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 暗い宮殿の廊下を、一人の青年が歩いてくる。しなやかな長身が、しかし、俯きがちに、何か、詩のようなものを口ずさんでいる。 「  考えても見よ 私は孤児(みなしご)だったのだ  神は心あたたかくも私を王座に連れてきた  私は知らない 父の名がなんと言うかを  それなのに 私は王の息子なのだ 」  冬の夕暮れは早い。斜めに差し込む陽の光が、くるくるとした巻き毛を、金色に浮き上がらせていた。広く秀でた額の下の青い目は、澄んだ輝きの底に、暗い陰を沈ませて見えた。  王の息子……プリンスからは、深い寂寥がにじみ出ていた。同時にその、ぞっとするほどの美しさは、見る者の胸を、深く穿った。  詩が、途絶えた。  孤独な姿が、凄絶なまでに、凛と佇んでいる。すらりとした美貌の青年は、深い哀しみと憂愁に、色濃く縁取られていた。 90671d57-5c8a-4a58-9556-40c48de2f4ef *  彼は、かつて帝王だった男の、息子だった。戦で父は負け、絶海の孤島で死んだ。幼いプリンスは、母の国の宮廷に、引き取られた。母は、その国の、皇女だった。  すぐに母は領土を与えられ、彼をおいて遠くへ去った。そこで母は、情夫を作り、子を生んだ。  皇女の息子である彼は、この国のプリンスでもあった。しかし、彼は、籠の鳥だった。宮廷を出ることは、許されない。  彼は、高貴な囚人だったのだ。  宮廷は、父への憎悪で満ち満ちていた。彼の父は、この国にとっては、侵略者だったからである。皇女である母は、生贄(いけにえ)として、父の元へ嫁がされ、彼を生んだ。  人々は、彼の中に流れる父親の血を警戒した。教育の名目でつけられた家庭教師を初め、多くのの監視役がつけられた。  幼いプリンスは、たったひとりで、父への反感と戦い、己の自我を守らねばならなかった。  彼は、父への敵意の中で、己を隠し、成長していった。 *~*~*~*~*~*~*~*~ 冒頭場面の詩句は、『マリー・ルイーゼ』(塚本哲也、文春)より。
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