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素敵な出会い
クリスマスも間近な頃でした。
でもこのお話は、クリスマスのことではありません。
玲奈の彼氏、大悟が、バイト代が入ったのでディナーをご馳走してくれるということです。玲奈は、そんなに頑張らなくって良いのにと言ったのですが、こんな時、男子というものは一途に思いこんじゃうものなのです。結局、玲奈は大悟に押し切られて、二人は食事に出掛けることになりました。
「はい、大悟」
「本当に?、ありがとう。」
大悟に手渡されたのは、クリスマスに飾り付けられた贈物の紙袋。
「今、中を見ても良いかい?」
「うふふ、どうぞ。」
開けてみると手作りの毛糸の手袋が出て来ました。
「へえ、玲奈ちゃん、手編みが出来るんだ。」
「コノオ、馬鹿にしてるな。でも、ずいぶん手伝ってもらったんだけどね。それよりこれ見て、凄いでしょ。」
玲奈が持っていた手提げ袋を開いて見せると、そこには見るからに手の込んだ手編みのショールが現れました。
「へえ、本当に、これも玲奈ちゃんが作ったの?」
「うふふ、そうよ・・・なんて冗談、これは母さんよ。もう辞めちゃったけど、手編み教室を開いてたぐらいの腕前だからね。」
「で、これは誰に、ちょっと俺の趣味には。」
「アハハハ、それって本気で?、ちょうどお家の近くを通るから、あげてきてって頼まれたのよ。これは、お祖母ちゃんへのクリスマスプレゼント。」
「お祖母ちゃんへのね、ん~孝行な孫娘、イケてるじゃん。うちの祖母ちゃんなんかクリスマスなんていう感じじゃないからな。」
「そんなことないわよ、大悟もプレゼントすれば喜ぶわよ。」
「やだよ、そんなことしてクラスの奴等にバレたら何言われるかわかんないもん。”おばあ好き大ちゃん”とか言われるかもね。」
「アハハハ、面白いよそれ、やってみようか。」
「何馬鹿なこと言ってるんだよ。取り合えずそれ届けに行くんだろ、早く持って行ってSモールのイルミネーション見に行こうよ。そこのRブティックの向かいにあるカフェ、オリジナルのティラミスがあるんだ、これがまた超美味でさ。」
甘い物好きの大悟のこだわりは、通っている大学のクラスでも、生徒の皆に知れ渡っているくらいです。ひょろっとした背の高い身体つき、ボサッとした髪型にふち眼鏡、決して格好良くはないのですが、そんな女子っぽいところもあって、玲奈はなんとなくそんなユニークな人となりを気に入ってるのでした。
そうして2人は、お祖母さんの家に到着し、玲奈は大悟を誘ってみます。
「大悟もお祖母ちゃん宅に行く?」
「ん~やめとく、俺、人様の家に入ると凄く緊張しちゃうんだよ。そんなに時間かからないだろ?、待ってるから。」
「分かった、じゃあ行ってくる。」
玲奈は生け垣にある出入口の扉を開け、芝生の庭を通って大理石のポーチに上がり、玄関の呼び鈴を押しました。すると、白いオーク板張りのお洒落な扉がすーと開きます。
「まあ久しぶり、良く来たね。寒いから早く中にお入んなさい。」
「こんにちは、お祖母ちゃん、元気そうね、お邪魔します。」
そんな言葉を交わしているのを聞きながらです、寒空の中、大悟は生け垣の傍で携帯電話の画面を眺めていました。
『ん、なんだ、後期試験終了バンザイ!、クリスマスパーティーやるぞ、参加費男子4千円、女子2千5百円、すねかじり通りのイタ飯屋、トラットリアサンマルコに集合ってか。なんだ、今年も懲りずにやるんだ。あーあ、負け組の奴等の淋しい飲み会なんだよな。特に去年は、酷かった。なんせ野郎15人に、それなり娘2人での驚愕の飲み会だったからな。しかしねえ、自然界の摂理とは不思議なもんだね。少数に引き寄せられる多数の原理、とはよく言ったもんだ。普段見向きもしない2人にあの群がりようは、なんとも悲しき雄の習性だね。聞くところ、あの女子2人はそれを狙ってとんでもない情報を流していたらしいもんな。“これはクリスマスに予定の無い者が申し込んで来るパーティーだよ。”ってふれ回ってたらしい。私、彼氏がいないんですって宣言するようなもんだから、そりゃあ女の子なら普通プライドがあるんで申し込まないよな。姫扱いされたい欲望で、よくそこまでするもんだよ。とにかく今年、俺は勝ち組。玲奈ちゃんと楽しいクリスマスイヴを過ごすってことになって良かったよ。』
すると、何処からか大悟を呼んでいる声がしています。
“大悟!、聞こえてる、大悟!”
