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時計台のガイ・フォークスへ向けて
初めて自作の絵が売れた日のことだった。自宅に戻ったジョンは、妻ーーアンジェの顔に広がる真新しい火傷の痕に、買い込んだ食料の袋を床に落とし絶句した。コロリ、と少しだけ転がった林檎とジョンの顔を交互に見て、アンジェは泣きそうな声で呟く。
「…ごめんなさい」
「何があったんだ?」
「ごめんなさい」
「ちゃんと答えろ‼誰が君にそんな酷いことをしたんだ‼」
思わずジョンは怒声を吐き出すが、アンジェは何も答えず、ただ唇を噛んだ。美しかったその顔は、もう見る影もなく焼きただれている。しかし、不思議なことに痛みはないのだ。ひたすらにーー醜いだけだ。
重苦しい沈黙が降りた後、アンジェは立ち尽くすジョンの横を通り過ぎて玄関に降り、寒空の下へとコートも身に着けず駆け出した。その全身には強い決意が滲んでいて、ジョンは引き止めることが出来なかった。
今朝まで2人で使っていたダイニングテーブルの上には、たった一枚のメッセージカードが残っている。
<I love you.>ーー状況を飲み込むこともできないまま、フラフラと食材を拾い集めた後、その書き残しを見て、ようやくジョンは大声で泣いた。訳がわからないなりに、自分がたった一人取り残された事実を噛み締めて。
ーーーー
10年後、ロンドンの空は相変わらずスモッグに汚れている。それでも人々は街の中央美術館に向かい急いでいるのだ。
「ジョン・アレスト画伯の全作品を展示する特別展が開かれる」ーーそれがどれほどの大ニュースか、イングランドの人間ならば理解できない者はいないだろう。貧しい生活を送りながらも絵を描き続け、とうとう成功した努力の画家。しかしその才能は疑いなく本物であると誰もが知っていた。
「あら、今日はアレスト画伯はいらっしゃらないの?」
「ええ。どうしても譲れない用事があるとのことで…」
観覧者たちはジョン・アレストの不在に少し不満そうな顔をしたが、すぐにスタッフに背を向け再び絵画を見つめだす。本当にーー魔法がかかっているような不思議な魅力を、すべての作品が放っていた。
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<その崩れかけた時計台には、長く長く続く螺旋階段がある。>
多くの知識人をうならせる画家ジョン・アレスト。その彼がこんな所にいたら誰もが目を疑うだろう。
ロンドンの街外れにある貧民街。そのさらに奥まった場所にある古ぼけた時計台をジョンは訪れていたのだ。”かつて大規模な火災が起こり、13人の観光客が死んだ。”ーーそんな噂もあるが、真偽の程はわからない。
軋む音を立てて入り口の扉を開けば、無数の蜘蛛の巣やコウモリの糞がジョンを出迎える。ひどい悪臭が鼻をつくが、ジョンは怯まずに時計台の内側に入り込む。
確かにホールの真ん中に頂上が見えないほどの長い螺旋階段がある。ただしボロボロに老朽化しており、登っている途中で崩れたら確実に命を落とすだろう。
…しかし、ジョンは引き返さなかった。この程度で恐れをなすようでは、決して彼女は救えない。
「アンジェ。…君も、かつてこの階段を登ったんだな」
一段一段足を進めるたびに、ぎしり、と嫌な音がする。それでも崩れることはない。なぜなら、この時計台に住まう魔法使いは残忍な性格だから。やってきた玩具を、弄ばずに死なせることなどあり得ない。
<最上階にたどり着いて、扉を開けばもう誰も無事ではいられない。>
30分、もしかしたら1時間以上足を動かしていたかもしれない。ジョンは螺旋階段を登りきり、奥まった場所にある薄暗いの大きな鉄製の扉を見つけ、つばを飲み込んだ。
結論から言えば、扉に鍵はかかっていなかった。重く分厚い扉をやっとの事で押し開け、ジョンは魔法使いーー«Baldr»の住処へと足を踏み入れることとなる。
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そこは時計台に本来存在するはずのないスペースに作られた、その豪奢な部屋は無数の書物が詰まった書庫だった。幅こそ若干狭いが、果てしなく高く本棚が続いている。真っ赤な絨毯に、黄金の足を持つ一脚の椅子だけが床に置かれていて、そこに白シャツと黒いベストを着た一人の少年ーー見た目だけは、ほんの12歳程度に見えたが、実際の年齢はわからないーーが腰掛けていた。
「ノックもしないとは、今日の客はとんだ無礼者だな。…”ジョン・アレスト”。へぇ、一端に画伯と呼ばれているのか?なんとも生意気な坊やだ」
«Baldr»ーー目の前の魔法使いと同名の、北欧神話に登場する光の神・バルドルは最も賢く、美しい存在であったとされる。しかし、目の前の魔法使いの顔は、不気味な微笑みをたたえたガイ・フォークスの面に隠されて見ることは叶わない。
<魔法使いに見つかった時、願いを叶えてもらうには、命より大事な代償を払わなければならない。>
流石に顔をこわばらせるジョンとは対象的に、座ったまま足をぷらぷらと動かして。くるくると両手の指で遊びながら、«Baldr»はこともなげに尋ねた。
