42.絆

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42.絆

   兄が壊れた。  それはジェイとは違う壊れ方。壊滅的で非常な現実。  哲平は朝から張り切っていた。 「今日は残業しないからな!」 「どうしたの? なんかあんの?」 「今日は母ちゃんとデートするんだ」 「母ちゃんって、……千枝さん?」 「そ。さっきメール送った。今日帰りがけに喫茶店に行こうって」 「え、それがデート?」 「お前さぁ、子ども実家に預けてどんなデートが出来るんだよ。たまにはこうやって千枝の息抜きさせてやんなきゃって思うんだ。だからデート」 「はいはい、いいノロケをご馳走さま!」  哲平が外に体を向ける。窓の外は見事な青空だ。飛行機雲が鮮やかに一筋浮かんでいた。 「哲平!」 「来た来た、奥さまが」 「まだメール見てないだろうな」  その千枝の体がまるで泳ぐように沈んだ。 「千枝?」 ――カーン カラカラカラカラ…… 「千枝さんっ」  花は飛ぶようにそばに駆け寄った。課長が、池沢が、広岡が、みんなが駆け寄って千枝に声をかける。 「救急車っ」  叫んだのは花だ。  だが、部長は立った。哲平のところにふらっと歩いていく部長……哲平を抱きしめる。肩が震えている。 「哲平……哲平」  花はぐっと堪えるものを吐き出したくなくて歯をギリっと噛みしめた。それでも哲平の姿が揺らいで見える。  哲平はただ茫然と立っていた。そして部長の体を押しのけるように千枝のそばにゆっくりと歩いてきた。跪く。その愛しい体を抱きしめる兄がいる。 「千枝……帰んなきゃ……夕飯、キャベツとコロッケでいいから帰ろ、千枝」  言葉なんか出なかった。花自身の体が大きく震えている、哲平を失う瞬間を感じていた……  葬式に行っても哲平は口を利かなかった。何も聞こえていなくて、弔辞は千枝の父が読んだ。哲平はただ和愛を抱いて突っ立っていた…… 「こんなに早く出て来なくても」  忌引きが終わった途端に出社した哲平は鬼になっていた。 「うるさい」 「哲平さん?」 「お前は会社に何をしに来てるんだ、仕事をしろっ」  息を吞んだ、『あの哲平』がいない。 (ここに……俺の目の前にいるのは誰?) ちょっとしたミスを罵倒する。雑談が聞こえるとオフィスから叩き出す。 「哲平さん! なにやってんだよ、こんなの哲平さんじゃないよ!」 「そう思うなら出て行け、花」  取り付く島もなかった。  部長が哲平をミーティングルームに呼ぶ。行きはするが、対等以上の言葉を返す哲平の怒鳴り声が響き渡る。 「あんたも仕事せずにくだらん話をするのか! 仕事の話じゃないなら俺を呼ぶな! 出て行け!」  花も田中も池沢も飛び込んだ。殴られた部長が倒れ込んでいる……その腹に哲平の足がめり込んだ。 「なにやってんだよ! なにやってんのか分かってんの!?」 花が哲平を押さえ込む。自分でなければ誰も出来ない。 「いいんだ、花。離してやれ」 「でも」 「いいんだ」  いつでも押さえられるように用心して離れる。だが哲平が動くより早く部長が哲平を抱きしめた。 「こうやって吐き出したいんだよな……ここにいても辛いばかりだろう? 哲平、病院に行こう。頼む、俺がついて行くから病院に行こう」 泣きながら繰り返す部長の腕の中で、哲平の体が弛緩した。なにかが崩れてしまってそれはもう元には戻らない……そんな予感がした……  哲平はただ一つ、頷いた。そこには言葉も表情も失った兄がいた……  花が運転した。後部座席で部長が哲平の体をずっと抱きしめている。 「すみ……ません、ちょっと車、止めさせてください」 返事も待たずに路肩に車を寄せる。  ハンドルに体を預けた。涙が膝に落ちる…… 少しして、腕でぐい! と顔を拭いた。 「行きます」 「頼む」  そして病院に着いた。  長い時間を、永遠とも感じる時間を兄と過ごした。 (失いたくない) けれど兄の姿をした者はただベッドに横たわっていた。  家で涙の枯れるほどに泣いた。食事も喉を通らず痩せていく花を、泣きながら真理恵が支えてくれた。 「帰ってくるよ、哲平さんは。信じよう! 絶対に帰って来るって!」 「信じたい……マリエ、信じたいよ、俺も……」 「頑張れ、花! 負けるな、花! 花くんが諦めたら全部終わっちゃうんだよ? 負けるな、花!!!!」  そして、再び兄を得た。もう二度と離さない、そう決意した。兄をどこまでも守るのだと。   ――『花物語』 完 ――  
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