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act.35
<side-CHIHARU>
僕は、小出さんのスタジオからシノさんの家に直接帰ってくると、サボっていた雑誌のコラムを書き始めた。
僕の仕事は、取り敢えずノートパソコンがあればどこでも仕事が成立するところがいい。
作品を書き始める前は、取材やら資料探しやらで外に出たり仕事場に詰めたりすることになるが、今は取り敢えずそんな重たい仕事は抱えていなかった。
コラムのテキストを少し書いてはその手が止まり、気づけば小出さんに仕立ててもらったアルバムを開いている僕。
── ああ、ダメ人間・・・。
でも罪作りなのは、シノさんだよ。
アルバムの中のシノさんが綺麗過ぎて、かわい過ぎて、ついつい何度も見ちゃうんだ。
こんなことではダメだとアルバムを寝室において、僕はリビングダイニングに戻り、コラムを再び書き始めた。
早く済ませて、またアルバム見よう・・・なんてことを思うと、キーボードを叩く速度も加速する。
一気にコラムを書き上げて、編集部にメールで原稿データを送ったところで窓の外を見ると、空は茜色に変わっていた。
「アルバム見る前に、晩ご飯の準備しようかなぁ」
僕は席を立ってキッチンに行くと、冷蔵庫を覗いた。
いくつかの常備菜のほかは、野菜の残りがチラホラと。
「買い物、いくかぁ・・・」
と呟いたところで、携帯がブルリと震えた。
メールだ。
しかも、メールの相手は、シノの同僚の田中さんから。
『一大事』
というタイトルだった。
「一大事?」
嫌な予感がして、メールを開いた。
その内容は、週刊誌の一件でシノさんの担当していた取引先が取引を停止すると言ってきたとのこと。現在、営業会議中 ── というものだった。
心臓がドクリと脈打った。
やっぱり、やっぱり始まった。
悪夢の始まりだ。
シノさんが同性と付き合っていることがシノさんの取引先にバレてしまったのが原因なんだろうか。
というか、それ意外に考えられないけれど。
僕は携帯を胸に抱き込み、ぎゅうっと身体を小さくした。
── ああ、もうこの世から消えてしまいたい。
僕のせいでシノさんやシノさんの会社に迷惑をかけてしまうなんて、本当に耐えられない。
以前の僕なら、僕のすることで誰に迷惑をかけようと、まったく気にもならなかったのに。
愛って、自分より大切な存在ができた時に、そこにあるものって誰かが言ったらしいけど、やっぱりそういうことなんだろうなって思う。
だって、シノさんは何よりも大切に思えるから。
だからいっそのこと、僕が消えてしまったら、と思った。
いや、別に死にたいとかそういうことじゃないんだけど・・・。
文字通り、単に消えたいってことで。
でも、そういう考え方はダメだと、先日僕は言われた。
誰に言われたかって、他でもないシノさんの会社の社長さんにだ。
消えるつもりでいるのなら、シノを君では支えられないと。
社長さんは・・・加寿宮さんは、ああ見えてきっと凄く人を見る人だ。
その時、そう思った。
まさかノンケの人に、いきなりそこまでゲイの恋愛を許してもらえるとは思わなかったけれど、でも加寿宮さんの言っていることは最も強い愛の形なんだろう。
何があっても、ずっと傍に連れ添って支えていく存在。
そういう存在に、僕もならなくては・・・。
僕は、田中さんへ『原因は何ですか?』と返信を返した。
原因はわかっているも同然だったけど、念のため確認しないと対応も変わってくる。
一先ず僕はパソコンを再び開き、視界の中に携帯を捉えたまま、岡崎さん宛にメールを打った。『ついに、シノさんの仕事に雑誌の記事の悪い影響が出たようだ』と。
現在、流潮社が相手の出版社相手に厳重抗議を行ってくれているようだが、一回世間で出てしまったものは、もう消せない。
中身は事実をねじ曲げ、おもしろおかしく誇張した内容もたくさんあったが、僕とシノさんが付き合っていることは、まぎれもない事実で。
そこを突かれたら、シノさんはどうしようもない。
こんな時、僕にできることはなんだろうか。
僕は、何をしたらいい・・・?
