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 徳川の御座します、江戸城下町。  常は殷賑を極めるこの町も、近頃は一変としてい鬱屈な気に包まれていた。というのも、今は走り梅雨がじめじめと感じられる季節。漂う空気は何をしても、何処へ行こうとも蛇のように体へ纏わり付き、嫌な重さをも孕んでいる。  錫を溶かし広げた空、人々の姿を隠そうとする糸雨——多色の声が飛び交う筈のこの町も、聞こえてくるのは蕭条な雨の音だけである。  所狭しと構えられている店も、客足が少ないと分かっているなら閉める他なく。呉服屋、旅籠、小間物屋、茶屋、薬屋……これだけ並んでいても聞こえてくるのは、揃って雨垂れの音ばかり。  ——しかし。  ふと、一店だけ小さく顔を見せている店があった。そこはどこからどう見ても、傘屋である。  一目瞭然なのは、銀糸に霞む事なく色彩を放つ鮮やかな傘が幾張り並列されているのが、戸を開けたままの店内から見えるのだ。人々の姿は隠せても、この飾られた美々しさ達は隠せまい。 「…………」  そんな羨望の的である傘屋を、銀糸の中で佇み、じっと覗いてる女人が一人。  紺青の色した傘から覗く烏の髪は雨に霞む事なく存在を放ち、僅かに皺の刻まれた口元は一文字に結ばれていた。紅を引いていない唇は乾いてしまい、縦皺が些か痛ましい。  彼女は脇にもう一張り、深蘇芳の傘を抱えているようだった。その深められた色は雨に濡れてしまったせいなのか、将又、経年劣化のせいか否か……。  やがて意を決したのか、一歩を踏み出した彼女。泥濘んだ地面に足を取られぬよう小さな歩幅で、然れど確と踏みしめて進んで行く。 「こんにちは」  暖簾の前で足を止め、傘を閉じた彼女は店内へと声を投げた。雨の音にも消されぬ声は、思わず背筋が自然と伸びてしまうような隙のなく通ったもので、凛然とした印象を受ける。 「へいらっしゃい!」  矢庭に店の奥から返された声は、常の町によく似合う溌剌とした男のもの。間を挟むことなく現れた声の主は、鉢巻をした精悍な顔立ちの若い男だった。 「この傘、直して頂けるかしら」 「おや、梅坂さんじゃねえか」  驚いたように丸された男の双眼には、暖簾を潜り深蘇芳の傘を差し出す女人の姿が。  彼女は吊り上がった眦と鉤眉をしており、どことなく険を感じさせる貌をしていた。 「こりゃまた、随分と年季の入ったもんだ」  受け取った傘を広げながら零した男の呟きに、彼女の眉尻が跳ね上がる。 「直せるでしょうね」  広げられた傘は虫食いどころが、猫や童が戯れに破ったのかと言いたくなる大きな穴が無数にあり、大半の骨組みがでろんと外れていたり折れていたりと、中々と限界を見せていた。  だが男は眉を顰める事なく、傘から目を外して彼女へ向けてカラッと笑い豪語するのだ。 「勿論、この惣伊之助に任せな!」  歯を見せ笑顔で告げた惣伊之助の言葉に、微かだが安堵したように肩から力を抜いた女人。  どれくらいで直るかと問うた彼女へ、惣伊之助は「雨の上がる頃には完成させてみせる」と答えたが果たして、この雨は止むのだろうか。  無愛想な彼女へ嫌な顔一つも見せず、女人の襤褸傘を置きながら「ちょいと茶ァ、用意してきやすね」と奥へ再び消えた惣伊之助。  彼女がその背を細めた眼で見送り、やがて流した視界で店内を見渡す。  緑、赤、紫、黄——様々な傘で所狭しだ。  作り掛けだろうか、和紙の貼られていない骨組みのみの傘が一つ、二つと畳の上に置いてあった。 「……」  販売用の一つの傘を手に取る女。 「へいお待ち!いやぁ、いつまで経っても茶入れるの慣れなくて。へへ、口に合わなかったらすまねぇ。…おっ!その傘気に入ったかい?」 一つの湯呑みを一つの小さな盆に乗せて帰ってきた惣伊之助。そのままそれを畳の上へ置く。 「…別に。手持ち無沙汰だったから見ていただけよ」 「ははっ、違ぇねえ!」 全く気にしていないように笑顔で笑い飛ばした後、置いていた襤褸傘をさっと掴み、よっこらせと呟きながらどかりと座り込む。 それを横目で認めた女も、彼から少々離れた入り口側の端に腰をそっと降ろした。盆の茶を手に取り、ゆったりと口をつける。 しかし、やはりこの女。無表情のぶっきらぼうを通り越して少々当たりが強いようだ。
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