慌てて大悟は、携帯電話の画面をクローズします。
「えっ?、ああ、もう、用件は終わったのかい。」
「ねえ、ちょっとだけお祖母ちゃん宅に寄って行かない?。久し振りの若いお客さんだからお喋りしたいみたいなのよ。」
「ええー!、俺、お年寄りの人と話すことなんか出来っこないよ。」
「そうだよね、私も何話して良いかわかんないと思うよって言ったんだけどね、それにこの後の予定もあるし。」
「そうそう。」
「でもね、手作りのお菓子があるから、食べて行くだけでも良いよ。お祖母ちゃん、昔、ヘンデル洋菓子店で働いていたからね。」
「ムムム、超メジャー老舗店じゃん。それって白金のセルブマダム御用達、最高級洋菓子だよ。噂では知ってるけど、食ったことないな。」
「良く知ってるわね、さすが甘い物好きの大悟。これはって思うくらい気品のある美味しさなのよね。」
「ムム、本当に?・・・どうしようかな。」
「フフフ、気がそそられてるな。じゃあちょっとだけ寄って行こうよ。お祖母ちゃん、凄く喜ぶし。」
ということで、大悟の甘党心を見事に誘惑した?菓子の魅力によって、玲奈の祖母の家でお茶をいただくこととなりました。
“お祖母ちゃん、連れてきたよ。”
“まあ、いらっしゃい。今支度で手が離せないから、玲奈ちゃん居間にお通ししてちょうだいね。それから、こっちに来て手伝ってくれる。”
「ハーイ。大悟、さああがって、あがって。」
「あ、ああ」“おじゃまいたしますう。”
大悟は緊張気味に靴を脱いで、玄関マットにあるスリッパに履き換えると、玲奈は大悟の外履きを反対向きにして揃えてあげました。
「あっ、ごめん。」
「良いから、良いから。」
玲奈の案内でダイニングのある洋間に通された大悟は、背もたれに刺繍されたクッションのあるアンティークな椅子に座らされました。
『うわー、なんだこの部屋、イギリスのテレビドラマに出て来る探偵おばさんのお茶の部屋みたいだな。“ねえマリア、チェスター通りで起こったエセックス公爵夫人の殺人事件、真犯人はエムル街の古本屋の店主だったのよ”、なんてね、アハハハ、俺ってスゲー想像力あるな。壁にかけてある絵も昔見たことがあるな、歴史の教科書に載ってたやつだよ。』
その傍らには2メートル程もあろうか、中世ヨーロッパを意識した様な意匠彫りでこしらえてある振り子時計が置かれてあります。
大悟は目をキョロキョロしながら部屋の様子を見回しています。すると玲奈がお菓子を持ってやって来ました。
「珍しい物ばかりでしょう、私がちっちゃい時、此処をおとぎの城って呼んでたのよ。はい、これがお祖母ちゃん特製のケーキ、ハプスブルク家御用達の店で作ってた宮廷菓子を再現しましたとさ。」
確かに言われた通り、巷の洋菓子店でもまず見たこともない深い趣を感じるものです。
「へえ、すげーな、本格的なものってこんなにシブイ感じなんだ。チェーン店の菓子とは全然違うよね。」
「それではこのウイーン直輸入の白磁のプレートに取り分けま~す。」
すると、奥の台所からお祖母さんの声がしてきました。
「取り分けが済んだら今度はお茶の器達をお願いね。」
「ハーイ。」
大悟は肘をテーブルに突いて、玲奈が取り分ける様子を眺めています。
美しい深みのある乳白色で質感のある陶器の受け皿に、今まで見たことの無い洋菓子を盛りつけると、そこにはひとつの美術品が完成しました。確かに、バロック時代の西洋の王侯貴族達が菓子と茶に興じていたのが分るような気がします。そうして台所に再び行った玲奈は、器と茶の入ったポットを持って戻ってきました。
「それじゃあ戴きましょうね。」
そしてその後ろからお祖母さんが可愛らしいクリスマスローズを並べた花皿を持って来ていました。
# ガターン
突然、硬いものが鋭く床に当たった音が鳴ったのです。
“きゃあ、お祖母ちゃん、大丈夫、怪我してない?”