携帯が、またブルリと震えた。
田中さんからだ。
『今、営業会議終わりました。課長も他の課の営業さんも何やら落ち着いてる。原因は、これから誰か捕まえて訊いてみます。もう少し待っててください』
「落ち着いてる?」
取引停止になったのに? なんだろう・・・。もう何かの結論が出たということか。
そうこうしているうちに、パソコンが鳴った。
今度は岡崎さんから返信が返ってきた。
『悪い影響って、どういうもの?』
僕は、シノさんの担当している取引先が取引の中止を言ってきたようだと返信した。
今度は、田中さんのメールの前に岡崎さんのメールの方が早く返ってきた。
『取引の中止? それは損害甚大ね・・・。本当にあの記事が原因なの?』
── 間違いないと思う。シノさんの同僚が、そう知らせてきた。本人にはまだ会ってない。詳しい理由は、今確認中。
僕はそう打って送信した後、僕は長い長い溜息をついた。
そうしないと息が詰まってしまうように感じたから。
とにかく、何か策を考えなきゃ・・・。
これはシノさんだけの問題じゃない。きっと岡崎さんもそう思ってくれているはずだ。こう返信が返ってきた。
『事情を確認して、うちが役に立てることがあれば何でもするわ。一緒に頑張りましょう。あなたは変なこと考えないでよ』
不謹慎だが、僕は少し笑った。
「岡崎さん、最後のは余計だよ・・・」
僕はそう呟いた。
結局のところ、岡崎さんも加寿宮社長と似たようなことを考えていたのか。
そうこうしていたら、田中さんからメールが届いた。
『今、詳しい状況を把握しました。原因は確かに週刊誌の記事だそうですが、取引が停止になった理由は、篠田さんが澤先生と付き合っていることではなく、篠田さんの学歴や妹さんのことが引っかかったようです』
「は?」
僕は、思わず声を出してしまった。
シノさんの学歴・・・?
僕は、考え込んだ。
「ええと、シノさんの学歴って・・・・」
そう呟いた後、思い当たった。
シノさん、高卒じゃない。中卒だ。
高校生の時にご両親を不慮の事故で亡くして、年の離れた妹さんを養うために高校をやめて働き始めたんだった。
でも、それを褒められこそすれ、批難の対象になるとは。
「意味がわからない」
僕は首を横に振った。
学校を卒業するより、若くして働いて自分の力で生きていくことの方が、よっぽど大変だし、偉いじゃないか。
「なんでそうなる?」
僕は不可解な気持ちのまま、岡崎さんにメールを打った。僕の中に沸き起こった疑問も添えて。
田中さんには、僕の疑問だけをぶつけた。
岡崎さんのメールの返信の方が、またもや早かった。
『きっと、週刊誌でまるで素行不良者の中途退学的な記事を書かれたからだ。妹さんも含めてっていうと、きっとそうね。これなら、週刊誌側が訂正記事を掲載すればある程度効果があるかもしれない。今から更に圧力をかけるよう、法務部にお願いしてくるわ。絶対に、掲載させてやる』
岡崎さんの意気込みが、凄く頼もしく感じた。
まさか岡崎さんとこういう関係にまでなるとは、想像もしていなかった。
『こういう関係』と書くとなんだか怪しいが、疚しい意味ではなく、何というか『姉と弟』というような関係だ。
本当にありがたいと思う。
田中さんからもメールが返ってくる。
『どうやら中卒者は信用できない、との一点張りだった模様です。でも、部長や課長達はそういう偏見の目で見るようなところとの取引中止はやむをえないと言っていました。社長にもそのような報告がされるようです。ああ、でも篠田さん、なんだか思い詰めた顔つきをしてる』
そのメールを読んで、また心臓がギュッとなった。
シノさんの性格だ。
原因が自分のせいにあるとわかったら、あの人はまずは自分を責めるだろう。そういう人だ。
「どうしよう・・・。それはそれで心配になってきた・・・」
取り敢えずゲイのせいではなかったことは安堵できるのだが、いずれにせよシノさんがピンチなことには変わりない。
僕は少し考えて、一先ずご飯を作ることにした。
人間、やっぱり食べることは大事。
沈んだ気分も、美味いものを食べると元気が出てくるはず。
「よし! そうとなったら買い物、行ってこよう!」
僕は立ち上がった。
シノさんの好きなハンバーグのタネを作り終えたところで、再び携帯にメールが届いた。
