act.34

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act.34

<side-SHINO>  「え?! 取引が今日で終わりって、どういうことですか?」  浅川が思わずといった感じで大きな声を出した。  その場にいるパートさん全員が困ったような表情を浮かべる。  俺が理由を聞かせてくださいと懇願すると、迫田さんは渋々話してくれた。 「いやね、急に言い出したものだから、アタシ達もビックリしてるんだけど・・・。少し前に写真週刊誌に載ってたの、あれ、篠田くんのことでしょ? あれ、うちでも扱ってる雑誌だったから、店長も気がついちゃってね」  そう言われて、薄々原因はそこにあると思っていたけど、やはりそうだった。 「そうですか・・・」  そのまま言葉を失った俺の代わりに、浅川が迫田さんに噛み付く。 「それがどう関係あるっていうんですか? 篠田さんが誰と付き合おうと、別にいいじゃないですか!」 「おい、浅川、やめろ」  俺は血の気の多い浅川の肩を押さえた。  迫田さんは、「いいのよぉ。実際、アタシ達もそう思ってるんだし」と逆に俺の手を押さえた。 「これは多分、アタシの予想だけど。店長が気にしてるのは、そっちのことじゃないと思うのよ。多分、篠田くんが高校中退者だってことが気にくわないんだと思うわ。あの人、頭、硬いからね」  迫田さんの言ったことに、俺達は面を食らった。 「え? そっち?」  浅川が、気の抜けた声を出した。  迫田さんは顔を顰めた。 「アタシ達も正直ビックリしたもの。篠田くんがそんなに早く働き始めてたってこと知って。でもまぁ、アタシ達は、学歴低くても今ちゃんとしてくれてるから別にいいんだけど、店長はどうやらそうじゃないらしくって・・・」  迫田さんがそこまで言うと、他の女性パートさんが「早く店長室に行った方がいいわよ。今ならいるから」と助言してくれた。  俺は浅川に納入した酒を運び込むように告げると、伝票を持って店長室に向かった。  店長室のドアを二回ノックすると、「何だ」と声が返ってきた。 「加寿宮の篠田です。よろしいですか?」  しばらくの間があって、「どうぞ」との声。俺は「失礼します」とドアを開けた。  デスクについてチラシのゲラを確認していた店長は、老眼鏡を取りながら顔を上げた。 「今日の納入分です」  伝票を差し出すと、「ああ、そこ、置いといて」とデスクの端を目で指して言った。  俺が言った通りに伝票を置くと、「丁度今、倉庫に行こうと思ってんだよ。加寿宮さんが来る頃だろうと思ってね」と店長は言った。 「誰かから、話は聞いたかね」 「は・・・。取引のことですか?」 「そう。来週から、もう来なくていいよ」  やはり、本当の話だったか・・・。  途端に、俺の心臓の鼓動がドクドクと高鳴り始めた。 「 ── 理由(わけ)を聞かせていただいてもよろしいですか?」  俺がそう訊くと、店長は「わけ?」と言って溜息をついた。 「君ねぇ、中卒だっていうじゃないか。高校もまともに卒業できない人は、どうもね。しかも、妹さんも随分若いのに父親のいない子どもを生んだとか・・・。君の家はどういう教育をしているんだね」  首の血管がドクリと鳴った。  まさかあの週刊誌の記事で、こんなことを言われるとは思っていなかった。 「両親は・・・、自分が高校二年生の時に事故で亡くなりました。妹はまだ幼かったので、自分が親代わりに働く事にしたので、退学しました」  自分でも、声が震えているのがわかった。  店長は訝しげに俺を見た。 「そうなの? 両親が亡くなっても、親戚の人が援助はしてくれなかったの? 今どき、そんな話、あるのかね」 「親代わりをしてくれる親戚の人はいませんでしたから・・・」 「つまりは、親戚付き合いもまともにできなかったご両親だったってわけでしょ。子どもにそんな苦労をさせるなんてね。