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鉛玉
ある時の、それが始まりだった。
「おはよお、透子」
この日の朝、成美は見るからに機嫌が良さそうだった。いつにも増してにこにこしている。この可愛げの一粒でも持ち合わせていればなと、ここまでの一瞬は思った。
「おはよう」
「見て見てえ、じゃぁーん!」
鞄から弾みをつけて取り出したのは真新しいペンケース。だが、ただのペンケースではない。
「……」
それを見た瞬間、喉元を融かす勢いで這い上がってきたのは、憎悪か、嫌悪か。とにかく、気持ちが悪かった。見開いた目、瞼の輪郭から愚螺愚螺と迸るのは、濁り濁った鈍色の感情。瞳のはじから侵食しては映像を喰い潰す。
「透子のが可愛いなあって思ってて、私もずうっと欲しくって…ヨーロッパに出張だったパパに、買って来てもらっちゃったあ!」
成美は無邪気だ。きっと悪気は、無い。
だからこそ、それが私の放つ負と縒れて摩れて火花を生む。眉も眼も唇も歪つ。
言うことは他に無かった。
「……真似しないでよ」
成美が笑顔のまま動きを止めた。それが映ったのは視界の端。まともに見ることは出来なかったから。そんな、罪悪感とも言える気持ちを抱けるのだったら、言わなければ良いのにと、声に代えた針が脳を刺す。
でも、言わずに居られなかった。
真似をされるなんざ、舌が千切れるほど嫌いだもの。
休み時間になると、私の周りのクラスメイトは瞬時に席を立つ。このたった10分足らずの間でも、喋らないとどうにかなってしまうかのようにひと所に集まる。解しがたい。休み時間の度に忙しなく他人の机に縋って話をしていたら、寧ろそっちのほうが死にそうだ。
「ねー透子ー」
そうやってただ自分の席に座し、半分目を伏せて居たら、梓がやってきてこの机に手を着いた。いつもはすぐ前の席の成美と話をして過ごしているはずだが、そこは椅子が斜めに引かれたまま、彼女の姿は無かった。
「なに?」
「今日のお昼のときさー、成美におかず取られるの阻止したいの。手伝ってくれない?」
私は眉を顰める。
「…どういうこと?」
意味が分からない。あんなに楽しそうに交換していたじゃないか。
「だってさー、明日はあげるとか言っときながらいっつもさ…」
ああ面倒臭い。愚痴なら他所でやってほしい。本人の居ない所で容易く手の平を返す、女の最も醜いところだ。要は自分が損をしているのが気にくわないのだろう。それを回りくどく延々と言葉を連ねるものだから、
「嫌なら嫌って言えばいいじゃない」
「そんなの言えるわけないじゃん」
だけど間髪入れずに、鋭利な顔を返されてしまう。それがやけに切れ味を伴っていた。
「ていうかさー成美、人の欲しがり過ぎじゃない?自覚ないのかなー?」
梓は、グンと地から風が立つくらいに蹲み込み、下から私を掬い見る。
「ねぇ、透子もそう思うでしょ?」
「え…」
何かを見透かされたような目付きだった。今朝彼女に叩き付けた、黒く苦巣んだ鉛玉。それは梓の知るところでは無いはずだが。この瞬間も目を背け続けているのは、自分のナカから頓着せず吐き出してしまったそれと、覆い切れない後悔。
意識の海、奥深くにじいっと、ずっと閉じ込めておきたいそれを、細い糸で手繰り寄せられている感覚、錯覚。そうやってカタに取るから、脅迫されるように、蚊の鳴くような声を引き摺り出される。
「うん…」
本能と呼ぶべき部分が警告を発していたのに気付いたのは、頷いてしまった後で、
「だよねー、やっぱり!」
それが悪魔の契約だったと知るのはもっと後だった。
「じゃ、お昼はよろしくね」
満足そうににんまりするその顔が、翻した長い髪にも拭き取られずに、ココにこびりつく。身体の内側にぴったりの薄氷を誂えたみたいにパキ、ピシャ、と冷たく、私は総てを動かせなかった。
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