「で?お前は<過去>と<未来>。どっちにイタズラするつもり?」
「…私は<過去>を変えるためにここまで来た。無論、どんな代償も支払う覚悟だ」
…きっとその時、仮面の下で魔法使いは酷薄な笑みを浮かべたに違いない。
「オッケー、いい覚悟だね。じゃあ…お前の右目を頂戴よ。画家って遠近感をつかめなくなったら終わりだって聞いたことがあるから。お前が唯一持って生まれた才能、ドブに捨ててみてよ。そこまでできるなら…サービスで不老不死も付けてあげるからさ」
<魔法使いは、願いを叶えた人間を死ねないようにする。そして行き場をなくした人間たちは、最後には再び彼のもとを訪れ、実験材料となり果てるのだ。>
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魔法使いが差し出した羊皮紙にサインをし、契約を結ぶ。…瞬間、意識が途切れる。
そして<過去>に戻った時、若かりし頃のジョンは路地裏のゴミ捨て場で寝そべっていた。見覚えがある景色だ。<現在>のジョンが富裕層が暮らす地域とは、明らかに違う。ーーだが、道に迷うことはなかった。記憶をたぐりながらたどり着いた、かつての自宅だった小屋の扉を開けた瞬間。アンジェの美しい顔を見て、ジョンは涙を流しそうになった。
「おかえりなさい、早かったのね。…ジョン、どうしたの?」
どうやらまだ、右目は景色を映してくれている。そのことにジョンは心から感謝した。アンジェの顔には火傷の痕はおろか、シミひとつ無い。真っ白な陶器のような肌は滑らかで、プラチナブロンドのロングヘアはキラキラと夢のように輝く。彼女のすべてが、ジョンの自慢だった。掛け値なしの優しさもいつだってジョンの貧しさに荒んだ心を癒やしてくれた。
アンジェの問いかけには答えず、ジョンは愛する妻に歩み寄る。きつく抱きしめたかったけれど、壊してしまいそうで努めて優しくハグをした。
「戻ってきたんだ。君を…助けるために」
その日の夕食は、アンジェが作ったホワイトシチュー。<現在>の世界では高級なコースディナーをよく食べるが、ジョンはその田舎風の味付けのシチューを何よりも美味しいと感じた。
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アンジェとの再会のあと、少しだけジョンは現状に甘えた。この幸せなかつての夫婦の時間を、もっと味わっていたかったのだ。だが、もう4日が過ぎている。あの日ーーアンジェと決別した19XX年12月20日が近づいてきて、とうとう夢から覚めなければならなくなった。
その日は少しだけ雨が降っていた。ジョンはアンジェと2人で、大通りを傘を差しながら並んで歩く。
「忘れないでほしんだ、アンジェ。…私は、君といられるだけで幸せなんだよ」
「ふふ、どうしたの?今更」
「君がいてくれれば、私はすべてを捨てることができる。今から、それを証明するよ。ーー絵を、自分から切り離す。どうか考えすぎないで欲しい」
言うが早いか、石炭を運ぶ大型の貨物車がやってきたのを見計らい、ジョンは利き腕ーー右腕を車道に突き出す。それはあっという間の出来事だった。<現在>の世界で天才と称賛される画伯であるジョンの腕が、圧倒的な力の前に、ありえない方向に曲がってしまう。周囲からほどばしる悲鳴。激痛にジョンは歩道に倒れ込み、濡れたレンガの上に転がった。
「どうして!?ーージョン。ジョン!絵で成功したいって、それが小さいときからの夢だって!」
あまりに突発的かつ残酷な光景に、アンジェがジョンの体に縋り付いて泣きじゃくる。安心させようと、ジョンは痛みを堪えながらも笑ってみせた。もう自分にできることはない。ただ、アンジェが道を誤らぬように信じることだけだった。
(ーー君が私の画家としての名声のために«Baldr»と契約したなら。)
(ーー私の望みは、君の犠牲を無に帰すことだ。どうか、もう私のために身を砕かないで。)
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「運命は書き換わったのだろうか」――<現在>の時計台に引き戻され、絨毯の上で意識を取り戻した時、ジョンは真っ先に右腕の状態を確認した。動く。アンジェが更に魔法使いに願って<未来>を書き換えてしまったのかと、反射的に絶望しかけた時だった。
…顔面を、«Baldr»に思いっきり靴の裏で踏みつけられた。
「アンジェだっけ?顔の火傷と引き換えに、お前の夢を叶えて不老不死になった女。…散々さまよって、僕の所にやってきてさ。いい実験材料だったのに、つまんない」
「妻は――アンジェは無事なのか?」
「残念ながら、あいつの行動が変わったせいで、契約書が破棄される。――ちなみにお前が世界に与えた影響は、この時計台を出た時に具現化するから、乞うご期待。綺麗な奥さんが貧乏な家で待ってますよ~」
酷く屈辱的な姿勢ではある。それでも、ジョンは笑った。アンジェが幸せに生き、一生を終えることができることだけが、望みだった。それ以外のことなど、どうでもいい。