持っていた花皿を落としてしまったのです。
「ごめんなさい!、ごめんなさい!、落としちゃった、恥ずかしい!」
「お皿が割れてる!、水が流れてる!、雑巾持ってくるわね。お祖母ちゃん、危ないからそのままでいてよ!大悟、割れたお皿のかけらを集めてくれる。」
「う、うん。」
茫然と見ていた大悟は突然言われたためでしょう、何の躊躇なく思わず立ち上がったのでした。それからは、お祖母さんの周りにある陶器の欠片を集めていきます。
ようやく、ひと騒動が終わりました。
「ごめんなさいね、すみませんね。」
お祖母さんは、起こした失態をまだ悔やんでいるようです。
「お祖母ちゃん、元気出して、ねえ全然平気よね。」
「そうそう、それよりこれ頂いても良いですか。ご馳走のお預けくらっている犬みたいで我慢出来なくなって来ました。」
「アハハハ、そうだよね、お祖母ちゃん食べても良いでしょう。」
「もちろんよ、さあさあ召し上がって。」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。」
“いただきま~す。”
こうして玲奈がみんなの間を上手く取り持つことで、お茶会は会話も弾み、楽しく過ごしていきました。
その翌日の朝のことです。
“玲奈ちゃん、起きてる?、お祖母ちゃんから電話よ。”
「はーい。」
突然の電話に、玲奈は、お祖母さんが昨日のことをまだ気にしているのかと思っていました。
“ええ、今日はその後授業も無いから行けるわよ。うん、分かった、それじゃあ待っててね。”
「お祖母ちゃん、こんな朝早く何て言ってきたの?」
「なんだかね、折り入ってお話があるんだって、それも今日じゃないと駄目だって、一方的なのよ。」
「そうなの、なんだろね。身体の具合が悪いなら私にかけるだろうから、玲奈ちゃんになら良いことかも知れないわよ。」
「本当に?、取り合えず学校の帰りに寄って良い?、帰りがちょっと遅くなるけど。」
「ええ、行ってらっしゃい。」
そうして、玲奈は学校の帰りにお祖母さんの家に寄ってみます。ドアホンのボタンを押すとスピーカーから今までそんなことなかった内容の返事が返って来ます。
“玲奈ちゃん、お願いだけど玄関は開けてあるから自分で入って来てちょうだい。それで下駄履きのところで待っててくれる。”
“どうしたの、何か具合でも悪いの、お医者さん呼んで来ようか。”
“いいえ、そうじゃないの、声も元気でしょう。とにかく入ったら待っててくれる。”
確かに、疲れているような弱々しい感じの声には聞こえません。
『でも、今朝の電話からお祖母さんの声が少しいつもと違うような気がする。』
「こんにちわ、今、入ったわよ。」
家の中の様子は昨日と同じだよな、と玲奈は見回しています。すると、奥のダイニングの洋間から確かにいつもより張りのある声がして来ました。
「いらっしゃい、それで玲奈ちゃん、お願いがあるの。これからこちらに入って来てもらって、そして、絶対驚かないって約束してくれる。」
「えっ、どうして、やっぱり具合が悪いの、大丈夫?」
「とにかく、入っても驚かないで。」
玲奈は、凄く不安になっていましたが、ブーツを脱いで上がり込んだのです。そして廊下を歩いて、洋間の入口のノブをひねり引き開けると室内が見えました。
『えっ?、えっ?』
心臓が飛び出るかと思うほどの理解できない驚きです。
「あなた・・・誰?」