時計を見る。
丁度シノさんの会社の終業時間だ。
シノさんの帰るコールかなと思ってメールを開くと、田中さんだった。
『篠田さん、今さっき思い詰めたままの顔つきで退社しました。くれぐれも篠田さんをよろしくお願いします』
とのことだった。
僕は短く息を吐く。
まずは、どうやって出迎えよう。
さり気ない方がいいのか、ちゃんと面と向かって慰めた方がいいのか・・・。
いろいろグルグルと考えたけど、結局のところ、シノさんの顔を見てみないと何とも言えないって結論に至った。
ええい、ジタバタしても仕方がない・・・。
僕は、妙な気合いを込めながらタネの空気抜きをし、ハンバーグを焼いた。
炊飯器のスイッチを入れ、付け合わせの野菜をレンジで蒸した。
ご飯が炊ける頃には、きっとシノさんも帰ってくる・・・と思っていたのだが。
七時になっても八時になっても、シノさんは帰ってこない。
おかしい。
真っ直ぐ帰ってたら、もうとっくに帰り着いていないといけないのに。
急に不安になってきた。
まさかシノさんこそ、変なことを考えたんじゃぁ・・・。
── いいや、そんな筈ない。僕じゃないんだから、シノさんがそんなこと考えるはずがない。
でも、じゃぁ一体どこへ・・・?
「考えろ・・・考えろ・・・」
僕はそう呟いて、ハッと閃いた。
そして僕は、田中さんにメールを打ったのだった。
<side-SHINO>
「なんとかお願いします。考え直していただけませんか?」
僕は例のスーパーの店長室の前で、声をかけ続けた。
「きっと他社よりお役に立ちます。約束します!!」
社長室のドアが開く、不機嫌そうな店長さんが出てきた。
「あんたもしつこいね。夜遅い時間にドアの前で大きな声を出されたら、店内にも聞こえるかもしれないだろう?」
「す、すみません」
「また舞い戻ってきたと思ったら。さっき電話でお宅の課長さんとも話したけど、課長さんはわかりましたって言ってたけどね」
俺に背を向け歩いて行く店長さんに、俺は着いて行った。
「弊社としても大切な取引だと考えております。上谷の時代から、ずっと贔屓にしてくださいました」
「アンタはその恩を仇で返した訳だろ」
「仇なんてそんな・・・。確かに僕は中卒ですが、仕事への情熱は大卒の方達にも負けないと思っています。チャンスをくださいませんか?」
「土下座もできないくせに、そんな根性で人を説得できると思うかい?」
歩きながらのこのやり取りを、バックヤードにいる従業員の人達が顔を顰めて聞いていた。
確かに、誰の耳にも触りのいい会話ではない。
店長さんもそれを感じたのか、「とにかく、仕事の邪魔をしては困る! もうすぐ終業時間だ。出て行ってくれ!」とスーパーの裏口から外に出された。
時計を見る。
八時半。
スーパーは九時で終わりだから、後片付けに一時間として、十時には店長さんは外に出てくるだろう。
── よし・・・。このまま、待ってよう。
迷惑かもしれないけど、話さなきゃ気持ちは伝わらない。
営業の皆は俺のことをかばってくれたけど、諦めたらそこで終わりだ。
手島さんが言っていたことはもっともかもしれないけれど、努力を積み重ねて、小さな仕事でもがっちりと掴んできた加寿宮のやり方こそ、規模は小さいながらも不況に耐えてここまで会社を大きくしてきた理由に他ならない。それこそが、加寿宮の魂なんじゃないかって思ったから。
俺はハッと息を吐くと、「よし」と自分に気合いを入れた。
その途端、腹の虫がギュルルルルと鳴り響いて、俺は顔が赤くなった。
俺は周囲を見回す。
よかった、誰もいない。
と、周囲を見回すことで、客が捨てて行ったと思われるゴミがスーパーの敷地内に結構こまごまと落ちていることに気がついた。よく見ると、近くのコンビニのビニール袋もあるから、通行人が駐車場を囲んでいる植え込みにゴミを投げ込んで行くようだ。
とにかく、じっとしていたら腹が減っているのが益々気になる。
待っているついでに、ゴミ拾いでもしよう。その方が気がまぎれる。
俺はそう決めると、拾ったビニール袋を片手に、ゴミ拾いを始めた。
<side-CHIHARU>
── やっぱり・・・。ここにいた。
