6月のはれもよう

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聞こえるのは雨が静かに当たる音だけ 他人の部屋にしては少しばかり落ち着く気がするのは あまり飾り気のない部屋だからだろうか それとも毛足の長い柔らかなマットのせいだろうか 「おまたせ」 部屋の主がドアを開けて私を見る 「はい、タオル」 「別にいいのに」 私は受け取ったタオルで髪を湿らす少しの雨を拭った。 下校時、この時期に傘を忘れた私は当然のように降る梅雨の雨粒を受けて帰るか、受けずに待つかを迷っていた。 三分の思考の末、濡れても特に問題ないと判断を下し私は二三歩、屋根のない道を踏み出したところで クラスメイトの栗橋さんに声をかけられた。 「でもあのときほんとにあのまま帰ろうとしたの?」 「問題ないかと思って」 「風邪、引いちゃうよ?」 「雨にあたって風邪、引いたことなかったから」 私の体はずいぶんと丈夫な方だったから あまり病気をした記憶はなかった。 もう忘れているだけかもしれなかったけれど。 「そうなんだ、私はすぐ熱上がったちゃうから、羨ましいな」 そういう栗橋さんは、見た目に違わず、ずいぶんと病弱に見えた。 色白い肌、細い首筋、手の甲から透けて見える細い血管に、ソプラノの小鳥のような声。 「私は栗橋さんがうらやましい」 「どうして?」 「スタイル、いいし、声も、かわいいし」 「それは私のセリフ、金木さんのほうがスタイルいいよ」 女子にありがちな褒め合い、 いつもはうんざりするその会話だったけれど 私達のそれはほんの少し真実味を感じて心地よかった。 それは雨音だけの静けさが真面目な雰囲気を作り上げていたせいかもしれないし 彼女の入れてくれたミルクティーのほどよい温もりのせいかもしれなかった。 「ねぇ」 「なに?」 「なんで私を傘に入れてくれたの?」 「理由?」 「うん」 「うん……助けたくなったから?」 「疑問系?」 「うまく論理的には説明できない、私文系だから」 ───金木さん! 「え、なに?」 「傘、忘れたの?」 「あー、あ、うん」 雨粒がぶつかり頬垂れるくすぐったさを感じながら 屋根のある昇降口から私に声を掛けてきた栗橋さん 小さくおいでおいでと手を降る仕草がほんの少し可愛らしく、私はついつい彼女に導かれるまま昇降口に戻った。 「私の家、近いから」 「うん」 「そこで傘貸してあげるから」 「うん?」 「そこまで入っていって」 彼女が差し出した騒がしくない花柄の折りたたみ傘は、私と彼女の肩を少し濡らして冷たかったけれど もう一つの方は、逆に暖かかったからまぁいいかなと思った。 「でも栗橋さん、数学もできるじゃない」 彼女が文系なら私は何系だろうと思うぐらいに彼女は優等生だった。 彼女自身が言ったわけでも聞いたわけでもないけれど、噂によると先日の中間試験では国数の分けなく満点に近い点数をとったようである。 「覚えただけよ」 「それは暗記ってこと?」 「うん」 「そうなんだ」 「そんなはずないじゃない」「そのやり方教えて」「それがすごいんじゃない」 彼女を評価する言葉はいくつも思い浮かんだけれど それはなんだか違うなと思い、私は無難な答えを選んだ。 「あ、お茶、なくなっちゃったね」 「あぁ、そうだね」 「おかわり持ってくるね」 「うん、おねがい」 何故か彼女に対しては素直に気持ちを吐き出すことができた。 それも特上きれいな上澄みの部分の気持ちを。 その言葉には遠慮も、思いやりも、ましてや嘘も上辺の言葉もない 彼女が部屋を出ていくと、その部屋は余計に静かになった。 ふとテーブルにおかれたままの2つのカップを眺め、なんとなく彼女の方を手にとった。 中身が空になった小さなティーカップはすでに冷たくなっていたけれど でもほんのり別の温度を感じた。 私は片方の肩を手で触れて目を閉じた。 その温度は、帰り道の途中、ずっとぶつかっていた温かさと同じものだと思った。 ドアが開き彼女が新しく入れてきた紅茶を持ってきてくれた。 白く曇ったガラス製のティーポットを掲げ、彼女は私が持っていたティーカップに紅茶を注いだ。 そこからは甘酸っぱい匂いが立ち上がった。 