『蛇神の面』

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『蛇神の面』

「あの城を落とせ、蛇神(おろち)」 「御意にございます、主(あるじ)様」  深い山森の中腹からのぞく眼下には、曇り空を映す灰色の湖。 「いつも通り、頼むぞ」 「御意にございます。ぬかりなく、」  風はなく、鏡のように澄んだ湖面の中央には、不落として名高い堅城がそびえたつ。 「――主様の、思(おぼ)しのままに」  それは、この戦乱の世、百年以上続いた城が陥落する、わずか半刻前の会話だった。 「ありゃあなんだ?」 「お? ……おおっ、女だ。女が来るぞ!」  船着き場のある城門に立つ兵士の声に、詰め所にいた他の兵士も色めき立つ。 「本当に一人か。しかも、えれえべっぴんそうじゃねえか!?」  兵士の視線の先、紫の着物を纏う女は、ほっそりとした手を組み小舟に立っている。  誰も彼もが遠目でもわかる女の気品に、その奇妙さに気づかない。漕ぎ手のいない舟が女を乗せてくることも。揺れる舟の上で、女が姿勢を崩さないことも。  やがて小舟が近づいて来た時、それとは別の異質に、誰かが気づく。 「……おい、あれ。見てみろ」 「なんだぁ、ありゃあ?」  緩やかに流れる、女の腰まで届くつややかな黒髪。そこからうかがえる顔は、さぞかし艶やかなものだろう。しかし、誰も覗き見ることはできない。 「白の……面?」 「能者か? まるで夢幻能だな……」  女の顔は、眼窩(がんか)と口だけが開けられた、何の表情も映さない女面で隠されていた。  傷でもあるのか、殿だけが御拝顔できるほどの女か、兵士たちがざわめきあっている間に、舟は、船着き場についた。  すぐに詰め所から兵士が飛び出し、桟橋を歩いてきた女を岸辺で取り囲む。 「おお……」  近くに来て見れば見るほど、女の色香はいっそう増し、兵士を湧き立たせた。薄汚れた荒々しさ際立つ多くの兵士からの舐めるような視線に、女は物怖じしたようすもなく、静かにたたずんでいる。  やがて兵の長らしき武骨な男が他の者を黙らせ、女の前に歩み出た。 「何者かは知らぬが、見ての通り城は戦火の中にある」  長の話すように、この湖城をかまえる殿と対立する他の大名の軍勢が、湖のまわりを取り囲んでいる。しかし、下手に舟をこぎ出せば矢の雨や鉛玉を食らうのは目に見えており、戦況は膠着状態であった。現に、訪れた女を、今も城の狭間から銃口が狙いをつけている。 「殿からの伝令もない、見たところ一人のようだが、……その奇怪な面も。理由を告げよ、さもなくば」  言って、脅しとばかりに男は刀のつばに指を添えた。 「――御機嫌うるわしゅう、ございます。皆様がた」  その時、はじめて女が口を開いた。仮面越しではあったが、姫百合のようにしとやかな美声に、どこからか「おお……」とため息にも似た声が漏れる。 「こたびは、皆様におひとつ、お願いがあって参りました」 「願いとな? 何だそれは、言ってみろ」 「はい。まずはこのような無礼をお許しいただき、ありがとうございます」  女は静かに一礼し、同じ調子で静かに告げた。 「――この城を、落とさせてくださいませ」  どよめきが広がり、長からは殺気が溢れる。 「……貴様、たった一人で、いい度胸だな。――そのふざけた仮面ごと、一刀してくれるッ!」  長の腕が筋肉に軋み、次の瞬間、刀線の煌めきが女の首を撥ね飛ばした。  誰もが、そう思った。しかし、 「二度も、首を落とされるわけには参りませぬゆえ、失礼いたします」  いともたやすく、刀身をそのたおやかな指先で掴み取った女は、そのまま再び一礼し――。  城は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 「……始まったか」  湖をのぞむ山の中腹、女を送りだした青年は、遠目に見える城の惨状を眺めながら、一人呟く。城は、湖が見える場所ならどこからでもわかるほどの有様だった。 『タチムカウナラバ、ソノオゴリゴト、モエツキヨ――、ジャアアアアッッ!!』  ――城は、一匹の蛇に囲われていた。  それもただの蛇ではない。身体は夜闇のように黒く、天守にまで届く頭にはぎらぎらと光る金色の瞳と、瓦屋根など一突きで砕いてしまう牙の見える真っ赤な口から吹き出す竜巻のような炎。そびえたつ城郭を絞め潰さんばかりにとぐろを巻いても、なお余りある尾が湖面を打つ、桁外れた総身の大蛇だった。 『イノチヲオシムナラバ、ニゲオオセルガヨイ――!!』  青年のもとまで届く空気を震わせる声は、まるで天から降る雷のごとく。城内で直に聞いている者はひとたまりもないだろう。  同情はしないが、不憫に思いつつ、青年は苦笑しながら光景を静観している。  やがて、蛇のまわりを米粒のようにぱらぱらと飛んでいた矢も数を減らし、周囲の湖には舟で脱出する者、焦るあまり湖に飛び込んで溺れる者も見て取れるようになった。 「あの様子だと、それほどかからないか」 天に向かって咆哮する大蛇、そのいっそ神々しい姿に、青年は気づけば手のひらが汗でべたついていた。 (蛇神よ、お主は、まことに……) その呟きは、大蛇の咆哮にかき消された。
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