それは、居間のソファーに見たこともない女の子が座っています。でも確かに先程聞こえてきた声は、お祖母さんです。この部屋に隠れるような所も無いし、驚かせる為に自分を呼んでくれたとは思えません。玲奈は、立ち尽くしたままで、入り口から呆然と目の前の信じられない光景を見つめていました。すると、その少女も同じ様に玲奈を不安げに見つめ、恐る恐る喋り出しました。
「朝起きたらこうなってたのよ、私も信じられないの、だけど絢子なのよ、本当にそうなの。」
お祖母さんの名前を名乗るその少女は、傍にあるテーブルに置かれてある数枚の紙のシートを取って玲奈に向かって差し出しました。見るとそれは、セピア色に変色してしまった古い写真です。
「良く見えないから、ちょっとそっちに行って良い?」
「もちろんよ、確かめてくれる。」
恐る恐る部屋に入って、テーブルの写真をしげしげと見つめました。
『あっ、全部この人が写ってる!、それも昔の人の服装だし、この景色、車道が未舗装、板塀の垣根、木の電柱・・何これ、お母さんの子供の頃の写真で見たことある。』
そして、その中の一枚には記述がありました。
~モデル、風間絢子嬢~
『お祖母ちゃんの名前だ!、それじゃあ。』
玲奈は、身体の力、いえセピア色の写真のように自意識の色が抜けてしまいました。そしてそのまま床にしゃがみ込んでしまったのです。何が何だか分からず頭の中が混乱してしまっています。
「驚かしてごめんなさい、そのままでいいから私の話を聞いてちょうだい。」
そう言われなくても、玲奈はへたり込んだまます。
「実は、玲奈ちゃんの彼氏、大悟君なのよ。」
「えっ、大悟がどうかしたの?」
大悟の名前が出ると、動転しているところに水をかけられたように、一瞬頭が醒めました。
「ある人にソックリだったのよ。」
「ある人って?」
“それが・・・もうずっと昔の・・”
その少女は、少し打ち明けにくそうです。
「もう、言っちゃうわ・・・60年も前になるわ、その時に出会った人よ。昨日初めて大吾君の姿を見た時、あまりにも似ているんで、驚いて花皿を落としてしまったのよ。」
「えっ、そうなの。それじゃあ貴女はやっぱりお祖母ちゃんなの。」
「アハハハハ、だからさっきから言ってるじゃないの。玲奈ちゃんの事なら何でも知ってるわよ。5つの時ディズニーランドに連れて行ってあげたわね。メイン通りの床にいっぱい落書きしちゃたでしょう。謝るのに大変だったんだから。小学校の時、好きだった海斗君が転校するからって貰った下敷き、ま~だ持ってるし。中学生の時は、皆世ちゃんの誕生会で勝手にお母さんのカメオのペンダント着けて行って、後で凄く怒られちゃったよね。」
少女の言っていることは本当でした。玲奈は、すっかりと頭が現実に戻ったようです。
「うそぉ、本当にお祖母ちゃんなのね、いったいいくつになったの?」
「ウフフ、15歳よ。」
「ええっ!、15歳?、若い!、羨ましい!」
# アハハハハ、アハハハハ 、アハハハハ
2人は、暫く笑っていました。
そしてようやく、この突然のミラクルな出来事を受け入れようと心が決ったようです。
「でもどうして若返っちゃったの。」
そう尋ねると、絢子は手元に持っていた西陣織の巾着をテーブルの上に置きます。そして大変大切なものを扱うように少しずつ紐を緩め開けると、中から何かを取り出しました。それは、ひとつの小さな木片です。
「これは何?」
「これはお札なんだけど、還りのお札と謂われているものなの。」
「還りの札?」
「私は、このお札を清貴さんに渡すはずだったの。」
「清貴さん?、さっきお祖母ちゃんが・・・んーなんか若返って、私より年下になちゃったから凄く言ってて違和感があるんだけど。」
「本当に?、凄く嬉しいわ、ずっとこのまま15歳のおばあちゃんで居たいわ。」