「今度はレモンティーにしてみたわ」 「うん、これもいい匂い」 私は紅茶には詳しくなかったしどちらかというとジュースや牛乳が好きだった。 でも彼女が淹れてくれた紅茶はそれとは別次元の美味しさを感じた。 おいしいというより、 「ほっとする」 「ほっとする?」 「うん、ほっとする」 まだ十数年の人生で、大人の言うほっとするという感覚をこのとき初めて覚えた。 「栗橋さんは、紅茶、好きなの?」 「好き、なのかな、まぁ日常的に飲んでいるし特別なものじゃないから」 「そうなんだ、私は初めて飲んだ」 「それで、どう?」 「うん、ほっとした」 「そっか」 おいしい、苦い、酸っぱい、甘い、味の表現はいろいろあったしもっと適当な言葉があったかもしれなかったけれど 私はこの状態をそれ以外の言葉で表現できる気がしなかった。 でも彼女はそれに対して何かを思うことはないようだった。 優しげな彼女の眼差しは、伏目がちに手元のカップを見下ろしていた。 (睫毛がながい) 私はなんとはなしに、彼女がティーカップを持ち上げて口に持っていくその行為を眺めていた。 彼女の注意は今はそのティーカップに注がれていて、私に見られていることに気づいていない。 まだ湯気の出るその温度を確かめるようにほんの少し唇に乗せて、それから大丈夫だとわかると、桜色の薄い唇を小さく開いて、ゆっくりと紅茶を注いでいく。 一連の行為を終えてカップをおろした彼女の口から、少しの息が吐かれたのを見て、私はやっと自分がまだレモンティーを飲んでいないのを思い出し、 ティーカップに口をつけた。 思い返せば、それは私のティーカップではなかった。 あ、と気付いたときには私の唇は彼女の唇がのったそこを食んでいた。 特別な味はしなかったけれど 彼女の桜色が私の唇についているように思えて、小指を触れてみた。 「熱かった?」 「ううん、ちょうどいい」 「ちょうど、いい」 呟くように、噛みしめるように、私はその言葉を繰り返した。 「雨、あがったみたいだね」 彼女の言葉に促されるように窓の外を見ると 灰色の雲は、散り散りになり、 夕焼けの赤が青い空に解けて紫がかった奇妙な色をしていた。 私はふと思い立って聞いてみた 「ねぇ、窓開けていい?」 「──別にいいけど?」 密閉型のその窓の鍵を開け、ゆっくり開けると、適度に湿り気を帯びた涼しい風が吹いた。 その風はいろんなジメジメしたものを洗い流すように、部屋の中を駆け巡り出ていった。 「私ね、これ、すきなの」 空の向こうを眺めながら私は心の中がスッキリしていると気付く。 「そうなんだ、気持ちいいの?」 何かに悩んでいたわけではないし何かに迷っていたわけでもない。 でもなぜか、彼女の──栗橋さんの声がもっときれいに聞こえるような気がした。 「気持ちいいよ」 振り返ってみた栗橋さんは、明るい夕日の光を受けて少しだけ輝いているように見えた。 「初夏の風っていうのかな、なんだか始まりそうな予感がするの」 「始まるの?」 「うん、始まるの」 今年の夏は、いつもよりも、ずっとずっと何か大きなきなことを期待させた。 そしてきっとそのきっかけは、ここにあるんだと思う。 そしてそれは、まだ栗橋さんは気づいてないのだろうけれど、 「もうすぐ夏だね」 「そうだね」 「ねぇ栗橋さん」 「なに?金木さん」 だから私は先手を取ることにした。 「気付いてた?そのティーカップ、実は逆なのよ」 「え?」 「私のが栗橋さんので、栗橋さんのが私のカップ」 「────それじゃあ、間接キス、なっちゃったね」 恥ずかしそうにはにかむ栗橋さんに私はまんまと先手を取られた気がした。 ───翌朝 いつもと変わらないと思っていた、そのクラスに入ると、栗橋さんを見つけた。 「金木さん、おはよう」 「おはよう、栗橋さん」 いつもとは違っていた。 もうすぐ今月も終わってしまうけれど 今日の天気は晴だった 天気予報によると梅雨があけるらしい さぁ、一緒に何をしようか 一緒に何ができるだろうか 希望に膨らむ私の頭と同様に 6月はまだ、はれもようだった。
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