俺なら、ありえないけどねぇ」 「両親もさぞ無念だったったと思います」  俺は、唇を噛み締めた。 「でも、両親は二人切りでしたけれども、精一杯育ててくれました」  店長は何とも言えない表情を浮かべた。 「まぁ、俺もあんたの両親を悪く言うつもりはないけどね。でもやっぱり商売は、信用で成り立つものだから。高校を途中で退学したような子を担当にしてこられてもね。いや、篠田くんには悪いけど、前にも何人か中卒の子を雇ったことあってね。そいつらがどいつもこいつも問題ありで。すぐ休む、辞める、仕事をサボる、接客を覚えない、あげくの果てはレジの金に手をつける・・・そんな奴らばっかりだったからねぇ」  店長がそこまで言った時、店長室のドアが開いて、浅川が怒鳴り込んできた。 「あんたの目は節穴か?! そんな連中と篠田さんが同じだとでも?! じゃ、これまでの取引でなんかマズいこと、ありましたかね?!」  俺はちょっとボウッとしていたが、浅川の怒鳴り声ではっと正気に戻った。  店長にほとんど殴り掛かる勢いの浅川を、俺は全身で取り押さえた。 「浅川! 落ち着け!!」 「落ち着け? 篠田さん、アンタが侮辱されてるんですよ!」 「いいから! お前は外、出とけって」  俺は浅川をドアの向こう側に押し戻した。  そしてドアに内鍵をかけると、店長に向き直った。 「僕が、担当を外れればよろしいですか?」 「え?」 「別の担当者なら、取引を続行していただけますか?」  浅川の勢いに椅子から腰を少し浮かせていた店長は、ハァと息を吐き出すと、再び椅子に座った。 「そういうことじゃないんだよねぇ、篠田くん。俺が問題にしているのは、未成年の子をお酒関係の職に平気で付かせたっていうお宅の会社の姿勢を問題にしてるの。一応、未成年はお酒飲んじゃいけないことになってるの、知ってるでしょう?」 「僕は、未成年時代に酒は一滴も飲んでません」 「そんなの、確かめられようもないことじゃない。俺はね、未成年が酒に関係するところに出入りしているっていうのが嫌なわけ。夜のお店にもお酒を配達したりするわけでしょう?」  俺は再び唇を噛み締めた。  確かに配送部にいた頃から、夜開く店にも配送業務を行っていた。  それは否定できない。 「そうです。配送、していました」  俺がそう答えると、店長は「ほらぁ」と声を上げた。 「もう本部にも報告したんでね。悪いけど。じゃ、そういうことで」  店長は席を立ち、俺を部屋の外に送るような仕草を見せた。  俺はその腕を掴んだ。 「お願いします! 考え直していただけませんか?!」 「えぇ?」 「すぐに以前の担当の者を来させます。取引を続けていただけませんか?!」  店長は眉間に皺を寄せた。 「アンタもしつこいね。もう余所の会社に連絡しちゃったんだよ。月末には営業が来てくれることになってる」 「月末? 毎週は来てもらえないのですか?」 「そんなこと、アンタにゃ関係ないね」 「細かい対応ができるのは、弊社だけです。小規模の会社だからこそできることです。どうか、再検討をお願いします!」  俺は頭を下げた。 「そう言われてもね。ダメなものはダメだ」 「店長!」 「じゃ、何か? 土下座でもするかね」 「え・・・?」  俺は頭を上げた。  丁度店長の背後の窓から差し込んできた西日のせいで店長の顔が逆光になり、その表情が見えなかった。 「土下座、するかね」  再度、黒い顔からそう声がする。   ── 土下座・・・。  「自分が悪いことをしていないと思った以上、土下座はするな」  ふと、耳に父の声が響いた。  中学校の頃、友達をいじめていた上級生と俺がケンカをして、互いに怪我をしたことがあった。  怒鳴り込んできた相手の親が俺に土下座しろと迫った時、父親がそう言った。 「怪我をさせたことは申し訳なく思う。だかそれなら、うちの息子だって怪我をしている。あなた方も謝らなければならないのではないですか?」 「怪我の程度が違うでしょ?! こっちは額を縫ったんですよ!」 