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*  「こうして、二人は、誰も隔てることのできない、深い友情で結ばれ……」  「殿下殿下殿下!」 本をちらちらめくっていたスパイが叫んだ。 「ここには、違うことが書いてありますよ!」 「なんだって? 僕が読み違えたとでも言うのか?」 「なんというか……子どもの頃のカルロスは、もっとずっと、腹黒かったみたいですよ? ……」  ……。 *  ロドリーゴの放った矢が、王の姉の目の上に当たった事件より、以前。  その日もやはり、王宮の庭園に陽光が降り注ぎ、子どもたちの歓声が満ち溢れていた。  太陽めがけて、ギリシア風の柱が立ち並んでいた。太い円柱の影が、黒々と、地面に落ちている。その陰に隠れるようにして、一人の少年が、遊んでいる少年たちを見つめていた。  庭園の主役、王子、カルロスである。  彼は、劣等感に苛まれていた。ついさっき、かけっこで、ビリになったばかりである。恥ずかしさにそのままゴールを走り抜け、この円柱までやってきた。  「ほら、泣かないで」 打ち沈むカルロスの耳に、優しい声が聞こえた。  はっとして、円柱の陰から身を乗り出すと、ロドリーゴが、年下の少年といるのが見えた。カルロスの鼻先を走って、ゴールした子だ。  子どもは、泣いていた。その肩を抱くように、ロドリーゴが慰めている。 「次を頑張ればいいじゃないか。そしたら、お父さんだって、褒めてくれるよ?」 「僕の走り方がかっこ悪いって、父上は言うんだ」 「そんなことはないさ。ただ、そうだな。ちょっと肘を曲げてみたらどうだろう」 「こう?」 少年は、肘を直角に曲げる 「うん、いい具合だ。そしてそのまま、前後に振る」 「こう? こう?」 「そうそう。体を前に倒して」 少年の背中に手を添え、上体を前傾させる。 「それでいい。そのまま、走ってごらん」 「わかった!」 言われたとおりに、上半身を前に傾けて肘を曲げ、少年は、走り始めた。 「うまいね! 君は素質がある」 並んで一緒に走りながら、ロドリーゴが褒めてやっているのが聞こえた。 「さっきはね、肘で勢いをつけるやり方がわからなかったから、負けちゃっただけなんだ。もう、大丈夫。次は、勝てるよ!」 「ありがとう、ロドリーゴ!」 甲高い声で、年少の少年は叫んだ。 「僕は、本当は、走るのが早いんだぞー!」 叫びながら、緑の芝の上を、どこまでも走っていく。 3fa29fea-ec8a-47bc-a998-d1448afa313f  笑いながら、ロドリーゴは、立ち止まった。ぶらぶらと、円柱の方へ歩いてくる。  「ロドリーゴ」 その彼の前へ、カルロスは姿を現した。 「……」 ロドリーゴの顔から笑みが消えた。彼は無言でカルロスを見た。 「僕にも、……そのう、走り方、というものを、教えて欲しい」 「殿下は、十分に美しい形を保っておられます」 「だが、僕は、ビリだった!」 「ビリではありません。集団のどこを走ろうと、殿下のいらっしゃる場所が、先頭です」 「違う!」 いらいらとカルロスは遮った。 「お前は……お前は、走るのが早い。剣も達者だし、学問も秀でている。僕は、お前と、仲良くなりたいんだ。仲良くなって、いろいろ教えてもらいたい」 「恐れながら、殿下」 恭しく、ロドリーゴは頭を下げた。 「私には、そのような技量はありません。殿下にものをお教えするような、だいそれたことは、天が許しません」 「僕がいいと言っている! だいたい、お前は何だ! あの子のような、格下の身分の者には優しくしてやるくせに!」  口をへの字に曲げ、さっきの少年が駆け去った方を睨んだ。 「僕は見てた! あの子には、あんなに親切に、肩を抱いて教えてあげてたじゃないか。なのに、なぜ、僕だけ除け者にするんだ?」 「殿下には、この国の一流の先生方がついていらっしゃいます。私ごときに口出しする隙は、ありません」 「そういうことではない!」 「さきほど殿下は、格下とおっしゃいました。私の家は、王家に比ぶべくもない、塵のような家柄です」 「お前は、ひどい」 とうとう、カルロスは叫んだ。 「僕がこんなに、お前のことを思っているのに!」 「……」  冷静な目で、ロドリーゴが、カルロスを見る。  厳かに、彼は言った。 「殿下。王子というものは、常に孤独に耐えねばなりませぬ」  ……。 *  「ちょっと待て」 プリンスが遮った。  狼狽している。  せわしなく本をめくりながら、尋ねた。 「そんなこと、どこに書いてある?」 