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鮮やかな青色のウィンドブレーカーを着用した男性が、フラフラとよろけながら二人の近くを下りてきた。
父は、その人を気に留めて心配した。
「あの人、体調悪そうだな」
足元がもつれて転びそう、と思った途端、案の定、つまずいて転んだ。
「これはいかん」
父は、すぐに駆け寄った。
他の登山者も心配そうに寄っていく。
「どうかしましたか?」
男性は、全身震えていて口も利けない。
赤いヤッケの男性が説明した。
「さっきまで元気に歩いてたのに、急にこうなったんです」
「この人に持病はありますか?」
「いえ。この人、私の仲間じゃなくて、ソロのようで、持病については知らないです」
父は脈拍を測り、首筋に手を当て、瞼を上げて瞳孔を見た。
「動悸、発汗が見られる。ハンガーノックかもしれない。誰か補給食を持っていませんか?」
ハンガーノックとは、スポーツ、登山などで肉体を酷使した時に起きるエネルギー欠乏による体調不良のことで、原因は低血糖。
山で発症すると、身動きが取れなくなり遭難してしまう。
こまめに食事を摂取することで回避できるのだが、自分はまだ大丈夫と思っているうちに陥ってしまう。
一翔は、ザックにゼリーの補給食を入れていたことを思い出して、急いで取り出した。
「ここにあるよ」
それを渡すと、父が介助して飲み込ませる。
「これで様子を見よう」
てきぱきと処置する父を見ていて、一翔は、有希が低血糖になった時のオタオタしてしまう自分を思い浮かべた。
父のように振舞うには知識と経験が必要で、今の自分には当然ない。
――父のようになりたい。
一翔は本気でそう思った。
相変わらず医師になる自信はない。
自信ないが、やってみる価値はあるんじゃないかとも考えた。
しばらくすると、男性は体を起こせるまでに回復した。
「ありがとうございました。ついつい、補給を怠ってしまいました」
父の診断通り、ハンガーノックだったようだ。
何度も頭を下げて、下山していった。
「我々も出発しよう。大幅に予定が遅れてしまったが、間に合うかな」
「夕刻までには到着するよ」
計画を立てた時は、時間に余裕を持ちすぎて持て余すのではないかと思っていたが、丁度良い時間になった。
山にトラブルは付き物。
小田島の「時間を多くとる」アドバイスが生きた。
さすが、経験豊富なリーダー。
あの人に教えを受けられてよかったと思う。
山を歩くと、単独・軽装で登っている人とたまに遭遇する。
小田島は、そんな危うい人を見かけると、水はあるかと声を掛け、雑談しながらルートや計画を聞き出していく。
あとで行方不明になった場合の情報収集だが、そういう人ほど不愉快そうな顔をする。
それでも、小田島は声を掛け続ける。
一時嫌われても、あとで役に立って生命が助かるならその方がいい。役に立たなければもっといいとの信条だ。
その後は順調に進んで、唐松岳山頂山荘に到着した。
ここから数メートル登れば山頂。もう目の前にある。
一翔と父は急ぎ足で登った。
山頂に到着すると、丁度、先鋭な剣岳や雄大な五竜岳が燃えるような真紅色に染められていくところだった。
「おお!」
感嘆の声が思わず出る。
一翔が父に見せたかった光景がこれだ。
「父さんに、山頂からアーベントロートを見てもらいたかったんだ。見られて良かった」
アーベントロートとは、山肌が夕焼けに照らされることで、朝焼けはモルゲンロートと言われる。こちらは薄いピンク色になる。
日帰りでは見られないため、このために一泊する人も多い。
どちらも山が美しく映えて見える。
父も満足そうに眺め、写真を撮った。
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