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6
「あの、殿下」
おずおずと、スパイが声をかけた。
「ええとですね。エーボリ公女はどうなりました? お話の、けっこう前の方から、出てきてるはずですけど」
「エーボリ? 誰だっけ?」
プリンスは、夢から覚めた人のような表情を浮かべた。自分が語る物語の世界に、没頭していたのだ。
スパイは呆れたように頭を振った。
「カルロスを慕っていた女性ですよ! 彼女は、カルロスに恋していたのに、彼の本命が王妃だと知って、王妃を裏切る決意をしたんです!」
「ああ、めんどくさい!」
プリンスは叫んだ。
「女って、本当にめんどくさいな!」
「……」
スパイは絶句した。それに気づかず、プリンスが続ける。
「男同士でいる方が、よっぽど気楽だ」
「……そりゃ、あなたは、男性の中で育ちましたからね」
肩を竦め、スパイは言った。
「なぜかあなたの身の回りには、女官は殆どいない。おかげで、私の生活に、潤いがなくていけません」
「お前の生活なんて、知ったことか!」
「女性は大切です。女性がいるから、物語が動くんです。エーボリ公女は、カルロスと王妃の恋を、王に密告しようという、まさに、キーパーソンなわけですから。……あ。そもそも、カルロスの、不倫の恋はどうなったんです? 義理のお母さんになってしまった、王妃との!」
「不倫!?」
プリンスは、目を剥いた。
「エリザベト王妃は、気高く純潔な女性なんだ! 王を裏切って不倫なんか、するわけないだろ」
「……殿下。あなた、いろいろ騙されてますね」
スパイは心配そうだった。プリンスは、きょとんとして問い返す。
「騙されてる? 誰に?」
「そもそも、気高く純潔な女性なんて、この世に存在しません。それは、幻想です! あと、すぐに失神する女にも、ご用心なさいませ」
「言ってる意味が……」
「私が知っている中で、もっとも気高く純潔なお人は、殿下、あなたです」
真面目な顔をして、スパイは言った。
プリンスは、顔を赤らめた。
「お前の言うことは正しい。……あっ! エーボリ公女の話だぞ? 彼女は、危険だった。カルロス王子の裏切りを、いつ王に密告するか、わかったものじゃない。それで、ボーサ侯は、緊急の処置をとらなければならなかった……」
……。
*
……王妃に会わねば。
カルロスは思った。
彼は、友は信じていたが、父は信じてはいなかった。王妃とは、何も、疚しいことはない。それでも、もし万が一、彼女に迷惑がかかるようなことがあってはいけないと思った。
だが、彼は、孤立無援だった。
王妃との仲を取り持ってくれていたロドリーゴは、今や、王の下僕だった。彼を頼るわけにはいかない。
……早く。
……一刻も早く、王妃に、警告を発せなければ。
「エーボリ公女」
招待もなく、何の約束もなく、いきなり、カルロスは、エーボリ公女の部屋を訪れた。
「君に、お願いがあるんだ」
瞬時に、公女は、カルロスの「お願い」を見抜いた。彼の、王妃への恋心を知っていたからだ。
「いやです。王妃への橋渡しなんかしませからね」
にべもなく彼女は答えた。
「なんで私が!」
「そんな事言わないで。僕にはもう、頼れる人がいないんだ。世界中でたった一人、君を除いて」
うるうると潤んだ瞳で、王子は、公女を見つめる。他の女性だったら、効果は絶大だったろう。だが、時期が悪かった。そして、相手が悪かった。
「そんな目をしたって、無駄ですよ。あなたは私をフったばかりじゃん」
公女は、ふい、と横を向いた。
