからなかった。
社長は、ぽかんと立ち尽くしている俺を完全にほっぽり出したままで・・・というより昔のことを思い出しているかのような様子で、こう言った。
「まぁもっとも俺が言いたいのは、主人の広田弘毅ことでなく、その妻の広田静子のことだがな」
「は、はぁ・・・」
俺はもう、相づちをうつしかない。
社長は一体、何を言わんとしているのか・・・。
社長はふと我に返ったかのように振り返ると、ソファーに座り、タバコに火をつけた。
目線で、「お前も座れ」と指し示されたので、俺も向かいに座る。
なんかこの奇妙な感じ、やっぱりダメだったのかな・・・。
俺が思っている以上に、男同士の恋愛って世間に受け入れられがたいものなのか。
千春は前からずっとその不安を口にも態度にも示してきたけど、やっぱ俺が呑気なんだろうか。
不思議と俺は、そこら辺にハードルを感じることはなくて、気づけば自然に千春のことを好きになってた。
いつぞや葵さんから、「シノくんは、凄くニュートラルな人よね」と言われたことがあるが、今思えば、葵さんはそういうことを言っていたのだろうか。
社長は、なんだか呑気に二回、三回とタバコをふかすと、やがて俺の方に身を乗り出して言った。
「最初はな、”なんだ、これっぽっちのものか”と思ったんだ」
「これっぽっちのもの?」
「さっき来ていた成澤君だ」
社長にそう言われ、俺はムッとして口を尖らせた。
「それ、どういう意味ですか。曲がりなりにも俺の恋人ですけどね」
「ああ、不機嫌になるな。話は最後まで聞くものだ」
社長は頭の回転が恐ろしく早い人だから、いつも肝心のところをはしょって、話の最後だけ言ったりするから、社員達はよく混乱する。今も丁度そんな感じで。
「つまり、どういうことですか? わかるように説明してください」
「彼が大したことがない、って言ってるわけじゃない。むしろ、男でも”美しい”という形容詞が似合いの人間なぞ、初めて見たと思ったぐらいだ」
「はぁ」
「俺が言ってるのはだな、彼の気持ちの話をしているんだ」
「気持ち・・・ですか?」
社長は、再びソファーに背を凭れさせて、タバコを吸った。
「成澤君は、『別れてもいい』と言ったんだ。もし自分の存在がお前の足を引っ張ることになるんならな」
社長にそう言われ、俺は頭にカッと血液が上ってくるのを感じた。
「そ、そんな!」
「まぁ、だから落ち着けって」
社長が声を荒げたので、俺は思わず口を噤んだ。
社長は、俺に呆れたかのようにフゥと溜息をつく。
「彼みたいな人が、よくもまぁお前みたいな男を好いてくれたものだ」
「そりゃ・・・まぁ、俺も時々そう思うところではありますけど」
社長は俺の言い草にニヘラと笑う。
業界で評判の「ロマンスグレーな雰囲気」とやらも台無しだ。
「まぁつまりだな、俺は思ったんだ。他人から批判されてあっさり『別れます』と言えるなんざ、こりゃ大して好きでもないのかなぁと。たったこれっぽっちの気持ちなのかと思った訳だ」
社長にそう言われ、俺は思わず立ち上がって反論しようとしたが、社長に下から目で「最後まで話を聞け」と言われ・・・多分そう言っていたんだと思う・・・、俺は握りしめた拳を緩めてソファーに座り直した。
「成澤君にそう言われて、最初はそういう風に思っていたんだが、そういう彼の目を真正面から見たら、急に心の臓がきゅぅっとなった訳よ。それで思い出したのが広田弘毅の嫁さんだ」
「はぁ」
「終戦後、GHQの統治下に置かれた日本で、旦那の広田弘毅は文官ながら唯一A級戦犯の容疑をかけられ、逮捕された。その直後、広田弘毅の妻・静子は自ら命を絶ったんだ。何でだと思う?」
「え? 旦那さんの死刑が決定したための後追い・・・ですかね・・・」
「いいや。静子が自決したのは、裁判が結審する前だ」
「え?! じゃぁ・・・なんででしょう・・・?」
「説はいろいろあると言われているがな。俺が信じている説は、静子の父親が国粋団体の幹部で、自分の存在が夫の裁判に悪影響を与えるからと静子が考えたからだというものだ」
そこまで社長にそう言われ、俺は「あ!」と声を上げた。
社長は、やっとわかったかというような表情を浮かべた。
「広田弘毅と静子は、生前、それはそれは仲睦まじい夫婦だったそうだ。自分の命を差し出せるほど、彼女は旦那を愛していたということだ。 ── 成澤君の目を見ていたらな、ふと思い出したんだ」
「社長・・・」
社長は、最後に深く深くタバコの煙を吸い込んでゆっくりと吐き出すと、タバコを灰皿に押し付けた。
「きっと彼は広田静子と同類の考え方をする人間だ。 ── 精々、お前がしゃんとして、彼を守ってやらねばならんぞ。いいな」
社長の最後の言葉は、先ほどまでとは打って変わって、とても真摯な響きがあった。
俺は胸がぐっと熱くなり、「はい」とひと言答え、深く頭を下げた。
俺が社長室から日本酒課のフロアに帰ると、営業から戻ってきていた先輩の手島さんから大きな声をかけられた。
「おぉ! シノの嫁さんが会社に来てたんだって?」
「え? あ、よ、嫁さんっていうか・・・」
「正確には嫁さんじゃないですが、ほぼそれに間違いないです」
横から田中さんが声を挟んでくる。
「課長に聞いたぜぇ~。えれぇ美人だったそうじゃねぇか」
手島さんがそう言いながら、俺の肩を激しく叩いてくる。
「い、いてて・・・」
俺は思わず呻きながら思った。
手島さん、俺の相手が男の人だって、わかってるのかなぁ?