「元はと言えば、あなたの息子さんが弱い者苛めをしていたのが原因ではありませんか? あなた方はその子に対して、謝られたのですか?」  結局その後、怒鳴り込んできた親子は帰って行った。  俺は親子を突っぱねた父を心配したが、「正しいと思ったことをしたんなら、堂々としていろ。土下座なんて、軽々しくするものじゃない」と厳しい顔で俺を見た。   ── 土下座なんて、軽々しくするものじゃない・・・。  俺は、身体を起こした。  俺は、疚しいことをしているわけじゃない。  確かに学歴は中卒だが、一生懸命働いてきた。  妹も、若い頃にシングルマザーになったとはいえ、ちゃんと一人息子を育ててきた。  俺が千春を愛していることだって、全然汚いことじゃない。  俺は、恥ずかしい生き方をしている訳じゃない・・・。 「 ── 土下座は、しません」 「は?」 「土下座は、しません。土下座をすることが誠意の証だとは思いません。でも、精一杯努めます。チャンスをください」 「何を言ってるんだ! 生意気な。土下座もできんくせに。さぁ、出て行け!」  俺は身体を掴まれ、部屋の外に押し出された。 「お願いします! お願いします、店長!」 「もういいですよ、篠田さん! 行きましょう!」  結局俺は、浅川に羽交い締めにされ、店を後にすることになった。  「あんな店、こっちから願い下げですよ」  会社に帰る道すがら、浅川はそう言った。 「あんな単純に学歴で判断するような人が店長をやってるような店、ろくなもんじゃない」  浅川はそう何度も呟いた。  俺は、全身まるで鉛になったかのような感覚に捕われていたが、ようやく・・・といったように声を出した。 「浅川、お前、わかってないよ、ちっとも・・・」  浅川は俺の呟き声がちゃんと聞こえなかったのか、「え?」と訊き返してきた。  俺は再度、「わかってない」と言った。 「あの店は、お前んとこの上谷部長がまだビール課の課長をしていた時分に苦労して開拓したのを、代々営業が引き継いできた店だ。その後、うちの手島さんが頑張って注文を増やしたところを俺が引き継いだ。週一回一店舗の発注は少なくても、チェーン店規模でまとめれば、それなりの売り上げになる。これまで皆が大切にしてきた取引先だ。俺の個人的事情でそれを反故にするなんて、そんなのダメだ・・・」 「篠田さん・・・」  浅川が困った顔をしたのはわかったが、俺はそんな浅川を気遣えなかった。  自分が配送部から営業に鞍替えしてきたから余計そう思うのかもしれないけれど、営業の苦労は計り知れない。特に、ビールや洋酒を扱う課の連中は日本酒課の俺達より過酷な顧客獲得戦争を他社と繰り広げている。  配送の仕事は、運搬の際の体力的なことや夜間勤務もあるので物理的にハードではあったが、そこら辺の気苦労はまったくなかった。ただ、営業が開拓してきてくれた配送先に届ければすむ仕事だった。  俺は、両手で顔を覆った。  心臓が痛かった。  いずれにしても、社に帰って報告せねばならない。   <side-CHIHARU>  囲み記者会見という「お務め」を果たして、僕は解放された。  写真週刊誌が出る以前はいろんな仕事を詰め込んでいたようだが、週刊誌にネタにされてからはどうやら流潮社でなるだけインタビューものの仕事は断ってくれたらしい。  なので僕は、突然「暇」になった。  皮肉にも、こんな形で僕が以前願っていたような状態になるとは思っていなかった。 「せいぜい、新しい創作にでも取りかかってくれたら、嬉しいけど?」  岡崎さんにはそんな嫌みを言われた。  ようは、新作を書けってことだ。  でも今の僕はシノさんとの生活で頭がいっぱいで、朝は「これ小説のネタになるかな」なんて思ったりした僕ではあったけれど、何かを書きたい!という頭にはなっていなかった。  金銭的にハングリーな訳でなし、やはり何か追いつめられたものがないと、小説なんて書いちゃいけないんだ思う。  