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「一翔君、私、どうしたの?」
自分の身に何が起きたのか、有希は覚えていない。
「急に倒れたんだ。低血糖なんだろうと思って、インスリン注射をした」
「一翔君が? 記憶がなくて……。あれ? 今日は注射器を持ってこなかったんだけど」
「診療室から失敬してきた」
テヘヘと、空になった注射器を見せた。
「わざわざ持ち出して注射してくれたの?」
「うん。前に教えられた通り、太ももにね。あ、他の場所は触っていないよ。見てもいない。それどころじゃなかったから」
「それどころじゃなかったって……。そうでなかったら、何していた?」
「あっと、変な意味じゃなくて……、いや、本当だから……」
有希に嫌われたくなくて必死に否定したが、言えば言うほど疑われそうで止めた。
「でも、助かってよかった。ここじゃ、救急車は簡単に来ないだろうから」
肝心の医師が不在なのだから、救急車が到着しても処置できる病院までまた時間が掛かる。判断が遅れれば、命は助からなかった。有希を苦しめないためにもこれが最善の処置だったと一翔は信じている。
有希は、一転、笑顔になった。
「助けてくれて、ありがとう」
その一言で、一翔の心労は一気に報われた。
有希は部屋の中を見回した。
引っ越し時の段ボール箱もまだ積んだままの片付かない部屋。
こんなに観察されるなら、診察台に運べば良かったかもしれないと一翔は気恥ずかしい。
「ここ、一翔君の部屋?」
「ああ、まあ。ベッドに運ばなきゃってことしか考えられなくて、ここしか思い浮かばなくて……。いや、決してやましい気持ちじゃなくて……。あっと……」
また、言い訳を重ねてしまう。
有希は、立ち上がった。
「もう歩けるようになったわ」
「よかった」
有希は、机に置かれたオブジェを不思議そうに眺めた。
手のひらサイズの木片、いびつな石、ビー玉、十円玉、一円玉の硬貨が絶妙なバランスで積み上げられているが、接地面積が有り得ないくらいわずかしかない。
「これ、くっついているの?」
「ああ、それはバランスオブジェといって、積み上げているだけなんだ。暇潰しの趣味」
「積み上げているだけ? 崩れるの?」
「うん。崩してみてよ」
「いいの?」
「いいよ。いくらでも積み上げられるから」
有希がジェンガのように途中の木片を引き抜くと、オブジェは一瞬で崩壊した。
「キャッ!」
自分で崩したのに、ばらけた時の衝撃に驚いている。
「本当にくっついていないのね。ね、もう一度、積み上げてみせて」
「いいよ」
有希が一翔の手元を凝視する中、あっという間に積み直したので、「すごい!」と、尊敬のまなざしとなった。
「一翔君って、知れば知るほど面白いわね。一緒にいると楽しい」
地味な趣味だと馬鹿にされると思っていたのに、好感度が上がって、一翔は得した気分になる。
「褒めてもらえるとは思わなかったよ」
「だって、これって手先が器用で、集中力があるってことでしょ。私にはできない」
「やってみる?」
「うん」
「じゃあ、まずはこの一円玉を立ててみて」
「一円玉を立てる!?」
有希は驚いている。
「そう。立てる。こうやって」
一翔は手本を見せた。
息をひそめて、静かに一円玉を立てて机に置く。
指先を離しても転がりもせず倒れもせず、一円玉が縦のままピタッと止まった。
有希も挑戦してみる。
どうやっても、一円玉は倒れてしまう。
「私には無理だわ」
「練習だよ」
失敗しても、有希は楽しそうに笑っている。
「このまま、桐谷先生が帰ってくるまで待たせてもらっていい? インスリン注射を持ち出した説明が必要だと思うの」
「いや、いつ帰ってくるかわからないから、日を改めたほうがいい」
「でも、勝手に持ち出したんでしょ? 怒られるんじゃない?」
「ちゃんと話せばわかってくれる」
迷惑かけたと気にしている有希をできるだけ安心させようと、何の心配もいらないことを強調した。
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