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毒を咽むカナリアの歌を聞いて。
歌の愛し方を忘れた蓄音機から流れるその聲を。
そうしていつか覚えていたなら、どうか傷まない程度にしまっていてほしい。
■ カナリアレコード ■
カナリアレコードと言う名前の音楽を売る店がある。
薬局帰りに立ち寄った同居人は、物覚えの能力に寿命が見えている店主から古いシャンソンのレコードを譲ってもらったそうだ。
別段シャンソンを好んでいたわけではないが、哀愁的な瞳の陰を見たと店主に言われ、同居人はわけも分からずレコードを受け取った。
*
「何語なの、これ」
「…フランス語」
押し入れにしまわれていた蓄音機を引っ張りだして、彼は居間の畳に寝転がりシャンソンを流している。
入っていたケースには、シャソン・ド・センチマンタル、とフランス語に振り仮名が打たれ、名前も顔も初めて目にしたシャンソン歌手の写真が載っていた。
フランス語で唄われても、曲調でしか雰囲気を掴めない。
シャンソンはおろか音楽はほとんど聴かない。だから今流れているシャンソンを説明してほしいと求められても困難だ。
ただ、彼が何も言わず落ち着いて聴き入っていると言うことだけが曲調の穏やかさを証明している。
「なあ…この人、誰かに似てるな」
「誰に?」
パツ、パツ、と音楽に交じる蓄音機の雑音。ラッパの形をした音の出口に指を乗せる彼は、唄い手の写真を見つめながら呟いた。
眠そうな目だ。
洗った包帯を巻く作業を中断し、彼の許へと移動する。
もう一度同じ質問をしようとすると、彼は眠りにおちていた。今日は何にも頼ることなく眠ることが出来たらしい。
まだ途切れる気配を見せないシャンソンを聞き流しながら、眠っている彼の頭を膝に乗せる。
寝息が届く。前髪を梳いて唇に間近に迫った時、瞼が開いた。
死にかけた町で生き残りとして確かめ合い続けている恒常的日常で、流行らない歌から僕の正気を見つけたい。
彼が歌で落ち着くのは知らなかった。
小暮食堂で食べたオクラと豆腐の和物を気に入っている彼は、町で耳にする錆びれた噂には飽き飽きしていて、耳から入る音に神経質になっていた。
だからこの部屋にはテレビもなければ、ラジオもない。
蓄音機だって、こうしてレコードを貰わなかったら、今後使うこともなかった代物だった。
「――…誰にも似てないよ」
零した言葉の行方を見送らず、頼りなく開かれた唇を塞いだ。
俺は友人なんていない。彼は友人ではないし、恋人でもない、まして肉親でもない。
小暮食堂かヨモギ薬局で知り合ったユキズリの他人でしかない。
しかし彼はそんな俺と繋がっていることを、友情だと言う。
誇らしく思うほどの友情を知らない俺は、彼が、表現出来なかったこの関係に与えた敢えての名前なのだと思うことにした。
だって、死にたがりの友人など、本来持ちたいと思わない。
彼は一人で、俺も一人で、寄り添う相手もおらず、尚且つ嫉妬をする必要もないので、丁度いいだけなのだ。
「ぅう…っん…」
舌を入れられている彼の口内から沸き上がる、くぐもった声。
舌の表面が重なり合っている。
形容しがたい感触に込めた想いに、彼は一生かかっても気付きはしないだろう。
薄らと目を開けた彼が、シャツの袖を掴んだ。
友情と言える程、彼のことを知らない。
一方的に温めた出会いの誇張。
もう思い出せないよ。歪んでみせるから、つまらない思い出になる。
「…せっかく寝てたのに…」
「…うん、ごめんね」
「まだ…流れてるのか…」
「長いよ、…飽きそう」
シャソン・ド・センチマンタル。
カナリアの記憶違いに唆されて、また生き残りを見つけた夕暮れ。
剃刀も睡眠薬も無い代わりに、安い思い出を対価にヒトカケ歪む二人の時。
もう針を上げようかと思い立った頃合を計ったように曲が止んだ。
パツン、とこだました蓄音機の吐息。
「…今日なに食べようか」
外灯に誘われる夜行の乱れた配列に、町の生気を感じる。
起き上がった彼が笑顔で食堂のご飯が食べたいと言うので、そのまま支度をして家を出た。
針を下ろしたままの蓄音機からはシャンソンが流れ続けている。
耳に残った唄声には、突然住処から放られた悲しみが滲んでいるような気がした。
あのカナリアの死は、恐らく遠くないだろう。
End.
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