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「主様、いかがなされましたか?」
「――っと、いいや。少しばかり、昔を懐かしんでいたところだ」
戦場からの帰り道。山道を歩きながらぼんやりとしていた青年は、呼びかけられ我に返った。
「あら、それはまた。老成しておられますね」
「それはおだてか? 皮肉か?」
「ふふふ、さて、どちらでしょうね」
「まったく……。こういうところばかり、誰に似たんだか」
「後で鏡をお持ちしましょうか、ふふ」
青年の隣でくすくすと笑う女。正確には、笑っているような仕草であって、実際にそうかどうかはわからない。その表情は、仮面によって隠されている。
(この女が、あの大蛇だと、誰が思うだろうか……)
青年は、隣を歩く仮面の女――蛇神に視線を向けながら、思いを馳せる。
屋敷の前で意識を失ったはずの青年が目を覚ますと、まず天井が視界に入った。
身体には布団の手触り。そして次に、
『あら、お目覚めですか? おはようございます。主様』
枕元で覗き込んでいた仮面の女に驚き、青年は今度こそあの世へ行くかと思ってしまった。
――その奇抜な仮面を除いては、一見、普通の女に見える彼女。
しかし、先ほどの戦場で見せた大蛇こそ、彼女の本当の姿なのであった。
『私のことは蛇神と、お呼びくださいませ』
仮面越しでくぐもった、しかし涼やかで落ち着いた声で女は名乗り、たおやかに礼をした。
――蛇神は、よくできた女性であった。
炊事、洗濯はもちろんのこと、本調子ではない青年の世話を甲斐甲斐しく続け、彼が歩けるようになってからは、まるで長年の伴侶のように常に行動を共にしていた。
その穏やかなたたずまいに、青年の心は癒され、いつしか、二人の時は流れるように過ぎ去っていった。
そんなある日のこと、青年はずっと疑問に思っていた事を蛇神に打ち明けた。
『蛇神、お主は、何者だ? この屋敷は、お主のものか? その面には、如何な理由がある?』
青年が尋ねると、蛇神は少し悲しげな顔になり、風を読むような仕草で空を仰いだ。
『……主様。少しばかり、遠出をいたしましょう』
その遠出の先は――、合戦場だった。
山を三つほど越えた先。人や馬の立てる土煙が舞う、鉄さびた平野を臨む崖の上で、蛇神は口を開く。
『主様。貴方のされた三つのご質問のうち、二つをお答えします』
そして言うなり、なんと彼女はためらうこともせず崖から飛び下りてしまった。
慌てて崖下を覗いた青年が見たものは、木々をなぎ倒し、まるで氾濫した濁流のように戦場へと突き進む、巨大な蛇の姿――。
気づかぬうちに轢き殺された者は幸いだった。
蛇の吐く灼熱の炎は、気づき逃げる者をどこまでも追い続け、苦悶の続く限り呑み込んだのだから。
地獄の光景に絶望し、恐怖におののき、崖から自害した者は愚かだった。
万に一つ、助かったかもしれなかった命を捨てたのだから。
そうして、幸不幸にせよ、愚かにせよ、誰も彼もが同じ末路を辿った……。
――青年は、その凄惨な光景を、ずっと見続けていた。
やがて戦場に人の声はしなくなった。ところどころで煙がたちのぼり、嫌な臭いが鼻をつく。
『コレガ、ワレノスガタダ。キヒスルカ? オジケヅイタカ?』
青年の立つ崖の上までゆうに身体を伸ばす蛇神は、裂くように笑う。
『アノヤシキハ、ワレノ、ワレラノスミカデアッタ。ダガ、モウワレヒトリ。ワレノキョウダイハニンゲンニコロサレタ。……トモニアリタイト、ネガッタバカリニ』
そして蛇神は、青年を飲み込まんと、真っ赤な口を開ける。
『サア、ドコヘナリトモキエヨ、ニンゲン』
それはまるで、脅しではなく、切なる彼女の願いのように、青年には聞こえた。
『サア! ハヤクキエネバ、カミコロス――』
迫る牙。しかし青年は、首を振った。
「蛇神よ、俺はお主に、一つだけ言いたい」
『――ヌ』
「もう、誰も殺すな」
『――ッ!』
「お主は今、何のために殺した? わたしはずっと見ていた。人間だけではない。戦場にいた物の怪も皆、殺したな。……それはなぜだ? まさかわたしに見せつけるためではなかろう?」
『グ……』
「もし、それが事実なら、わたしはお主を見限るぞ。忌避も、怖じ気づきもしない。ただお主が、たいそうな力を持ちながら、その程度の器だと見限って、それから立ち去ろう」