僕はスーパーの駐車場が見渡せるコインパーキングに車を停め、車の中から様子を窺った。
僕が思った通り、シノさんは取引を中止したいと言ってきたスーパーの支店に来ていたのだ。
そしてシノさんは、駐車場のゴミを一心不乱に拾っていた。
ジャケットを脱ぎ、シャツを腕まくりした格好で、ひたすらゴミを素手で拾っている。
時々それに気づいた客が、ネクタイ姿の清掃員もどきに不思議そうな顔つきをして見て行くが、シノさんは全然気づいていな様子で、夢中になってゴミ拾いをしていた。
その様子を見て、僕は身体の中が温かくなった。
やっぱり、シノさんはシノさんだなぁと思った。
きっと取引を中止しようとしている店長さんにわかってもらおうと頑張るのがシノさんなんだよね。
ちょっと煤けているスーパーの看板には、”夜の九時”までと営業時間が書いてある。
多分シノさんは、その時間までここで頑張るつもりなんだろう。
僕は、時計を見た。
シノさんの家まで行って帰って来る時間はまだある。
── よし、シノさんがそういう風に頑張るなら、僕もきちんと応援しなくては。
僕は、再び車のエンジンをかけた。
<side-SHINO>
ゴミ拾いが意外にやりごたえがあって夢中になっていると、あっという間に終業時間を迎えてしまった。
看板の電気がぱっと消え、俺はそのことに気がついた。
ゴミをまとめて建物の裏側に回り、業務用の大きなゴミ箱に投げ入れた。
拾ったのは全部燃えるようなゴミばかりだから、ここに捨てても大丈夫だろう。
妙な達成感を感じながら裏口に戻ると、仕事を終えた遅番のパートさん達が続々と出てきた。
時間の関係上、俺のことを知らないパートさんがほとんどだったので、皆、奇妙な顔つきをしながら俺を横目で見つつ、帰って行った。
やがてスーパーの中の電気が消え、いよいよ店長さんが出てきた。
鍵を閉め、振り返り、俺の姿を目にすると、呆れたような表情で俺を見た。
「なんだアンタ、まだいたのか?!」
「は、はい。お仕事終わりなら、話を聞いてもらえるかと思いまして」
「何言ってるんだ。こっちは疲れてるのに、そんな馬力は残ってないよ。それになんだ、その汚い格好は」
そう言われ、俺は自分を見下ろした。
ゴミ拾いに夢中になっているうち、両手の指先は泥で汚れ、ワイシャツにも泥はねの汚れが点々とついていた。
「あっ!」
俺はカァッと頭に血が昇るのを感じた。
「す、すみません」
「アンタまさか、その手で縋ろうっていうんじゃないだろうね」
「い、いえ、そんな。とんでもない!」
「とにかく、何度言ってもダメなものはダメ。いいね。アンタも仕事帰りなんだろ? 早く帰りなさい」
「あ、あの・・・!!」
手の汚れを叩いている間に、店長さんはさっさと車に乗って去って行ってしまった。
最後に「お疲れさまでした」と声をかけるのが精一杯だった。
結局最後にはタイマー仕掛けの駐車場の照明まで消えて、辺りは真っ暗になってしまった。
そんな闇夜にまたもや俺の腹の虫が響き渡り、恥ずかしくてたまらなかった。
人間、苦境に立たされても、腹が減る時は腹が減る。
「・・・帰るか・・・」
俺はひとりそう呟いて、ジャケットをカバンの上に被せ、割とキレイな右手にその荷物を抱え、駐車場を出た。
はてさて、どうやって帰ろう。この時間、バス、走ってるかな? 近くの駅まではちょっと歩くもんなぁ・・・。かといってタクシーはもったいないし・・・。
そう思いながら、トボトボと帰っていると、路肩に見覚えのある赤い車が停まっているのに気がついた。
千春の赤いコンパクトカーによく似ている。
千春の車はいろんな外車が走っている都内でも珍しい方だから、同じ車にお目にかかったことはない。
へぇ、珍しいこともあるもんだ・・・と思っていたら。
ふいにドアが開いて、乗っていた人物が出てきた。
街灯に照らされた顔は、他でもない千春で。
俺は心底驚いた。
「え? な、なんで、ここに?」
「なんでって、迎えに来たんですよ。ここから帰るには、公共交通機関では帰りにくいでしょ?」
「それは、そうだけど・・・」
「とにかく、これで手の汚れと顔の汚れを拭いてください」
千春はそういいながら、除菌作用ありとパッケージに印刷されたウェットティッシュを差し出した。
── え? 俺、顔も汚れてるの??
