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日が西へと落ち始めた頃、人々は門戸を固く閉ざした。灰色の煉瓦を基調とした街並みに人気はなくなり、通りには数台の車が止まっているのみ。
いつもと変わらぬ風景、いつもと変わらぬ日常。
建ち並ぶ民家は順番に明かりを灯し、人々は家の中で夕食を迎える。外に出ることは、その身を危険に晒すことと同意義なのだ。
ここは北のノストスア大陸、西端に位置する大国、イセルステ。世界で最も広い面積を持ち、雪に覆われたいくつもの美しい都市は、争いとは無縁であり、人々は平和の中で、自分達が幸せを満喫できるように、毎日を必死で生きている。
世界で最も有名な暗黒街、オレスファー。
唯一、この街を除いては。
『続いて、次のニュースです。ウデロン領土内であるバレート山脈の上空に出現した飛行物体は、依然として沈黙を続けており、政府の方針としましては……』
人気の無い夕刻の街にひっそりと建つ、小さなダイニングバー。外観は煉瓦造りだが内装は木造のようで、入口を抜けると左手にはカウンターがあり、八席もの黒い椅子が置かれている。
右には二人掛けのテーブルが三つほど置かれ、最奥にはトイレへと続く扉。店内は薄暗く、鳴り響いている音楽も小さい。
『……ウデロン首都のロンダカロンが、都市を覆い尽くすほど大量の泥の中に沈むといった事件もあり、山脈に現れた飛行物体との関連性を……』
「世界も変わったもんだ」
カウンター内に置かれた小さなテレビからは、ニュースを読み上げる女性アナウンサーの声が延々と聞こえてくる。
それを遮り、グラスを拭いていた店主が、目の前のカウンターに腰かける唯一の客に、苦笑混じりの発言を投げかけた。
ここ一ヶ月間、どの国のどの局も、同じ話題を取り上げている。
イセルステと同じ北大陸に位置する大国、ウデロンが領土に持つバレート山脈の上空に、巨大な飛行物体が静止しているとの内容だ。
そして同時に、大国の首都が泥の中へ沈むという怪奇的な事件。死傷者は二万人にも及んでおり、都市の機能は完全に停止。一月が経過した今も復興は望めず、山脈の飛行物体への対処も、絶望的な状況だ。
「ウデロンとエルカニア王国は同盟国だしね、昔ならこんな事件が起こると、すぐにエルカニアから軍が派遣されたものだよ」
店主は続け様にそう言い、拭いていたグラスをカウンターに置くと、中へウイスキーを注ぎ込む。
「テレビもネットも、今回の件で大騒ぎだ。ウデロンの隣国はパニック状態だし、飛行物体とやらに関する情報も得られていない。まったく……どうなっちまうんだろうねぇ」
店主が注いだウイスキーは、自分の為のものだったようだ。一気に飲み干し、そっとグラスをカウンターに置き直す。
「凄ぇ事件なんだろうが、この街には関係ねぇだろう」
すると客の男から、ため息混じりの返答があった。
黒い短髪。瞳は澄んだ青で、耳には金のピアス。肌は色白で、黒のスーツを着ていた。丈の長い黒のコートが椅子の背にかかっており、彼は手に持っていたグラスの中身を飲み干すと、静かに店主の前へ置く。
「確かにね」
すぐに店主は、グラスにウイスキーを注いだ。分量を気にかけてはいないのか、空のロックグラスに並々と注いでいく。
「それで? 今日も仕事かい? サリー」
「ああ。だが、仕事は今日で終わりだ。今から新人がここにやってくる。そいつに俺の仕事を引き継ぎ、俺は引退するさ」
サリーと呼ばれた男は、ウイスキーを注がれたグラスを自身の近くへ引き寄せ、まだ飲まずに置いておく。
「新人?」
「ああ、まだ会ってないが、若者らしい。俺があの場所に運ぶブツも、今回はそいつが用意するそうだ」
「なら、運転するのもその新人ってわけだな。今日はたっぷりと飲めるってわけだ」
「さすがだな、マスター。しかしだ、新人の奴がすぐにやってくる。もうそんなに飲んでる時間はないぞ」
サリーがそう言った矢先、まるでタイミングを見計らったように店内のドアが開かれる。扉の上部に取り付けられた呼び鈴が鳴り響き、彼らの視線をそちらへ集めた。
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