4人が本棚に入れています
本棚に追加
5
フェリーペ2世は、息子のカルロスを疑っていた。
父王は、息子の、熱い血と、冷ややかな眼差しを恐れた。
王はまた、自分の白くなった髪に劣等感を抱いていた。若い王妃にふさわしいのは、実は息子の方だったと思うと、たまらない気持ちになった。
「父上。農民共の一揆は、日毎に激しいものとなっております。どうかこの私を、フランデルンの一揆鎮圧に、派遣して下さいませ」
久しぶりに会った息子が、願い出た。
その、若々しく生い茂った髪、シミひとつない白い肌を見ていると、王の心に、どす黒い感情が湧き上がってきた。
「何を、馬鹿な」
王は、一蹴した。
「なぜこの儂が、イスパニアの王たるこの私が、己の精鋭部隊を、お前の支配下に渡さねばならぬのだ。儂は、刃を刺客の手に委ねるようなことはせぬ」
「情けないことを……私にはそのような気持ちは、みじんもございませぬ」
息子は声を詰まらせた。
「フランデルンの民は、私を愛してくれております。必ずや、うまく、暴動を沈めてご覧にいれます。なにとぞ、私を、フランデルンへ……どうぞ、お情けを」
「ならぬ」
「父上。過ぐる年月、私は、ここ、イスパニアで、イスパニアの王子と生まれながら、まるで、よそ者のように暮らしてきました。父上の国で、いつかは自分が治める筈のこの国で、まるで、囚われ人のように暮らして来ました……」
「お前の血は、熱すぎる。その血の暴走を、儂は、恐れている」
「いいえ! いたずらに、23年の月日を重ね、今、私は、血が沸き立っております。お願いでございます。この身を、フランデルンへ! 無益に過ごした今までの月日を、贖わせて下さいませ。天から授かった私の才覚を、なにとぞ、目覚めさせて下さいませ。機会を! 名誉ある働きを、どうぞ、この身に!」
「ならぬといったら、ならぬ」
王は立ち上がった。
「王の怒りに触れまいと思ったら、その言葉は、二度と、繰り返すな!」
……。
(フェリペ2世:作中人物)
*
「なんだ、お前が、ため息なんて」
スパイのため息を、プリンスが聞き咎めた。
何かを振り切るように、スパイは、首を横に振った。
「いいえ。それで、どうなったんです? ロドリーゴは? 彼は、フランデル独立派なんでしょ? フランデルン一揆鎮圧軍の司令官を、カルロスにすることが、希望だったはずです。彼以外の司令官では、ことを、穏便に済ませるのは難しい」
「うん、そこなんだ」
我が意を得たりとばかり、プリンスは頷いた。目が輝き、表情が生き生きとしている。
「フランデルン独立は、王に対する謀叛だ。王も警戒していて、フランデルンとは、連絡を取ることさえできない。慎重に行動する必要がある」
「わかった! それで二人は、うらさびれた僧院で密会するんですね!」
「……なぜだろう。お前が言うと、何か、いやな感じがする。なにかこう、罠にはめられているような?」
「気の所為ですよ」
「カルロスが軍の指揮を取れなかったのは、ロドリーゴにとって、大きな痛手だった。そしてもうひとつ、彼にとって、思いもかけぬことが持ち上がった」
「なんですか?」
「臣下の忠誠に疑問を抱いたフェリペ2世は、心から信じられる臣下が欲しいと希ったんだ。彼が白羽の矢を立てたのは、ロドリーゴ・ボーサ侯だった。王はボーサ侯に、王子の身の回りを探るよう、命じたんだ」
「うっわ」
「彼は、カルロス王子に内緒で、彼の密偵の役を引き受けた」
「なんでまた……。二人は、親友同士なんでしょ?」
「親友だからこそだよ。ロドリーゴは、自分が王子を裏切るなんて、考えたこともなかった。ただ、王の命令は絶対だからね。その上、ロドリーゴの方にも、うまく立ち回れば、王に、フランデルン独立を認めさせることができるかもしれないという、計算が働いた。王を説得して、カルロスを、フランデルンに派遣させることができると、考えたのだ」
「その辺の計略を、ロドリーゴは、カルロスに話すべきでした」
「でも、彼は親友に、どんな小さな心配事も与えたくなかったんだ。それは、気持ちよく眠っている者を叩き起こして、頭上に広がる黒雲を指差すような行為だからね。ロドリーゴはただ、カルロスが目を覚ました時に、うららかな青空を見せてあげたかっただけなんだ。それなのに……」
「いや、違いますね」
きっぱりとスパイは言ってのけた。
「それは、ロドリーゴの嫉妬だと思います。カルロスが、王妃に恋なんか、するからです」
……。
(王妃エリザベト:作中人物)
*
ある臣下が、カルロスに、ロドリーゴが、王の間諜になったと、告げた。彼は、古参の臣下で、その子どもたちも、カルロスに仕えている。信頼のおける人物だった。
「なんで、そんな意地悪を言う」
しかし、カルロスは、この忠臣の言葉を信じなかった。
「どうしてお前は、そうまでして、僕とボーサ侯の仲を裂こうというのだ?」
臣下は顔色を変えた。
「殿下。あまりにひどいおっしゃりようでございます」
「いや、すまない。お前は忠実な廷臣なのに、ひどいことを言った」
「宮廷は今、ボーサ侯のお噂でもちきりです。彼は、王の寵愛を一身に受け、ついに、宰相となりました。今や、その権力は絶大だ、と」
「そうか」
カルロスは寂しそうに俯いた。
「侯爵は、僕を、愛してくれた。自分の魂を大事に思うように、僕のことを、この上もなく、大事に思ってくれていた。……それは、確かなんだ」
「殿下。この私も、確かに見ました。ボーサ侯が、人払いした王の部屋から出てくるのを」
「……そうだよな。彼は、気高い。僕一人より、万人の幸せを望む、度量の深い人間なのだ。彼には、彼の考えがあるのだろう。一方、この僕は、なんて取るに足らない、存在なのだろう。ちっぽけな僕一人を犠牲にして、王に取り入った方が、民の為になろうというもの」
カルロスは、顔を上げた。
すがすがしい表情を浮かべていた。
「彼を恨むのは、筋違いというものだ。ボーサ侯は、民の幸せを望んでおられる。彼の胸は、一人の友を受け容れるには、あまりに広すぎるのだ」
「殿下は、それで、よろしいのでございますか?」
すがりつくような目を、忠臣がカルロスに向けた。
「どうしようもあるまい」
打って変わって弱々しい色が、カルロスの瞳に浮かんだ。
「理想を追求してこそ、ロドリーゴ・ボーサなのだ。彼を、この身一つに引き留めることは、本意ではない。まったくもって、本位でない……」
……。
(カルロス:作中人物)
最初のコメントを投稿しよう!