シノさんと知り合う前の僕は、結構ちゃらんぽらんに小説を書いていたけれど、それでも書く衝動というものが、それなりにあった。  その衝動が来ない限り、次の新作はきっとない。  しかもその衝動がいつ来るかわからない・・・なんて言ったら、岡崎さん気を失うかな?  でも幸い、僕とシノさんの出会いを綴った僕の『弱音垂れ流し小説』は順調に売れているそうだし、当分我慢してもらおうと思う。  三鷹にある小出さんのスタジオまでは、岡崎さんが車で送ってくれた。  小出さんは、わざわざ僕が来る時間に合わせて、スタジオにいるようにしてくれた。 「すみません。お忙しいのに」  僕がそう頭を下げると、小出さんはいやいやと手を振った。 「そっちこそ、忙しいんじゃないの? 写真週刊誌にすっぱ抜かれたらしいじゃないか」 「はぁ、まぁ・・・。でも逆にそのおかげで暇になったところです」 「そういうものなのか。大変だなぁ」  そんな会話をしながら、スタジオの中に通された。  いつかシノさんがメイクを施された時に座っていた席に促されて、僕は腰を下ろす。 「じゃ、アルバム、取ってくる。田宮さん、コーヒー淹れてあげて」 「はい。 ── 澤先生、お久しぶりです」 「お久しぶりです。その節はお世話になりました」 「いいえ。こちらの方も、あの日の撮影はとても楽しかったんですよ」  田宮さんはそう言いながら、ドリップコーヒーが入ったカップを出してくれた。  田宮さんと少し談笑をしている間に、小出さんが再び部屋に入ってきた。  小出さんが田宮さんの顔を見ると、以前から申し合わせしていたようで、田宮さんは部屋から出て行った。  僕が小出さんに頼んだ写真アルバムは凄くパーソナルな写真が多かったから、気を使ってくれたのだろう。ありがたい。 「我ながら、いい出来だ。世の中に出せないのが、非常に惜しい」  苦笑いを浮かべながら、小出さんがアルバムを差し出した。  小出さんが一人で編集して、印刷・製本まで自分でしてくれたものだ。 「インクジェットだけど、うちのはプロユースのだから、結構キレイに中間調のグレイも出ていると思うよ」  ほとんどがモノクロ写真だった。  特に後半の僕らが裸で抱き合っている写真とかは。  確かに手前味噌で恥ずかしいが、小出さんが言ったように、絵画のような仕上がりになっていた。  小出さんが脚立に上がったり降りたり、床にはつくばったりしながら撮影してくれたので、構図もスタンダードなものから斬新なものまで、いろいろある。  本当に美しい写真達。  シノさんはおろか、僕のいろんな表情まで捉えてくれている。 「アルバムに載っけてないものは、DVDに入れてるからね」  小出さんの言ったDVDは、アルバムの最後のページに貼付けてあった。  むろん僕はどの写真もお気に入りだったんだけど、特に淡い色合いのカラー写真で、シノさんの笑顔がアップで写っている写真で特に胸がキューッとなった。  あまりにトキメキ過ぎて、心臓が痛かった。  バックにピンボケで写る柔らかく風になびくカーテンや庭の緑が、一層シノさんのピュアさを引き立てている。  そういえばこの写真、撮影した日、僕が思わず感涙しそうになった写真だってことに気がついた。  ああ、なんて神々しい笑顔だろう。  純粋無垢な形そのものが写っているようなものだ。  本当に美しい笑顔。  この笑顔が、いつも僕の傍にあるだなんて、今でも信じられない。   「 ── 美しい・・・」  全体を見た後、再びその写真に戻って僕がそう呟くと、小出さんも大きく頷いた。 「まったく、俺もそんな写真がまだ撮れるんだって思っちゃったよ。初心を思い出したっていうか。いい仕事をさせてもらえて、本当に光栄だ。よければ、また二人を撮られてもらいたいね。むろん、ギャラなしでいいよ」  僕はアルバムから顔を上げた。 「そこまで言っていただけるなんて・・・。