道理で皆、変な顔して俺のことを見て行くはずだ。
荷物は全て千春が受け取ってくれたので、俺は取り敢えず両手の汚れを拭き取った。
そして顔を拭こうとしたが、一体どこが汚れているのかわからない。
「あれ? どこ?」
俺がきょときょととしていると、千春は苦笑いしながら新しいティッシュを取って、汚れた箇所を拭いてくれた。
千春が近づいた時にいい香りがふわりと香って、なんだかホッとする。
「さ、キレイになりましたよ。車に乗ってください。お腹、空いてるでしょ?」
「う、うん」
俺が助手席に乗ると、千春は俺に大きなタッパー容器を差し出した。
「入れ物はイマイチですけど。急に思いついたんで。ま、我慢してください」
「え、これ、なに?」
「すぐに食べられた方がいいと思って」
蓋を開けると、おむすびが入っていた。
「わぁ・・・、うまそう」
「おむすびなんて人生で初めて作ったんで、美味しいかどうかはわかりませんが」
「え? 初めて作ったの?」
俺がそう訊くと、千春は両肩を竦めた。
「だって、今までそんなの作る必要がなかったし、作る相手もいなかったですしね。正真正銘、生まれて初めてのおむすびです」
思わず、俺の顔がニヤケてしまった。
だって、人生初のおむすびを俺のために握ってくれたなんて、ちょっと感動じゃないか?
俺は、まだほんのり温かいシンプルな三角おむすびを一口齧った。
「ん! 昆布だ!」
「シノさん、好きでしょ、昆布」
俺は頷いた。
そして猛然と大振りのおむすびを三つ一気に食べた。
握り加減といい、塩加減といい、うまい。
しかし一気に食べたため、ちょっとむせてしまった。
「ああ、そんなに慌てなくても・・・。シノさん、これ、飲んで」
広口の魔法瓶から出てきたのは、温かい味噌汁だった。
湯気を立てるそれを一口啜ると。
── ああ、ほっとする・・・。
五臓六腑に染み渡るって、こういうのをいうんだよなぁ・・・。
「美味しい?」
千春がそう訊いてきたので、俺は「うん」と全力で頷いた。
「なんか俺・・・、頑張れると思う」
俺がそう言うと、千春は穏やかに微笑んで、
「そ? それはよかった」
と優しい声でそう言ったのだった。
<side-CHIHARU>
僕が人生初めてのおむすびを作ったその日から。
僕は毎日、おむすびを作ることになった。
シノさんが仕事終わりに必ずあのスーパーに寄ってから帰るという生活が始まったからだ。
僕は、いろんな細々とした仕事で遅くなる時も、必ず決まった時間にはどちらかの家に帰っておむすびを作り、シノさんを迎えに行くというのが日課になった。
休日もシノさんはスーパーに行って、敷地内の掃除やら他の業者の搬入作業やらを手伝い始めたので、僕らが一緒に過ごせる時間は少なくなってしまったけど、僕のシノさんを想う気持ちは益々加速した。
シノさん、本当に頑張り屋さんなんだよね。
そのシノさんが身体を壊さないよう、それを精一杯フォローするのが僕の役目だと肝に銘じて。
そのお陰でシノさんとセックスするチャンスも激減したけど、今はじっと我慢。
僕は岡崎さんのツテで知り合った有名な料理研究家のところまで押し掛けて、毎日食べても飽きないように様々なおむすびの具と味噌汁について研究した。その熱心さは、料理研究家の山原さんや岡崎さんがあんぐりと口を開ける程だった。
だって、シノさんを労るおむすび作るなら、最高のものを作ってあげたいじゃないか。
「恋は盲目って言うけど・・・、あなたがこれほど尽くす男になり果てるとはね・・・」
呆れ顔の岡崎さんにそう言われたけれど、僕は一切気にしなかった。
カッコ悪くったっていいんだ、別に。