「そうなですよ、手島さん。美人でしかも料理上手なんですって!」
俺の反応を余所に、なぜか手島さんと田中さんで盛り上がっている。
「うぉ~~~!! 美人な上に料理上手なの?! なんだよそれぇ! お前、いい加減にしろよ!」
イテっ!
ま、また叩かれた・・・。
「で、その噂の写真週刊誌とやらはいずこに」
手島さんがそう言うと、田中さんが頬をプッと膨らませて「記事の扱いにあんまり腹が立って、捨てちゃいました!」と言った。
「えぇ~~~~!!! じゃ、俺だけ知らないってことかよぉ~~~~」
「 ── いや、手島さんだけじゃないと思いますけどね・・・」
俺が隣で呟いても、手島さんは「俺だけ仲間はずれじゃぁ~ん」とごねている。
「おいシノ、似顔絵でも描いてやったらどうだ」
扇子を閉じたり開いたりしながら、課長がその扇子で俺を指す。
「え?! 似顔絵!!?」
「あ、そうそう。似顔絵、描いてあげたらいいんじゃないですか?」
田中さんもそう言って、俺を見上げる。
ううう。
自慢じゃないが、俺、絵描くの、苦手なんだよね・・・。
「いや、俺、絵、下手で」
「描けよ~、篠田ぁ~」
ううう、手島さん、酒飲んでないよね?
「はい、紙とペン」
田中さんが、余計なアシストを・・・。
俺は結局、三人に囲まれて逃げ場を失い、千春の似顔絵を描く羽目になってしまった。
「ええと・・・、こ、こんな感じで・・・」
できた絵を見た瞬間。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
三人が三人、俺を見て言った。
「へったくそだなぁ~・・・・」
だからそう言ったじゃん!!!
<side-CHIHARU>
田中さんに加寿宮の配送倉庫まで送ってもらった後、僕は岡崎さんに報告の電話を一本入れ、今日予定していた仕事は明日以降に持ち越してもらえることを確認した。
岡崎さんの方も、今回の記事への対応で急遽予定外のスケジュールで動くことになっているそうで、「もう一度、スケジュールを整える」との返事だった。だが、明日午後のコラム出版記念の記者発表は動かせないらしく、苦々しい気分になった。
この分だと、最初来る予定でなかったところからも記者が来そうだ。
これでは、まるで本の宣伝をするために写真週刊誌に記事を書いてもらったかのようなタイミングじゃないか。
本当に最悪のタイミング。
写真週刊誌は別に流潮社の系列の出版社じゃないんだから、わざわざ宣伝してくれるような真似、してくれなくてもいいのに。本当に、なんだってんだろう。
僕は電話を切った後タクシーを捕まえ、運転手に「月島へ」と告げた。
シノさんの家に行く予定にはしてあったけど、それを意識すると来なく、自然に「月島」の言葉が出ていた。
なんだか気分が昂っていて、胸の動悸をなんとか沈めたかった。
そうするためには月島に行くのが一番なんじゃないかって、無意識でも僕は”考えて”いたんだ。
やっぱり月島は僕のホームグラウンドなのかもしれない。
幼い頃を過ごした名古屋時代の思い出はひとつもない。
僕が人としての記憶を残しているのは、月島での祖母との生活からだった。
古くさくて、今ひとつあか抜けない町だけど、意外に僕はそう言う方が好きなんだってしみじみと思った。
結局僕は、月島の商店街にある古い喫茶店の一番奥の片隅にある席に”引きこもった”。
この店は祖母が生きている頃、よく連れてきてくれた店だった。
飲むと舌が緑色になるクリームソーダーをよく飲んでいた。
商店街の他の店主は幼い頃の僕と今の僕が結びついていない人がほとんどだが、この店の女主人だけは多分違う。彼女は口に出さないが、僕が何者であるかを覚えている様子が窺えた。
僕が店の中に入ると、中途半端な時間帯のせいか店には客がおらず、閑散としていた。
僕は一番奥の目立たない席に座ると、70をとうに超えている女主人は「いつものにするかね」と声をかけてきた。
「いつもの」と声をかけられるほど頻繁に来ていないはずだが ── 来ていたのは僕の祖母だ ── 、女主人にそう声をかけられ、僕は無言で頷いた。
こう言ってはなんだが、とにかく人目にさらされないところでただ静かにしたかった僕に取って、店ががら空きだったのは幸いだった。
結局、僕の前に出されたのは祖母がいつも飲んでいたマンダリンコーヒーだった。それを見て僕は、「ああ、この人、やっぱりわかっているんだな」と思った。そうでなければ、祖母がいつも頼んでいたはずのマンダリンコーヒーが僕に出されるはずがない。
ちょっと酸味の立ったコーヒーを口に含み、ほっと溜息をつく。
ああ、少し落ち着いてきたかもしれない。