でもひょっとして今回の騒ぎのせいで、小出さんにも迷惑をかけているんじゃないですか?」 「ん?」 「今日、岡崎さんが小出さんに電話をかけているところを見ました。内容までは聞き取れませんでしたが」  僕がじっと小出さんを見つめると、小出さんはバツが悪そうに顔をしかめ、コーヒーをがぶ飲みした。 「レンズがないと、男前にそんな風に見つめられるのはテレるもんだな」 「小出さん」  僕が強めに小出さんの名を呼ぶと、小出さんは観念したかのように顔の力を抜いた。 「確かに岡崎女史から写真集の出版延期の要請がきたよ。今、君のヌード写真を出版すれば、火に油を注ぐことになりかねんとね」 「・・・申し訳ないです。これじゃ、フェアじゃないですね。実質、小出さんが撮影料を受け取れなくなるってことでしょ」 「いやいや。金の問題じゃないよ。今回、篠田くんと君を撮影できたことは、俺にとっては本当にいい刺激になったんだ。目が覚めたというか。撮影のチャンスを貰えただけで、ありがたいと思ってるんだよ。それに、一生出版できないって訳でもないだろうからね」  小出さんはそう言ってくれたが、なんだか悪い気がした。  こんなに売れっ子のカメラマンを世に出ることない仕事でただ働きさせたみたいな気分になったからだ。 「本当に、すみません」  僕が頭を下げると、小出さんは目を丸くした。 「俺が聞いていた澤清順は、絶対に頭を下げない男だったがね」 「何言ってるんですか。ふざけないでください」  僕が口を尖らせると、小出さんはおかしそうに笑ったのだった。      <side-SHINO>  社に戻ると、俺は早速課長に報告をした。  実のところ、他の課でも同系列の支店から取引終了を告げられて、ちょっとした騒ぎになっていた。   営業会議は通常、月・水・金の朝10時から一時間行ってるが、今日は終業時間間際に緊急会議が招集された。  社長や専務、常務の幹部職員達は、酒造組合の会合に参加しているとのことでまだ帰社しておらず、社長達抜きで営業会議を行うことになった。  一の瀬営業部長と各営業課の課長、そして今回問題になったスーパーチェーンの担当の営業(過去に担当していたメンバーも含めて)、更に以前営業部に在籍していて、今は配送部の部長になっている上谷さんが出席していた。元々は、上谷部長が開拓した顧客だったからだ。  会議の冒頭、他の営業課の課長より、例のスーパーマーケットチェーン店から理由も聞かされずに一方的に取引の中止が告げられたことが報告された。  全部で七店舗あるうちの今日営業に回った四店舗で全て同じ申し渡しがされていた。  おそらく・・・いや間違いなく、俺の一件でチェーン店全てが足並みを揃えて取引中止を決定しているのは間違いなかった。  ろくに理由を聞かされず取引の中止を告げられた営業達は、不安げな表情を隠さなかった。  もし俺がその立場だとしても、そうなるだろう。  俺は再び、心臓がギュゥとしぼられるような感覚を覚えた。  本当に、申し訳なく思った。 「それで? 日本酒課では取引中止の理由を把握しているんだろう。荻原?」 「はい」  うちの課の課長が、苦々しい声で俺が報告した内容を答えた。  週刊誌の報道で俺の学歴が判明し、それが取引停止の理由であるとの報告がされると、会議室の中がどよめいた。  日本酒課のメンバー以外の者達が、驚きの表情で互いに顔を見合わせた。  俺は正直、皆の反応が怖かった。  いくら間違った生き方はしていないと偉ぶっても、こうして皆に迷惑をかけてしまってるのは明らかな事実で、俺の学歴が元で皆の努力が水の泡になってしまう事態に、立つ瀬がなかった。  スーパーの店長の前では、千春との関係についても決して汚れたものではないと・・・いやそれは今でも思っているが、それも含めて皆にどう思われることになるのかと思うと、喉が詰まる思いだった。  きっと千春が心配していたのは、こういうことなんだ。  