274人が本棚に入れています
本棚に追加
中に入るとすでに紅茶とコーヒーの匂いがする。奥からぱたぱたとスリッパの音。小さな声を聞いた。
「あっ」
花は廊下に走った。壁に手を突いている母を抱きかかえる。
「走っちゃダメだってば。前にも言ったでしょ」
「ごめんね。普段走らないから走り慣れていなくて。途中でどっちの足を出すのか分からなくなるのよ」
「相変わらずだね、母さんは」
ウバを飲みながら家の中を見回した。一際大きな額に白いタキシードの自分と真理恵のウェディングドレスの姿があった。
「父さん。今は分かるよ、父さんの絵が心を打つっていうのが。生きているみたいだ。ううん、生きてるんだね、あの時の俺が」
「そうだよ。いつだって私の中で君は動き回っている。止らないよ、君は」
「母さんのピアノ、聴きたい」
「え?」
「新しく買ったんだね。聴かせてよ」
ピアノの前に座った母は別人になった。呼吸を整えている。そこに何かがあるかのように空間を見つめていた。うっとりと目を閉じて何かの中に自分を解き放っていくようだ。指が滑り出した。
(ボロディンの「イーゴリ公」……俺の一番好きな曲だ)
世界的に有名な宗田夢が、今息子のためだけに弾いている『韃靼人の踊り』。あの頃が浮かんだ。部屋に籠っていた頃。力無くベッドに横たわっていた頃。
最初のコメントを投稿しよう!