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しばらく、雨の音しかそこにはなかった。それは2人の間を静かに見守っている。ステンドグラスの聖母の目元から、雨の筋が流れ落ちていく。
「優」
その中で。……凛とした声が、静かな水面を揺らす。
「僕も、少し昔話をしてもいいかな?」
優の顔を覗き込む。彼は俯いたままで、その表情は分からない。
「……別に、構いません」
だが、はっきりと彼はそう答えた。
「ありがとう」
微笑んで、少女は語り始める。
「僕に父親がいないことは知っているだろう?」
「ええ」
今回の旅行でそのことを知った。搭乗口に現れたのが、彼女の弟と母親だけだったからだ。彼女はただ、僕の父は昔死んだんだ、とだけ言った。
「……彼はたまたま、外に出ていた。昼ご飯を食べに行こうとしていた。いつも通りの呑気な昼下がりさ」
目を落とす。彼女の右手が聖書の表紙をなぞる。
「でも、目の前に広がっていたのは信じがたい光景だったんだ」
聖書の上で握られる拳。
「…………道路は血で真っ赤に染まっていた。刃物を持った男が暴れていて、道行く人を刺して回っていた。恐怖で竦みあがった女性も、例外ではなかった。彼は次の標的を見定めたはずだった」
優が息を飲む。お伽話の恐ろしい隠喩に気づいた子どものような、張り詰めたその表情。
「しかし……彼女は生き残った。傷1つ負うことなく。なぜなら」
そこで彼女は上を見上げた。十字架に浮かび上がる、磔刑のキリスト。
「……その刃を受け止めたのは、僕の父だったから。全くの他人であるその女性を、身を挺して庇って、彼は死んだ」
彼は黙ったまま首を振った。…………何も、言えなかった。テレビで言われる、通り魔に襲われて5人が死亡、というような無機質な数字では消し去られてしまう凄惨さが、彼の口を封じ込めた。それは、理屈も論理も飛び越えて、全ての人間から言葉を奪い取っていく。
「その男は自殺を試みたが、死ぬ寸前に父は彼から凶器を奪った。彼は捕まり、今も刑務所にいる。…………一生そこから出ることはない。そう決められた。彼は一生、その罪と向き合うことになるだろう」
死を願ったが叶わなかった。狂気に暮れ、呆然としたその顔。彼岸を拝むことはなく。血の海に座り込む。その目に浮かんだのは絶望か諦観か。
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