俺、千春にはカッコつけて「そんなの気にしない」と言ってきたけど、こうして現実を突きつけられると、自分の考えが甘かったことに気づく。  現にこうして今俺は、「皆から嫌われたらどうしよう」「仕事から外されたらどうしよう」なんていう低いレベルの不安感で身体中がいっぱいになっている。  俺は、己の弱さと恥ずかしさを思い知らされた。  これまで仲の良かった・・・それは同僚ばかりか部長達でさえだ・・・人達が自分を見る視線がとてつもなく怖く感じて、俺は怯えたリスのように、皆の言葉を待った。  この問題に対して初めて口を開いたのは、同い年で蒸留酒課の寺田だった。 「はぁ? 本当にそれが理由なんですか?」  寺田は、呆れたような声を上げた。 「本当に、シノの学歴が中卒なのがダメだと?」  寺田は確かめるように俺と萩原課長を繰り返し見た。  萩原課長は、うんうんと二回頷いた。 「実は、この会議に入る前、俺自身電話で確認をした。内容は、シノが報告してきた内容と同じものだった」  寺田はハッと息を吐き、苦笑を浮かべ、首を横に振った。  それを皮切りに、ワイン課の滝沢やビール課の伊関さんが「別に世の中には、中卒で働いている人達なんてごまんといるでしょう」「学者でもあるまいし、学歴なんて今時関係あるんですか?」と口々に言った。  俺は、皆の言葉に内心、ほっとしてしまった。  自分のことを擁護してくれる空気になったからだ。   ── 俺って、つくづく浅ましい・・・。  内心安堵する自分自身に、俺は少し嫌悪感を覚えたし、同時にそんな同僚達を持って嬉しいとも思った。  気持ちは凄く複雑だった。  だが一の瀬部長は、腕組みをしてウ~ンと唸った。  部長は、世代で言えばあのスーパーの店長さんに近い。  それに、一の瀬部長は営業成績の統括をしているので、全ての取引金額を併せるとそれなりの金額になることが痛いほどわかっているのだろう。 「まさか、学歴のことを言われるとはな・・・。それに・・・、まぁ言いにくいが、シノの妹さんは一度も籍を入れなかったのか、相手とは」  一の瀬部長のその発言に、再び会議室中がどよめいた。 「部長! そんなの、仕事と何の関係があるんですか?!」  寺田が椅子から立ち上がった。  続けて、伊関さんも立ち上がる。 「部長だって、シノが苦労してここまできたことを知ってるでしょう!! ここにいる皆はシノの仕事の姿勢に不満や不安を持っている人間は皆無ですよ。そうですよね?!」  伊関さんは、営業職の中でも古参で配送課の頃からの俺を知っていた。  俺が十代の頃は伊関さんと組んで配送することも多く、営業の厳しさを見せてくれたのも伊関さんだった。 「シノは配送部の頃から、仕事はきっちりしていた。だからこそ、営業職に引き上げたのは、他でもない部長でしょ?! シノの妹さんだっていい加減な人間じゃないって、俺達だって知ってますよ」  寺田や伊関さんの言ってくれたことに、俺は涙が出そうになった。  特に美優のことまで庇ってもらえるなんて、本当に頭が下がる思いだった。  確かに子どもを身ごもった頃の美優は生活も荒れてはいたが、今では頼もしい伴侶を得て、しっかり母親業をこなしている。そして今、また新たな子の母となろうとしている。  妹は、俺以上に辛い思いをしてきた。  そこを責められるのは、本当に心が痛む。  俺は必死の思いで、涙をこらえた。  この場で涙を見せる訳にはいかなかった。  一の瀬部長が口を開く。 「お前達の意見はもっともだ。俺もシノが中卒だからって、中途半端な仕事をしているとは思わん。妹さんが結婚して立派な家庭を築いていることも知ってる。だがな、世間様はそう見てはくれんということだ。世の中はそれほど、甘くはない。上辺だけのことを見て判断する人もいる。週刊誌の書いたバカバカしい記事を鵜呑みにする人間だって、たくさんいるんだ。お前らは、その連中一人ひとりに、シノはそういう人間じゃないと誤解を解いて回るつもりか?」  