青年の胸の内には、かつて自分の家族が殺された夜の光景が映っていた。穏やかだった父、優しかった母、親しかった家人。そのすべてが、一夜にして消えてしまった虚無感と、残された孤独。
「わたしに、物の怪のことはわからない。しかれども、お主が今殺した人間にも、物の怪にも、家族がいただろう。お主も、奪われたのだろう? だが、――お主は、それを繰り返した」
『――ッ』
「もう、会うこともあるまい。殺すなら、殺せ。人間なぞ、一噛みだろう」
言って青年は踵を返す。
「……世話になった。それだけは、礼を言う」
青年に、蛇神と過ごした屋敷以外に行くあてはない。彼女に殺すなと言っておきながらも、いっそのことここで殺された方がましなのだろうな、と自嘲した。その時、
「――お待ちください、主様」
牙ではなく、震える声が彼の背に届いた。振り返ると、いつの間にか、人の姿に戻った蛇神がそこに立っていた。
「主様、私は、どうすればよいのですか? 私はこのときだけではありませぬ。これまでも、多くの命を奪ってまいりました。ここでもし、主様に見限られては、私は、どうしてよいかわかりませぬ」
小さく首を振り、肩を震わせ言葉を紡ぐ蛇神。仮面で表情は隠されていても、その必死な様は青年にも伝わっていた。
「――なら」
青年は、家族を殺され、家を追われ、蛇神と過ごし、そして戦場の光景を目の当たりにして。
考えていたことを、誰よりも力を持つ彼女に、伝えた。
「お主が奪った命よりも多くを、救ってみせよ」
「どうやらこたびは少し、お疲れのようですね、主様?」
「――ああ、いや。第一、わたしは見ていただけだろう」
「それはそうでございますが……」
「戦場に出たお主の方こそ、どうなのだ?」
「心配いただき、うれしゅうございます。ですが、こたびは両陣営とも早くに手をお引きになりましたので、それほどまでは」
言って、蛇神は仮面の口元へ手をあてて微笑むしぐさをした。
――あれから、青年と蛇神は、毎日のように巻き起こる戦場へと向かうようになった。
ただしそれは、殺すためではなく、終わらせるための戦。
国同士で争う合戦は、馬や弓を使えど、所詮は人間同士の争い。そこへ、蛇神が大蛇の姿で現れれば戦線は混乱し、やむをえず終息へと向かう。時には妖術師の操る物の怪が立ちふさがることはあっても、城を絞め落とすほど巨大な蛇に敵うはずもない。
そして何よりも、蛇神は青年との約束を守り、無用な殺生を禁じた。しかし戦場にいたいかなる兵にとっても、巨大な蛇に襲われた記憶は鮮明に焼きつく。それはやがて、合戦が起こる場所には、荒ぶる大蛇の祟りがふりかかるという噂として、広まっていった。その結果、各地の合戦自体が減ってゆき、その犠牲者が目に見えて減ることになる。
――これが、青年と蛇神の選んだ、この戦乱の世の多くの命を救う術であった。
「そういえば蛇神よ、お主、あの時の質問、一つだけ答えていないだろう?」
「? 何のことでございましょうか?」
「何故、お主はいつも面をしているのだ?」
言われた蛇神は、一度、青年の方をじっとその眼窩の向こうから見つめ、小さく笑う。
「それにお答えするのは、殺生を禁じることよりも、難しゅうございます」
「? それは、どういうことだ?」
「主様。……時に女は、その想いゆえに、すべてを殺めてしまう生き物なのですよ。それは人間でも、物の怪でも、同じでございましょう」
「意味が、よくわからぬが……」
「いいえ、もう教えてあげませぬ、うふふ」
そう言って蛇神はいたずらっぽく笑い、首を傾げる青年を置いて先へと行ってしまう。
「お、おいっ、蛇神」
慌てて後を追う青年。それを見た蛇神はきゃあっと童のように悲鳴をあげて逃げ出した。
「蛇神、待て! そこまで言うのなら、知りたくもなろう!」
「ふふ。――主様、いつか、お答えできる日が来るのが、私には楽しみでもあり、恐ろしゅうございます。ほら、鬼さま、こちらでございます」
夕暮れの家路を、年甲斐もなく楽しげにはしゃぎまわる二人には知る由もなかった。
終劇の幕が、まもなく下りようとしていることを――。
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