そして僕はこう思った。
── シノさんと一緒に住むのなら、やっぱりこの月島がいいな・・・と。
祖母との思い出が詰まった町。そしてシノさんと出会うことができた町。
シノさんは許してくれるかどうかわからないけれど、できれば月島内でマンションの部屋を買って住むのがいい。
新興住宅地区に立つ大型のマンションなんかじゃなく、中古のマンションと呼ぶには多少年季の入った物件。
そういう物件の方が商店街に近いし、シノさんの賃貸マンションからも近いのが探せると思う。
古ければ全面リフォームすればいい話だし、最低限でも入館のセキュリティーがきちんとしているところを探せば、マスコミなんかの不審者に煩わされることも一戸建てよりは少ないと思う。
「・・・って、僕も気が早いよね・・・。シノさんと一緒に住めるなんて、まだ決まった訳じゃないのにね」
僕はコーヒーカップを下唇に押し付けながら、ひっそりと呟いた。
シノさんの身に火の粉がかかるのはきっとこれからが本番だし、第一、加寿宮社長が僕を認めてくれたかもわからないっていうのに・・・。
「シノさん、会社、大丈夫だったかな・・・・」
図らずもこんな形で強制的にカミングアウトさせられた人も珍しいって思うよ。
シノさんは平然とした顔をしていたけど、社内の・・・特に男性社員から距離を置かれたりしてないだろうか。
まぁ幸い、田中さん達女子社員が助けてくれるような気配はあるものの、やはり会社は男性社員が多いはずだし、主導権を握っているのも男性社員に違いない。
シノさん、仲間はずれにされたりしないかな。男社会の方が、拒否感は強いだろうからな・・・。
僕は、ああと溜息をついて頭を抱えた。
シノさんのことを考えると、心配は尽きない。
僕は生まれて初めて、自分が女に生まれてくればよかったって心底思っていた。
そんなこと、吹越さんと別れることになった時ですら、考えもしなかったのに。
でももし僕が女だったら、少なくともシノさんをここまで窮地に追いやることはなかった。
これまでは加寿宮社長に会ったことで身体の中がソワソワとして落ち着かない感じだったのに、今はこれから起こりうることに対する不安感で心臓が落ち着かなくなってきて、僕は本当にどうしたらいいかわからなくなってしまった。
何度も溜息をついて、何度も顔を両手で擦った。
大きく息を吸い込んでも、一向に肺の中に空気が入ってこない感じ・・・。
また顔を両手で擦ったところで、ふと傍らに人の気配を感じ顔の覆いを外すと、自分の目の前に小さな羊羹が二切れのった小皿が差し出されていた。
僕が顔を上げると、そこに女主人が立っていた。
「サービス」
彼女はぶっきらぼうにそう言うと、小皿を置いてさっさとカウンターの向こうに消えて行った。
コーヒーに羊羹。
ふいに僕は気が抜けて、少し笑った。
羊羹を少し齧ると、昔ながらのしっかりとした甘さが口の中に広がり、心臓の苦しさが少し和らいだ気がした。
やっぱり、シノさんと一緒に住むのなら、ここ月島がいい・・・。
喫茶店で都合5時間も粘って ── 昼食も喫茶店でナポリタンを食べた ── 、僕が店を出たのは夕方4時過ぎのことだった。
久しぶりに商店街で食材の買い物をしたが、まだ記事の影響は出ていないのか、店の店主達の反応はいつもと同じだった。
今日は何だか和食の方がいいような気がして、スタンダードだけど作るのはちょっと手間のかかるブリ大根とほうれん草のごま和え、ニンジンと大根の皮のきんぴら、豆腐とわかめのみそ汁にしようと思いつつ、シノさんのマンションまで辿り着くと、いかにも「それ風」な男が電柱の影に立っているのに気がついた。
心臓がドキリとする。
男は首からカメラをぶら下げていたが、しかし格好はカメラマンというよりは記者風な身なりだった。
ああ、折角落ち着いていた心臓がまたせわしなく脈打ち始める。
── どうしよう。シノさんの自宅の住所までバレてるのか。
通行人が、怪訝そうな顔で記者と思しき男を横目で見ながら通り過ぎて行く。
ああ、こんなところで記者に追い立てられるのを近所の人に見られたら、どうなることやら・・・。
シノさんのマンションはマンションとは名ばかりの鉄筋作りのアパートみたいなものだから管理室はないし、むろん入口もオートロックではない。
ダッシュで建物の敷地に入れたとしても、絶対に追いかけてくるに決まってる。
── ああ、ホント、どうしよう・・・。
焦った僕は、思わず携帯でシノさんの電話番号をタップしてしまったのだった。
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