会議室中がシンと静まった。 「話によると、訂正記事を載せるように流潮社が掛け合っているとのことだが、ああいったものは一度世の中に出ると決して消せない。今後こういうことが繰り返されるとも限らん。イメージというものは、こちらがコントロールしない限り、他人が勝手にどんどん作っていってしまう。それはとても怖いことだ」 「じゃなんですか? 部長はシノを営業職から外すって言ってるんですか?」  寺田が部長に噛み付いた。  部長は、苦々しい表情を浮かべながらも「リスクを回避するために、時にはそういう判断も必要になる」と呟くように答えた。  一同、またどよめいて互いに顔を見合わせた。  伊関さんが口を開く。 「今まで、一緒に苦労して頑張ってきた同志を切ると言うんですか?」  伊関さんの言葉に、若いメンバーがうんうんと頷く。 「俺達はそんな卑屈な思いまでして営業をしなければならないんですか? これまでの取引実績ではなく、単なる週刊誌の作り上げた評価を鵜呑みするような、濁った目をした取引先にへつらいながらも仕事を貰わねばならんのですか? 我が社の価値観は、そんなものですか? 我が社の尊厳は、どこにあるんですか?」  伊関さんの言った言葉が、一の瀬部長のスイッチを押した。 「俺だって、悔しい思いをしてるんだ!! お前が言った通り、俺が営業部長になって初めてした仕事がシノを配送部から営業部に引き抜くことだったんだぞ! 俺だってシノが営業をすることに、思い入れがある! だが、今回の取引先は、上谷部長が苦労して開拓した取引先だ。それを引き継いだ者として、感情に流されていい加減な判断はできんのだ!」  皆、驚いた。  一の瀬部長は普段からよく怒鳴る人だから、部長が怒鳴ることは不思議でもなんでもなかった。  だが今は、部長の怒鳴り声が少し湿っていたことに、皆一様に驚いていた。  部下の前では決して涙を見せない人だったからだ。部長の奥さんが亡くなった時でさえ、そうだった。  静まり返った会議室の中の視線が、自然と上谷配送部長に集まる。  上谷部長は一の瀬部長の先輩に当たり、部長級では一番の年長者に当たる。  上谷部長は、意外にも穏やかな顔つきで座っていた。  その上谷部長が口を開く。 「確かに、取引を始めたのは私だけどね。取引を今まで繋いでくれたのは一の瀬君を筆頭とした今の営業部体制だし、取引量を増やしてくれたのは他ならぬ日本酒課の手島君だ。だから、今回の件は日本酒課に一番発言権があるのではないかと、私は思うがね」  上谷部長がそう言ったので、皆の視線が今度は日本酒課の俺達三人に集まった。  萩原課長は少しフゥと息を吐いて、俺を挟んで右側に座る手島さんを見た。 「実際に苦労してきたのは手島ですから。おい、手島、お前が答えろ」  俺は手島さんを見た。  手島さんも俺を見返した。  俺は思わず、「すみません」と小さく謝った。  手島さんは、いつもの陽気な表情は鳴りを潜め、凄く真面目な顔をして皆に向き直った。  しかし、彼が一度口を開くと、いかにも彼らしい一言が飛び出してきた。 「俺としては、正直、チョ~がっかりしました」  そのざっくばらんな物言いに、その場の空気が少し柔らかくなった。 「がっかりとはなんだ?」  部長が拍子抜けしたような表情を浮かべ、手島さんに声をかけた。  手島さんは答える。 「いやぁ、俺だってさほど立派な人間じゃありませんけどね。まさか、心血注いで尽くしてきた相手に、そんなちっぽけな理由でフラれるなんて。惚れたはずの相手なのに了見が狭いことがわかって愕然としたというか。 ── 道理で俺、普段からダメな女ばっか掴むわけだと、自分自身に“がっかり”したわけです。ようは見る目がないなってことで」  手島さんのその言い草に、上谷部長が真っ先に笑い声を上げた。  それにつられて、他のメンバーも笑い始めた。  手島さん・・・。神妙な顔して、そんなこと考えてたんだ・・・(汗)。 