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二つの根付
その屋敷は往来から少し入る奥まった所にあり、椿の生垣に囲まれていた。入母屋造りの屋根の大棟は柔らかな曲線を描き、屋根瓦はしっとりとした古墨色、壁や格子戸は落ち着いた紅殻色に塗られている。
若い男が格子戸を潜って、屋敷に入った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
茜色の着物の女が男を迎えた。男が履き物を脱ぐのを手伝いながら、男が携えている荷物に目を留める。
「それは?」
「海淵寺で市が立っていてね」
男は座敷に上がり、荷物を開けた。
「根付だよ」
手のひらに載るほどの小さな根付、一つは頬被りして座り込む縞の着物の男の姿、もう一つは牙を剝いて威嚇する狼の姿を模していた。
「違う出店で売っていたのだけど」
男は戸棚から小さな枡を取って横向きに置いた。頬被りの根付をその上、狼の根付を中に置く。
「こうすると、ふるやのもりみたいだろ。梁の上に潜む泥棒と家に入り込んだ狼さ」
女は二つの根付を見つめた。
「面白い、まるで生きているみたい」
「百年は経っているからな。付喪神になって命を持つ頃かもしれない」
男の言葉に女は首を小さく横に振った。
「年月だけで命を持ちはしないわ。人間に大切にされ、愛された物だけが付喪神になるの」
男を見つめ、艶然と微笑む。
「へえ、そんな……うわっ」
男は跳び上がって上を向いた。
「首筋に何か……、あれかあ」
指差した先の天井板に節があり、うっすら濡れて水滴が出来ていた。
「昨日の雨で雨漏りしたんだな。まさに古家の漏りだ」
女が慌てて男の後ろに回る。
「私ったら端ないことを」
「君のせいじゃないさ」
男は首筋をぬぐった指先を見つめた。
「昨日の雨水だよ。変に生暖かいけど、何ということはない」
「だめです、だめです、だめです。きれいにしないと」
女は背後から抱きしめるようにして男を立ち上がらせた。
「すぐお風呂に入ってください。お背中流しますから」
「あ、ああ」
男と女が奥に消え、暫くすると頬被りの根付がひょいと顔を上げた。
「愛された物、かよ。とんだ惚気だな」
狼の根付が顔を顰める。
「黙っていろ。あれは人の姿をした分身を作り出すほどの古強者、見たところ数百年の歳月を経ていそうだ。百年かそこらの俺たちの及ぶところではない。ご機嫌を損ねたら食われちまうぞ」
「おお、怖い怖い」
二つの根付は動きを止め、屋敷の奥から微かに漏れてくる嬌声を聞くものは誰もいなくなった。
終わり
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