「おとなになったカルロスが、言ってますよ。それを、ざっくりまとめると、こうなります」 平然とスパイが答えた。プリンスの手から、本を取り上げた。 「ええと、……あ、ここだ。いいですか? カルロスが、ロドリーゴに言うセリフです」  本を目の高さに上げ、読み上げる。 「 ……お前の仕打ちは酷かった。お前はつれなく(おれ)の心を斥けて、胸のちぎれるような悲しい思いを己にさせたが、己はどうしてもお主から離れることが出来なんだ。(しゅう)である身が、三度臣下のお主に斥けられれば、三度とも、お主の愛を乞い求め、お主に愛を押し附けるために立ち返った。…… 」 「そこは読んだけど……」 「だから、カルロスは、ロドリーゴの放った矢が伯母に当たった時、心の中で密かに喜んだ。彼に変わって王の罰を受ければ、友の愛を勝ち取ることが出来るって」 「ううむ」 プリンスは唸った。 「ううむ」 「そうそう。これは、大人になってからの話ですが、王子はロドリーゴに、二人きりでいるときは、家来と主という茶番を演じるのは止めようと、提案しています。他に人がいる時は、これは、仮面舞踏会だからしょうがないと思おう、って」  スパイは本を読み上げた。 「 ……だが、仮面の陰から己はお主に目で合図し、お主は通りすがりに己の手を握って、互いに心を通わすのだ…… 」 「そうだ! 二人は、兄弟の契を結ぶんだ! 実に感動的な場面だ!」 我を忘れて、プリンスが叫んだ。 「だって、カルロスはもう、一人じゃない……」  スパイが、また、本を顔の前に立てた。声色を変えて、読み分ける。 「 (王子) お主はきっと己のものか。 (ボーサ侯) 永久に。その詞の意味の果まで。 」  「おい、先走るなよ」 プリンスが留めた。スパイの手から、やっとのことで、本を取り返す。 「大きくなった二人は、ともに、王都を離れ、アルカラの大学で学んだ。自由な大学で、カルロスとロドリーゴは、身分を超えた友情を育んだ。国政について語り、治世について、民衆の幸せについて、熱く意見を戦わせる……」  うっとりと、プリンスは両手を組み合わせた。青い目が、少しぼやけて見える。 「アルカラ(だいがく)から、有能なボーサ公は、国外へ留学に出た。彼は、あちこちで有意義に学んだ。マルタ騎士団に入り、勇敢な働きをした。ロドリーゴ・ボーサ侯爵は、立派な騎士だった。ボーサ侯は、フランデルン(ベルギー・フランス・オランダの地方。この頃、オランダが、スペインからの独立を画策していた)に対する、イスパニア(スペイン)の圧政を知った。彼は、独立派の騎士たちと、密かに結んだ。そして、フランデルンの民の幸福を、必ずや実現させようという、気高い志を胸に、スペインへ帰国するんだ。」 「えっ、そんな難しい話になるんですね! ついてけないわけだ」 「お前が、飛ばし読みをしたり、変な解釈をしたりするからだ」 「どこがです? アルカラ(大学)から、ロドリーゴが諸国漫遊の旅に出て、傷心のカルロスは、エリザベトに夢中になった。少なくとも、女に目を向けるようになったわけです。……父の妻だけど」 「……」 プリンスは、スパイを睨んだ。何かいいかけて、やめた。本を取り上げ、首を振った。 「一方、アルカラ(大学)から帰ったカルロスは……」 「国を出ることが許されなかった」  途切れた言葉の先を、スパイが補った。。  プリンスは俯いた。  それはとりもなおさず、今の彼の境遇と同じだったからだ。  カルロスは、父王の猜疑心から(イスパニア)に留め置かれた。  一方、プリンスの方は、父が戦に負けたことにより、母の実家に幽閉されている。 「あなたのような方を、宮殿に閉じ込めるのは、誤ったやり方だと思います」 口ごもりながら、スパイは言った。 「あなたにはきっとできる。何かはわからないけど、でも、きっとできる!」 「僕に何ができるというんだ?」 嘲るように、プリンスが言った。 「この国に閉じ込められ、情報を遮断された、この僕に!」 「だからあなたには、わかるのですね。ドン・カルロスの孤独が」  深い溜め息を、スパイはついた。  ……。 3214b29c-4586-404d-8b28-7cf9274f6a39(シラー『ドン・カルロス』初版) *~*~*~*~*~*~*~*~* 「」内、一行空きで挟まれた部分は、『ドン・カルロス』(シルレル、佐藤通次・訳 岩波書店)からの引用です。
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