「それって冗談抜きで、間違いなく少女漫画の題名だわね。」
# キャハハハハ
「それじゃあ、絢ちゃんでお願い。」
「了解で~す、で、清貴さんって、さっき絢ちゃんが言ってた大悟君に似ている人よね。どういう人?」
「軍人さんよ、その頃は大東亜戦争の真っ只中だったからね。」
「大東亜、それって日本がアメリカと戦争したというやつね。」
「そうそう。」
「こりゃまた随分昔の事なんだね。」
「だって私、15歳よ。」
「あっ、そうか、ひょっとしてその人は、絢ちゃんの彼氏なの。」
「それがね、残念だけどそんなんじゃないのよね。当時は、男女が付き合うなんてもっての外、亡くなった旦那様とはお見合い結婚でしょう。今の若い人達の恋愛が羨ましいわぁ。」
「正直なところ全然訳わかんないんだけどね。でもどうして絢ちゃんに若返ったのかな。その人との事が関係しているんでしょう?」
「そうそう、そうよね、自分でもツジツマを合わせるのに随分考えたからね。じゃあ、まず何故若返ったのか話をするね。それは、夜中の出来事だったのよ。」
絢子が大悟に出会ったことで驚いたのは、お札にまつわる言い伝えがあり、その通りのことが起こったからでした。還りとは、元に戻ること。還暦の60年目に同じ事が起こると言われていたのでした。けれどもこれくらいの事であれば、たまたまの偶然だとも考えられます。なので絢子は、お札を持っててよかった、お陰様で今日そっくりな人に会わせてくれたんだ、幸せなことだったなと思って、気持ち良くその晩眠りについたのでした。
「そうしたらね、出たのよ。」
「え?、何が、清貴さんの幽霊とかじゃないでしょうね。やだ~、私、そういう超自然的なの駄目なんだよな。」
「全然違うわよ、もっとかわいらしいものよ。兎の姿だったわ、それも白くてふわふわなのよ。」
~~~~~~~~~
“絢子さん、絢子さん、起きてますか?”
その兎が声をかけてくるので、当然絢子は夢の中なんだと思っています。
「兎さん、貴方はどなたですか?」
“私は、ご主人様から遣わされた者なんですよ。この姿は仮のもので、私はこの人の世界では何も無いのですが、絢子さんには兎に見えるのですね。ところで私の役目は、絢子さんの望みを叶えにやって来ました。”
~~~~~~~~~
「望み?」
「そう、このお札の言い伝えに関わる私の体験なのよ、それはね・・・。」
~~~~~~~~~
60年前、日本軍はアメリカ軍の勢いにもう為す術が無いところまできていました。アメリカ軍の長距離爆撃機による国土への空襲が本格化すると、産業都市の住民は逃れるため、空襲の目標から外れると思われる地方への疎開が始まっていました。絢子も母方の親類を頼って、九州の鹿児島の田舎に疎開し、農家の手伝いをしていました。そんな時、村の庄屋の屋敷に兵隊がやってきて、暫く寝泊まりすることになったということで、兵隊達の衣食の賄いを手伝いに行くことになったのです。この頃、南方の日本軍の占領地を次々に陥落していくアメリカ軍が、ついに日本本土に迫っていました。そのため本土決戦に備え、まず沖縄を死守すべく当地へ軍を集中させているとの噂が流れていました。
“近々司令部より出動の命令が下るまで、これからこちらでお世話になる者達であります。これも皇国の勝利の為、宜しく願います。右から加藤、磯部、陣内、黒田、長谷部、そして自分、城田の計6名であります。諸君、くれぐれも粗相の無いように。”
隊長の挨拶に、部下達も応じて一礼します。
“皇国の名に恥無い行いをいたします。”
“それでは一同、敬礼!”