僕はそんなことをツラツラと考えながら、いつものコインパーキングからスーパーの敷地内を掃除して回っているシノさんを見つめた。
実のところ、シノさんの頑張りはスーパーの従業員さん達にはかなり浸透してきて、最近では従業員の幾人かがシノさんに差し入れをくれるようになったり、帰りがけに声をかけてくれるようになっていた。元々、従業員やパートのおばさん達にはウケのよかったシノさんだ。
こんなことをして一体何が変わるのかと思う人もいるかもしれないけど、シノさんの頑張りが報われればいいなぁと切に思う。
そして最近、気づいたことがある。
閉店間際のスーパーの駐車場。
一番店舗から離れていて、それでも全体が見渡せる位置に必ず停まっているベンツが一台。
黒塗りであまりよくは見えないが、ベンツでもかなりハイクラスの車種だ。
最初は特に気にしていなかったが、シノさんと社長さんの帰りの一悶着を見届けると必ずひっそりとスーパーから去って行くのだ。
でもその車は毎日現れる訳ではなかったから、僕の気のせいかもしれないけど・・・。
シノさんにその疑問をぶつけてみたけど、知り合いにベンツ持ちはいないとシノさんは断言したのだった。
一方、流潮社の写真週刊誌に対する抗議に関しては、なしのつぶてだった。
相手は、のらりくらりとした返事をよこして来るだけで、僕たちが裁判に訴えても大した効果にならないということを見越しての対応だと思った。
この対応に怒り心頭になったのは、僕よりも岡崎さんの方だった。
「完全に舐められた」
と鬼瓦のような顔をして、流潮社の法務部に再び突進して行った。
しかし、このような対応じゃ、訂正記事を載せてもらったとしてもたかが知れてる。
目次ページの隅っこに、三行ぐらいで小さく掲載されて終わりだ。それでは、あまり意味をなさない。
さて、どうしたものか・・・。
久しぶりに出向いた岡崎さんのオフィスでぼんやりとコーヒーを飲んでいると、岡崎さんが渋い顔で戻ってきた。
「やっと訂正記事、掲載してくれるって連絡があったってさ」
岡崎さんはそう言ったが、その顔はムッスリとしたままだった。
どうやら、僕が考えていたことと同じことを法務部で言われてきたらしい。
憮然とした表情で僕の目の前に座ってコーヒーをがぶ飲みしている岡崎さんを見つめながら、ふと僕は思い出した。
「そういえば岡崎さん、相手の出版社に知り合いがいるって言ってましたよね?」
「え? ええ。でも問題の写真週刊誌発行してる編集部とは全然違うところにいるのよ」
「平社員?」
「いいえ。一応、編集長やってる人だけど。でも、彼が編集してるの、おじさん雑誌よ。おじさん向けの趣味雑誌。まぁ、それなりにメジャーだけど」
「え? それって、『キャラバン』?」
「ええ、そう。それが?」
『キャラバン』といえば、中高年向けの歴史や文化、グルメや旅などを扱う雑誌だ。
確かに僕が読むには少々落ち着き過ぎる内容だが、上品で高尚なイメージがある。
あの世俗的な写真週刊誌を発行してる同じ会社で発刊されている雑誌とはとても思えない。
「岡崎さん、今でも仲がいいの?」
「まぁ、仲はいい方だけど・・・。でも今回の一件で散々文句言ってやったから、最近は飲みに行ってないわ」
「飲みに行ってるんだ」
「そうよぉ? 悪いぃ?」
岡崎さん、最近未婚の自分が夜飲み歩いていることに若干の後ろめたさを感じているらしい。
「何て名前の人?」
「中山さん」
「どんな人?」
僕がそう訊くと、岡崎さんは視線を巡らせた。
「まぁ、ひと言で言うと趣味人よねぇ。休みの日は真空管オーディオなんかいじってるオヤジよ。焼き物も好きだしね。ちょっと癖はあるけど、いい人よ。曲がったことは好かないって感じだし。その割に、したたかな面もあるし。そうでないと、長期発刊雑誌の編集長は勤まらないわね」