「でも、お前が今持っている記憶は消えないよ。代償、それに不老不死だって見逃すものか。自慢の奥さんは無事でも、片目が見えなくて腕もひしゃげてる。才能以前に、趣味レベルの絵だって書けやしない。そんでもって不老不死で、周囲から浮いて居場所も無くなっていくんだ。ははっ、ホントかわいそうな人生だよね?」
ぐりぐり、と靴を動かして、«Baldr»は今度こそ声を上げて爆笑した。そして、最後にジョンの横顔に蹴りを入れて、吐き捨てた。
「はい、お望みは叶ったから、出てっていいよ。生まれ変わった世界で、さんざん絶望した後でここに戻ってくればいい。思いっきりいじめてやるからさぁ」
ジョンは何も答えず立ち上がり、醜悪な心を持った魔法使いを一瞥することもなく扉を押し開ける。彼は、新たに自分に課せられた過酷な運命と戦うつもりだった。一欠片の恐れすら抱かずに、ただ――宣言した。
「私は、不死の呪いを必ず解いてみせる。――アンジェが以前言ったのさ。”貴方は画家なのに、時々すごくロジカルに、物事を考えるのね”とね。彼女が認めた頭脳を、ここで活かす。«Ange»ーーアンジェは、天使に由来する名前だ。魔法使いの呪いごときに、天使のお墨付きをもらった人間が敗れる訳にはいかない」
«Baldr»の書庫を後にし、螺旋階段を降りる道すがら、ジョンは少しだけ賛美歌を歌った。どうやら時計台の扉を開いた時、今動かしている体は失われるらしい。それから自分がどの様になるのか、全く想像はできないが、ひたすらに前を向いて歩いた。
そして、時計台ーーあるいは<現在>の世界に別れを告げる時が来た。最下の出口、たどり着いた目の前の扉を、ジョンは開く。瞬間、すべてがバラバラになって、書き換わった10年前の時点で、再構築される。
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大通りの接触事故が発生してから、半月。アンジェは右腕の自由と、何故か視力までも失った夫を病院に迎えに行っていた。今日はジョンが退院する日なのだ。病室までの廊下を1人歩きながら、呟く。
「…あなたが夢を諦めて幸せだなんて、言ったらあんまりよね」
絵の道を完全に絶たれたジョン。「なにか思惑があるようだとはいえ、後からことの重大さに気付き、打ちひしがれるのではないか」ーー並々ならぬ不安を抱えながら毎日見舞いに行くアンジェに、ベッドの上でジョンはいつだって笑いかけてくれた。彼は以前は恥ずかしがって口にしなかった「幸せだ」・「愛している」という言葉を何度も言ってくれるようになり、2人の会話を一層大事にしてくれるようにもなった。
「ジョン。あなたが側にいてくれれば、貧しくても、どんなに苦しくても生きていけるって気付いたわ」
「ーー私もだよ、アンジェ」
不意に背後から聞こえた声に、アンジェは驚いて振り向く。見れば、男性トイレから眼帯と三角巾を身に着けたジョンが出てくるところだった。
何だかバツが悪くて顔を背けたアンジェに、唯一<塗り替わる前のこと>を覚えているジョンは笑いかける。10年前の体は若々しく、多少の障害があっても十分に快適だ。
「そんな顔をしないでくれ。…苦労をかけたのは私の方だよ。いつも絵のモデルになってくれてありがとう。最高の題材を描くことができた。もう思い残すことはないよ」
ジョンは、まだアンジェに自分が抱えることとなった永遠の命については説明していなかった。黙って消えてしまうべきかとも考えたが、すぐに辞めた。愛する人に訳もなく去られる辛さは身に染みている。
「家に帰ったら、旅の準備をしたいんだ。突き止めなければいけないことがあるから。ーーもちろん理由も説明するよ。すぐには信じられないだろうし、長い話になるだろうけれど」
(ーーアンジェ。君の気持ちはわかっているから、不安じゃないんだ。不老不死になっても、君だけは私を受け入れてくれる。)
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時計台の書庫に一人残された«Baldr»は、ジョンの去り際の宣戦布告に何を思ったか。ガイ・フォークスの仮面に隠れた表情は未だ見えない。
「ジョン・アレスト。お前はまだ知らないんだね。だからヒトなんかを心から信じる。ーー"愚か者"め!」
孤独な魔法使いが吼えた途端に、書庫は地震が起きたかの様に大きく揺れた。バラバラと無数の本が落下し、床へと降り注ぐ。
かつて醜い人間だった«Baldr»が、仮面の魔法使いとなった理由。病で崩れた顔をした幼い«Baldr»は、自身を地下に幽閉した上で虐待した集落の住民を、この時計台に封じ込め、焼き殺したのだ。ーー己もまた、不老不死となる代償を支払って。
「欠落を抱えて生き永らえる苦しみを、お前も味わえ。…逃しはしない」
«"時計台のガイ・フォークスへ向けて"とは、不老不死の呪いに立ち向かった世紀の魔術師ジョン・アレストと妻アンジェ・アレストの手記。ーーこの物語はその序章である。»
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