“宜しくお願いします。”
この兵隊達は、鹿児島の海軍特命部隊へ配属になったということでした。そこで来るべき所定の任務にあたるために訓練を行うとのことです。訓練は日中で、明け方に出発しそして日が暮れる頃には帰って来きます。夜に訓練をしないのは、敵に基地の場所を探知されないためです。彼らがいったいどの様な訓練をしているのか、特命の任務であれば当然極秘事項とされ知らされることはなく、また訓練について一部ことでさえもを口に出すことは、重罰に処されるとの厳しいものでした。兵隊達の訓練期間中、手伝いの女達は、風呂と夕食の賄いと翌日の朝食や弁当の準備をすることなのです。
翌日はあいにくの天気で、凍えるような寒さに小雨が降っていました。兵隊達は朝早く庄屋を雨具も無く出発します。
“それでは、行ってまいります。”
すると庄屋の女将が、いくら身体を鍛えているとはいえ、余りにも気の毒に思い、兵隊達に雨具の笠と蓑を奨めました。
「こんな寒い中の雨ですので、差し支えなければこちらをお持ち下さい。」
兵隊達は少し戸惑って、互いに顔を見合わせてお互いの様子を伺っていました。しかしやがてその中の1人が返事をします。
「お気遣い有難うございます。それではお借りしてまいります。」
黒田という兵隊でした。
そうして兵隊達は、笠と蓑を身につけると皆に挨拶し、屋敷を出発していきました。絢子が手伝いに来ているのは、昼を過ぎてからです。
#“よその村でも兵隊さん達が泊まり込んでいるらしいよ。”“敵国アメリカがそろそろ来るのかね。”“兵隊さんがやっつけてくれるよ。”
そんなことを皆で喋りながら、忙しく賄いの準備をしていると、直ぐに日が暮れて行きます。
そうして、ようやく雨もあがり、嘘のように夜空に煌々と月が見える頃になって、兵隊達は寒空の中での厳しい訓練に疲れ果ててて帰ってきます。そして朝と同様に庄屋の女将が出迎えます。
“さあさあこの寒い中、お勤めご苦労様です。お風呂が湧いておりますのでお入り下さい。”
“ただ今帰りました、笠と蓑をお貸し戴き誠に有難うございます。ところで、お願いがあります。”
しばらくして、兵隊の願い事を聞いた女将が、慌てて手伝いの者達のところに来ました。
“誰か、綺麗な布切れと桶にぬるま湯を張って持って来てちょうだい。兵隊さんのお1人の傷が酷くて、洗って手当てしてあげないと。”
その傷を負った兵隊は、黒田でした。
上官に殴られたらしいのです。“笠と蓑を借りて来るとはな、戦地に行った者達にはそんなものは無い、お前は気持ちが弛んでいる”、とのことでした。黒田は宿泊の部屋に運ばれて、上半身裸で寝かせられます。そして、絢子を含め数人の手伝い達で手当てをすることになりました。
#“これからお国のために戦う人に何て酷いことをするんだろうね。”“本当だよ、お偉いさんの考えは、良く分からないねえ。”
手伝いの女達は、そう口々に呟いています。
そうして手当てがひと通り終わり、絢子は黒田の部屋に着替えを持って行きました。
“あれ、もう起きてしまっても大丈夫なのですか?”
