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「その時、息子は十四。まだ大人になりきれてなかったからか、ずっと夫から離れなかったわ。毎夜毎夜、涙を流してた」
「……そりゃまた、酷なこって」
「私も何だかやる気が出ない日々が続いてね。そのまま彼は数日後に逝ってしまったわ」
ぽたり。と、外からではなく、彼女の頬を一雫が伝った。
「今思えばあの人は私を置いてく事を悟って、私を一人にしない為に、あの子を引き取ったんじゃないかって」
そして女の夫は随分前から、心の臓に負担を抱えていたと言う。
夫は己の等の生活を支える為に働き詰めだったと。雨の日も風の日も、遠くへ行く事だって少なくなかったと女は言った。
「ああ、自分のせいだ、自分があの人と番わなければこんな事にはって。でも、息子の前では平常を保つよう努めてたわ。今度からこの子を私一人が守らなきゃって」
女は度胸、愛しい我が子を、と。そう決めたばかりの時、息子が告げたと言う。
「此処から出て行くって、突然言い出したの。息子が、本当に、突然。今まで有難うって」
「どうしたんでさ」
「さあね。ただ、笑顔だった事は確かよ。理由を問うても"自分は大丈夫だから。心配しないで。"それしか言わずに、身一つで出て行ってしまったの。本当、すぐに」
それから数日、否、一年と経っても帰って来なかったと言う。
独りになってしまった彼女は何故、そんな仕打ちを受けねばならなかったのだろうか。神の悪戯か。それならばなんと酷な悪戯だろうか。
愛した者に置いて逝かれ、望んで手に入れた愛しい息子にも置いて行かれ。
惣伊之助は静かに耳を傾けながらも、手は未だ止まる事を知らない。やがて仕上げも終盤に差し掛かってくる。
「もうなんだかねぇ、生きるって何だと思って。そのままふらふらと、気付けば家を出ていた」
のらり、くらり、息子と同じく身一つで世を彷徨っていた。ただただ、歩いている毎日。
腹が減れば目に入った草を。
喉が乾けば、通りかかった川の水を。
別に生きたい訳じゃなかったと言う。恐らく生命の本能が故に、体が勝手に摂取していたのだろう。
そんな生きた心地のしない中、とある噂を耳にした女。
「江戸には腕の良い大工が沢山いるって噂が流れてきてね。そんな時、夫も大工だった事を思い出して、何となく此処に向かって歩き始めてたの」
「ほう、それで此処に」
「ええ、江戸に付いた瞬間、人の多さに驚いたわ。それと同時に、ああ、もしかしたらこの中に息子がいるんじゃないかって」
そんな筈ある訳ないのに、一瞬思ってしまったのと女は失笑する。だが、もしかしたらと一縷の望みをかけて此処に留まる事を決めたという。
ずたぼろな服。ぎたぎたの足。軋みに乱れまくっていた髪。通行人はまるで汚物を見る目で彼女を避けていた。そんな彼女が、その時、何日ぶりかの光を見たのだ。
「生きる気力みたいな物が突然湧いてきてね。嗚呼、息子に会いたいって。捨てられたも同然なのに」
「……で、今に至ると?」
少々間を挟み、彼が問い掛ける。顔は真剣そのものだが、手は青の和紙を張り付いている途中だ。
「そう。どうにか身嗜みを整えて職を探してね。料理の腕には自信があったから、そこの食事処の調理師をやらせてもらってたわ」
「あそこの飯、梅坂さんが作ってたんかい!」
あれ程までに手を止めていなかった彼が、驚いた表情を隠さず畳に手をつき、女の方へ詰めるよう前のめりになった。
「そうよ、煩いわね。不味いとかほざくなら二度と来ないで頂戴」
「いやいやいや、反対でさ!吃驚するほど美味えんだよ!」
これでもかと言う程に、きらきらとした笑みを携え、身振り手振りの大声で告げる彼の迫真さは物凄い。女が少々たじろぐ程にだ。
「………そう。ああもう、ほら、それ終わったんでしょ。早く返して頂戴」
女は相変わらず素っ気ない、だがその目元は先程よりも赤みも柔らぎ優しくなったように見受けられる。
そして女の言う通り、傘があの襤褸加減を綺麗さっぱり無くし、美しい空の如く輝きを放っていた──。
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