「ふ~ん・・・。ねぇ、その中山さんと、一席設けてくれないかな?」
「え? 中山さんと飲むの?」
「ええ。まずは岡崎さんに捕まえてもらってて、後で僕が合流する形がいいかもしれないですね。僕、シノさんを迎えに行かなきゃいけないから。それが終わってからの方が都合がいい。10時半とか、11時とか」
僕がそう言うと、岡崎さんはきょとんとした顔つきをした。
「なに考えてるの?」
「ん? いや、まだ妙案は浮かんでないですけど。でもこうなったら、敵前に乗り込むしかないかなぁ・・・と。 ── だって僕、負けず嫌いですしね」
そう言って僕がニヤリと微笑むと、岡崎さんは僕と同じようにニヤ~と笑って、「やっぱり澤君、根底は澤君のまんまね」と呟いた。
<side-SHINO>
ああ、仕事が全然終わらない・・・!
俺は、顧客の発注リストをエクセルデータにまとめる仕事に四苦八苦していた。
例のスーパーに通い始めて早二週間。ここのところは日中も暇を見ては例のスーパーに通っていたから、その分しわ寄せが来てしまった。
他のお客様に迷惑をかける訳にはいかない。
でも、早くこの仕事を終わらせて行かなければと気持ちばかり焦る・・・。
そんな俺を余所に、うちの課はおろか、他の課の営業や事務職の女性陣達でさえも、そそくさと退社して行く様子に、俺は小首を傾げた。
田中さんでさえも、素知らぬ顔をして「お疲れさまでした~」だなんてしおらしい声でそういいながら、小走りに会社を出て行った。
俺も最近では定時ですぐに会社を出るという毎日を繰り返してきたから気づかなかったけど、皆、残業しなくなったんだなぁ・・・って思った。前はうちの会社、結構残業してるヤツ、多かったんだけど。
── まさか、俺のせいで全体的な仕事が減ってるんじゃないだろうな・・・と、俺は不安になった。
俺と同様に、どうしても残らざるを得なかったという様子のワイン課の西宮に「仕事減ってる?」と声をかけたのだが、営業陣の中でも一番の下っ端の西宮は「え?!」過剰な程に驚いて、「いや、べべべ別に減ってなんかいませんよ!」と返事を返してくる。
その妙な反応に、俺は顔を顰めた。
「本当かぁ?」
俺がそう訊くと、西宮はバサバサと書類を俺の方に差し出して、「ほら! いつも通りです!」と食い気味に言ってきた。
西宮の差し出した書類はワイン課の発注リストで、確かにその量はいつもと変わりない。
でも・・・。それにしてもなんだ、その反応。
「お前、なんか俺に隠してる?」
「へ?!」
西宮が飛び上がった。
「かかか、隠してなんか、いませんよぉ~」
なんだ。怪しい。絶対。
「お前、何を隠してるんだ」
「隠してませんって~。第一、何をシノさんに隠すことがあるって言うんですかぁ」
西宮の台詞に、俺は考え込む。
確かに、何も隠すようなことはないよな。売り上げが減ってる訳じゃないんなら。
でも何か俺は腑に落ちなくて小首を傾げたところで、部長室から帰ってきた課長に「おい、シノ」と呼ばれた。
「あ、はい!」
「ちょっと」
課長に手招きされる。
課長の席まで向かうと、俺は頭を下げた。
「すみません、受注リスト遅れてます」
「ああ、それは明日、手島に仕事を回せ。それから、地方出張もしばらくは川島に変わってもらえ」
課長の台詞に、俺は眉間に皺を寄せて課長を見た。
ドキリと胸が鳴った。
口の中が一瞬で乾いていくのを感じる。
「それって・・・、営業から外れろってこと、ですか?」
俺は、恐る恐るそう訊いた。
ついに来たのだと、内心そう思った。
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