黒田は、手当ての部分を少し触りながらあぐらをかいて座っていました。
「ありがとうございます。いやあ、実に酷いもんな、痣だらけだ。雨の日に、笠で来るのが何が悪い。そんなの当たり前ですよね。あの伍長は、自分のことを嫌っているんですよ。たたき上げの奴等は、学徒出身の者に厳しいって聞いていたんだが、ここまでやるとは思いませんでしたね、アハハハ。」
絢子は、驚いていました。兵隊とは、真面目で少し怖い人達だと思っていたからです。特に、上官に反抗するようなことを人前でグチるなんて考えられないことです。
「着替えをこちらに置いておきますので・・・あの、黒田さんはいつもそんな感じなんですか。」
「そんな感じ?・・・アハハハ、兵隊らしくないだろう。ところで君、歳はいくつなんだい、僕の妹くらいなのかな。」
「15歳です。」
「ふ~ん、妹より1つ年下か。それに言葉に訛りが無いけど、何処からか疎開で来たのかい。」
「ええ、横浜なんです。」
「そうかあ、横浜は魅力的な良い処だ。港があることで昔から色んな外国の文化が入って来る異国情緒たっぷりな町だよな。自分は東京なんだよ、近いね。」
「へえ、東京ですか。こちらに来て何が大変かって、時々何を言われているのか分からないんです。分からなくてもとにかく、はい、分かりました、って言ってます。」
「そうか、そりゃ大変だ。」
「この前なんか掃除の用を言われて、分からなくてほうきを持って行ったら、これじゃあ漬け込みの樽は洗えないよって。」
「アハハハハ、そりゃそうだ。」
それから絢子は、黒田の世話の割り当てになったこともあり、部屋に伺った時は、その日に思ったことから、次第に故郷のことや今までに経験したことなど、色々と自身のことについて話をするようになっていきました。特に黒田は、西洋文学に精通しており、シェイクスピアを始めユーゴーなど、欧州古典から近代文学の著名な作品を分かり易く話してあげました。絢子は、お伽話を聞いている子供のように目を丸くしながら興味深く聴いています。さして娯楽など無い田舎の生活を送っている日々ですので、たちまち夢中になってしまいました。
「西洋のお話はすごく面白いですね。その王様は、亡きがらとなった娘の真心が伝わって、本当の幸福とは何か、死ぬ間際に分ったんですね。」
「そうだよ。人の本当の心の様とは、うわべだけでは判断できない。2人の姉の様に、口先だけで善意をつくろうことは悪しき行いであり、目先の損得へ意識を向けるばかりで、それが無くなれば親でも裏切ってしまうという醜さがよく分かるよな。決して見返りを求めない純粋な優しさこそが尊いことであると語っているんだよ。」
こうしていつしか2人の心は通い合うようになり、お互いを名前で呼び合うような間柄になっていったのです。
~~~~~~~~
「フフフ・・絢子ちゃん、清貴さん、ていうこと?」
「いやあ恥ずかしい、そんなあからさまに言わないでよ。」
「フフフ、だってそうなんでしょう?」
「え、ええ、そう、私はいつの間にか、清貴さんの優しく気高い心の奥深さに惹かれていったのよ。」
「へえ~素敵、純粋に恋をしたのね。」
「やっぱりそうなのかしら、男の人に夢中になるなんて初めてだったよ。」
「そうそう、ん~私、大悟君にそこまで感じているかなぁ。」
「私の時代は、親兄弟以外の男の人と親密に話をするなんてあり得なかったから、本当に新鮮な気持ちだったわ。」
「プラトニックラブストーリーかあ、いいなあ、その物語の内容じゃないけど、口先だけでない、本当の気持ちが通い合う人に出会えるって、なかなかないわよね。」
「ウフフ、そお。」
「で、それからどうなったの、お札の話がまだよね。」
「それが今でもはっきり覚えてる、12月24日のことだったわ。」
~~~~~~~~~
その日も凄く寒く、青空が美しく見えて、空気が透き通っていました。
絢子も賄いの手伝いにすっかり慣れて、いつものように出掛けます。そして今では、帰ってきた清貴から今夜はどんな話をしてくれるのだろうかと、楽しみにしているようになりました。
『そういえば、明日は西洋の人達の記念日だって言ってたわ。その話でもしてもらおうかしら。』
~~~~~~~~~
「それって、クリスマスのことじゃないの?」
「そりゃあ今じゃ当たり前じゃない。欧米のことを話してることがバレたら、憲兵にしょっぴかれる時代よ。だからそんなことよく知るよしも無いわ。それに私達の会話はある意味、国家への反逆、犯罪行為だったのね、だから絶対他の人に知れてはいけない秘密だったのよ。」
~~~~~~~~~
そして、日暮れになり兵隊達が帰って来る頃です。この頃の絢子は、もうこのまま戦争が終わって、清貴はもちろん、兵隊達が戦地に行かない日が来てくれないかと思うようになっていました。すると、庄屋の女将が、手伝いの女達に台所の土間に集まるように伝えました。皆が集まり、その前に立った女将は、少し顔が強張っています。
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