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おやきと僕の部屋
大粒の雨が降りしきる土曜日の午前。
有希は、満開のアジサイが揺れる山道を歩いて診療所に向かった。
傘をさし、足元をびしょ濡れにしてたどりついた有希の目に飛び込んできたのは、『本日休診』と書かれた無情の札だった。
「インスリン注射の処方箋をもらおうと思ったのに。出直し? せっかく来たのに」
がっかりする。
(『本日休診』の文字って、桐谷先生の手書きなのかな?)
直線が定規で引いたようにまっすぐである。
諦めきれずいつまでも札を見ている有希に、後ろから一翔が声を掛けた。
「あれ? 受診にきたの?」
有希が振り向いて一翔を見た。
「一翔君」
「おお……」
ずっと、「君」呼ばわりだった有希に名前を呼ばれた。
それは、二人の距離が近づいたということに他ならない。
「初めて名前を呼んでくれたね。じゃあ、僕は、『有希ちゃん』って呼ぼうかな」
「それは、嫌」
調子に乗ってはいけないらしい。
近づいたと思った距離は、まだ離れていた。
「今日って休診だったの? 知らなくてきちゃった」
「急に決まったみたいだね」
臨時休診はしばしばある。
あらかじめ決まっていれば張り紙でもして患者へ告知しておくが、今回はそれをする暇がなかった。
知らずに有希のようにやってきて、札を見て帰っていく人が朝から何名もいた。
中には、ドンドンとドアを叩くもの、電話を掛けてくるものもいて、一翔はその対応に追われていた。
診察を諦めきれない有希も、一翔に在宅の有無を聞く。
「桐谷先生はご在宅なの?」
「不在だよ。東京出張だと朝早くから出て行った。急に決まったらしい」
診察予約をとらないので帰ってもらって問題はないのだが、わざわざ雨の日にやってきた有希が気の毒になった一翔は、「うちで休んで、服を乾かしていきなよ」と、どうせこれも断られるだろうと思いつつダメ元で誘った。
「うん」
「いいの?」
「誘っておいて、何?」
「いや、なんでもない」
そこはあっさり承諾するところが、一翔にはよくわからない。
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