「まぁ、今回の原因を作った課に属する俺が言うことじゃないかもしれませんがね。でも、表面的なことでしか評価してくれないとこと取引しても、この先いいことないんじゃないかなぁって思うんですよね。今回はたまたまシノのことが原因になりましたけど、俺達のこれまでの頑張りをちゃんと見てくれてないってことでしょう? そんなんなら、別にシノのことじゃなくても、そのうち何かの拍子に消えてなくなる顧客じゃないか、と。俺はそう思うんですよねぇ。だからまぁ、いっかって感じです」  手島さんは呑気にそう言う。  やっぱり、こんな深刻な局面でも、手島さんは手島さんだった(汗)。 「手島・・・お前ってヤツは・・・」  一の瀬部長が口をあんぐり開けている。  上谷部長は更に笑いのツボに入ったらしく、笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭っている。  伊関さんは、「この状況でそんなこと言えるお前に、逆に畏敬の念を覚える」だなんて呟いた。  我が課の萩原課長は、閉じた扇子で額を叩いた上に頭を何度も下げて、「部下の教育が行き届いていなくて、申し訳ありません」と謝った。  でも俺は、その場にいるメンバーとは違う気持ちでいた。  だって俺は、身近で手島さんの苦労を見てきたからだ。  休日や夜でも突然の呼び出しに答えたり、時には他の会社の納入作業を手伝うこともあった。  手島さんができたから、俺も頑張ることができたんだ。  その場の雰囲気は、今回問題となったスーパーとは手を切るという方向に流れて行っていた。  でも、それはダメなんじゃないかって、俺の中で違和感を感じた。  俺は立ち上がった。 「ダメです」  反射的にそう口をついて出ていた。  皆が一斉に俺を見た。 「そんなの、ダメです」 「何がダメなんだ?」  一の瀬部長が手島さんに声をかけた時と同じような表情を浮かべた。 「これで取引がなくなることが、ダメだってことです」  一の瀬部長が、困ったように眉を八の字にした。 「お前、せっかく手島が場をまとめた・・・かどうかわからんが、まぁなんとか話がまとまろうってとこに、またなんで・・・」  ほとほと疲れたといったような一の瀬部長の様子に、萩原課長が再び「部下の教育が行き届いてなくて、本当に申し訳ありません」と謝った。 「俺は手島さんの苦労を知ってます。そして、皆の苦労も知ってます。一の瀬部長や上谷部長の苦労もきっと大変だったろうと思う。それをわかってて、諦める訳にはいきません。もし俺が外れることで会社がいい方向に進むのであれば、俺は外れます」  俺がそう言ったら、隣の手島さんにゲンコツで腰の部分を押された。  「お前さぁ、例えお前が外れたってダメだって言われたんだろう? 営業から帰ってきたなりに浅川に捕まって、散々聞かされたぞ」  上谷部長が頷く。 「ああ、確かに浅川がそう吠えていたな。篠田が担当を替わってすむ問題じゃないって言われたと」 「それは・・・」 「だからシノ、気にするなって」  寺田がそう言ってくれる。 「そうだよ。シノは、これまで通り、他の仕事で頑張ればいいんだよ。幸い、他の取引先は通常通りな訳だからさ」  伊関さんの台詞に、そうだそうだと声が上がった。  一の瀬部長もここが切りどころと判断したのか、「とにかく、皆の意見はほぼ固まった。皆に悪いと思うシノの気持ちもわかるが、手島が今言った通りだ。お前が営業職を辞して戻ってくる取引先でもない。社長や専務には、俺から報告しておく」と言って、会議をお開きにしてしまった。  皆が会議室を出て行く時、俺の肩を叩いて行く。  でも俺は、しばらくその場から動けなかった。  こんなのダメだっていう思いばかりが浮かぶ。  頭の中に浮かんだモヤモヤの霧は、消えることはなかった。
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