「ああ、エーボリ。お願いだから、僕を恋していた時の気持ちを、思い出してくれないか? 僕は、どうしても、王妃様に会わなくちゃならないんだ。もし君が、あの時の気持ちを、ほんのちょっとでも蘇らせてくれたなら……」
「ムリです」
「いやいや。他の女ならダメだろうけど、君は、その辺の女とは違うだろ? だから。ねえったら。ほら、こうして跪いてお願いするよ。ひと目でいい。どうか、王妃に会う手引きを……」
「ああ、遅かったか!」
そこへ、どかどかと踏み込んできた男があった。
この国の宰相となったボーサ侯、ロドリーゴだった。近衛兵を2人、連れている。
エーボリ公女は、憤慨した。鼻息荒く叫んだ。
「まあ! 今日は、なんて日でしょう! 婦人の部屋へ、男が二回も、勝手に入ってくるなんて!」
「うるさい、黙れ!」
ロドリーゴは、辺りを見回した。
「他に人はいないな。ぎり、間に合ったってとこか。おい、衛兵。宰相特権をもって命じる。王子を逮捕しろ」
「は?」
衛兵たちは、自分の聞いたことが信じられなかったようだ。直立したまま動こうとしない。
「グズグズするな。王子を、牢獄に隔離するんだ!」
……こんな風に、王妃への恋心を言いふらすとは。
ロドリーゴは憂慮した。
……もしこれが、王の耳に入ったら!
息子だとて、容赦はしなかろう。間違いなく、カルロスは、抹殺される。
「ロドリーゴ……、」
か弱い声で、そのカルロスが呼びかけた。
「しっ、黙って! 人がいます。これ以上、一言だって、余計なことをしゃべってはなりませぬ。……衛兵! 早くしろ! ……王子。腰の剣をお預かりしますぞ。……とっとと動け! 衛兵!」
てきぱきと、ロドリーゴは、兵たちに命じた。
呆然としたまま、カルロスは、部屋から連れ出された。
ロドリーゴは、短刀を引き抜いた。
「さてと。お待ちなさい、エーボリ公女」
逃げ出しかけた公女の肩を、ぐいと掴んで引き止める。
「いや! 何をするの! 放して!」
「放すものか。王子はお前に、何を話した? お前は何を聞いたんだ?」
「な、なにも……」
「嘘をつけ。お前はそれを、誰に話す? ……だが、たった今、王子の話を聞いたばかりだ。誰ともおしゃべりする時間は、なかった」
「そっ、そうよっ! 私は、おしゃべり女じゃないわ! 秘密くらい、守れるわよ!」
「……毒はまだ、唇の上に浮かび上がっていない。だから、入れ物を壊せばいいんだ」
「なっ、何を言ってるの!?」
身の危険を感じ、公女は激しく、身を捩った。
ボーサ侯は、薄く笑った。
「逃げようとしても無駄だ。お前はもう、生きた人と話すことはないのだから」
「ひえーーーっ! やっぱり私を殺す気ね! 放して! 放してったら!」
肩を掴んだ手をひっかき、その顔にツバを吐きかけ、エーボリ公女はひどく暴れた。
ロドリーゴの顔が歪んだ。うつむいて、つぶやく。
「……それは、あまりに卑怯だ。か弱い女性を手にかけるなんて、俺にはできない」
その彼の手に、公女が噛み付いた。
ロドリーゴの腕から、力が抜けた。
「よい。行け」
彼は言った。
悲鳴を上げ、女は、あっという間に逃げ去っていった。
一人残り、ロドリーゴは、天を仰いだ。
「カルロス殿下は、きっとお救い申し上げる! 大丈夫。専制君主たる王をたばかるなど、簡単だ。王の手から友を救い出す為に、俺は……」
その目に冥い陰が落ちた。
「友を救う為なら、なんでもする」
小さな、だが、強い声で、彼はつぶやいた。
……。
*
「ちょっと、それ、公女があんまりかわいそうなんじゃ……」
スパイが叫んだ。
熱に浮かされた人のように、プリンスが唇に指を当てる。
「しっ、黙って! これからが、いいとこなんだ……」
……。
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