二章 「飛べないツバメの子」

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 翌朝。  リビングに寝かせていた(ひな)が、そのまま息を引き取るのではと、悪い夢ばかり見ていたけれど。  急き立てるような、小さな鳴き声に、はっと目が覚める。  時間も分からない。まだ外は薄暗い。一緒に眠っていたはずの、キャンディも居ない。  慌ててリビングに向かうと、すでにキャンディがいた。パジャマ姿のまま、ミルクの用意をしている。 「明子。ちょうど良かった。ミルク沸かして」 「その子、大丈夫なの?」 「私も、今起きてきたところ。具合までは分からないけど、昨日はまともに鳴くこともできなかったから、少しは良くなったのかもね…」  言われてみれば、昨日よりは回復している気がしている。ぐったりと横たわって、スポイトや、つまようじから滴らせたミルクを飲むので精一杯の状況から、わずかに身を起こして、エサをねだっているのだ。良くは、なっているのだろう。  雛のためのミルクを暖める。昨夜から繰り返した作業、手つきも慣れてきた。  ミルクを主に与えるのはキャンディ。やわらかい口ばしに、そっと傷つけないようにつまようじを差し込んで、滴らせる。もちろん、つまようじの先端は丸めてあるけれど、彼女は私より器用に手早く飲ませることができた。  その間に、私は自分たちの朝食の用意をする。まだ朝の五時。時間は十分あった。昨夜は夢中で、朝の下準備をするのも忘れていたので、ちょうど良かった。  交代で、食事をしたり、着替えをしたりしていると、いつの間にか七時を過ぎている。 「ごめん、キャンディ。でも、本当に大丈夫?」  学校に行く時間だ。さすがに雛を連れて行くわけにもいかない。世話を、キャンディに任せるしかなかった。 「いーよ、別に。百倍返しだから」 「うぐ…」  冗談で言っているのか、本気なのか、うかつには返事できない。ここで「分かった、分かった」と子ども扱いすれば、後で大変なことになるのは経験済みだ。とんでもない無理難題が待っている。  そんな、私の心を見透かすように、キャンディは微笑む。 「まー、今日は仕方ないよ。それに、明子ドジだから、とても任せられないし」 「あ、あはは…」 「とにかく、早く帰ってきてね。寄り道しちゃダメだよ。今日はそっちに迎えに行けないんだから」  迎えに行くって…このところ、学校に毎日やって来るのは、遊びに来ているんじゃなかったんだ…。 「と、とにかく…。冷蔵庫におかず置いてあるから、暖めて食べてね。ご飯も、炊飯器に残っているから。ちゃんと戸締りして、誰か来ても返事しちゃダメよ。何かあったらすぐに連絡してね、分かった?」 「はいはい、分かってるわよ」 「そー言って、前もお昼食べなかったでしょ? ちゃんと食べるのよ、分かった?」 「分かったから、早く行きなさい。とっとと行って、さっさと帰る。分かった?」  本当に分かっているのだろうか。というか、なぜ私が命令されているのだろう?  言いたいことは山ほど湧いてきたが、ここで争っても時間の無駄だ。キャンディの主張も間違ってはいないので、私は家を後にした。  …昼休み。  ちゃんとキャンディはお昼を食べているのだろうか。雛の具合は大丈夫だろうか。  後に残してきた心配事が多く、昨夜の疲れもあって、授業にいまひとつ身が入らないまま、時だけが過ぎていった。  お弁当を食べると、睡魔に襲われそうだったので、先に保険室に向かう。  幸い、保険の先生が居たので、昨日の一件を改めて謝罪して、借りていた(バスケット)を返した。本当なら、使ったタオルも洗って返すつもりだったが、そこまでしなくていいと言われたので、先生に任せたのだった。普段、口を利く機会などなかったのだが、悪い人ではないらしい。  初老の、女性。  名前は…そういえばちゃんと聞いたことはない。でも、今さら聞くのは気恥ずかしいし、失礼な気がする…。でも、それはお互い様か。相手も、私の名前を知っているわけではない。 「それで、様子はどう?」 「昨日よりは、良くなったようです。でも、怪我も治りきっているわけではないので、安心はできないと思いますけど…」 「あたしも専門外だからね…悪いね、診てやれなくて」 「いえ…。とにかく、出来るだけのことはします」 「ま、何かあったら言ってごらん。大したことはできないけど、相談くらいのってあげるよ」  一礼して、私は保健室を出て、まっすぐ図書室に向かった。  予想通り、図書委員の彼女はすでに鎮座していた。 「安部さん」  私が声をかけると、彼女はそっと指に手を当てる。  お静かに。 「あ、ごめん…」声をささやきにまで落とす。「…昨日は、ありがとう。本、助かったよ」 「…私も、ツバメの雛を間近で観られて、良かった。あんな機会、そうはない」  ……。  彼女の微笑に、嘘や冗談の欠片も見当たらない。 「…委員の仕事で先に帰ったけど…どうだった?」 「どうって…雛の具合?」  こくりと、彼女は頷く。 「昨日よりは良くなっているみたいだけど…まだ分からないわ。とにかく、今はキャンディが世話をしているの」 「…キャンディ?」  誰のことか分からない。そんな、顔をしている。 「キャンディよ…私と一緒に居た女の子…というか安部さん、知っているよね?」  ああ、と納得した様子。 「マリーのことね」 「…誰?」 「私が名づけた」  ……。 「…もちろん、連想したのはフランス最後の女王。彼女よりは知的だと思うけれど、どことなく、雰囲気が…こう…」 「それ…キャンディに言った?」 「なぜ?」 「なぜって…」 「私は勝手にイメージを楽しんだだけ。本人に押し付けるつもりはない。ちゃんと名前は覚えたから、そう呼ぶ。安心して」  なぜか、彼女は楽しそうだ。今も、何かを空想しているのだろうか? どことなく、いつも遠い目をしている気がしていたが…その理由が、少しだけ分かった。 「ところで安部さん、お昼は?」 「済ませた。なぜ?」  それもそうだ。昼食を食べていなければ、ここに居るわけがない。  しかし、彼女の場合、お昼休みが始まった直後でも、ここに居ることが多い。  一体、いつ食べているのだろう…。 「…そういうことか」  何かを考え込んでいた安部さんは、ふいに足元のカバンに手を伸ばし、ビニール包装されたウエハースらしきものを私に差し出した。  これって…カロリーメイ…。 「私の昼食の残りだ。あなたは昼食の携帯を忘れ、財布も忘れたので、私に昼食が残っているかどうか質問した。違った?」  ……。  彼女なりに、気遣ってくれているのだと、私はワンテンポ遅れて気がついた。 「あ、ありがとう…。で、でも大丈夫…ちゃんと、持ってきてるから」 「…そう?」  小首をかしげて、彼女はウエハースをカバンに戻した。  彼女には、私と一緒に昼食をするという発想がないらしい。そういえば、キャンディも誘ったりはしていなかった。  彼女は再び本に視線を戻す。  私は、そっと図書室を出た。 「ただいま…」  家の中は、しんとしていた。 「キャンディ…?」  リビングのテーブルには、バスケットに横たわる雛の姿。静かだが、眠っているらしい。  そして、テーブルに突っ伏して眠っている少女。  炊飯器のご飯は少ししか減っていなかったが、おかずは食べてくれたらしい。台所の流しに、お皿が洗剤たっぷりのボールに漬けられている。  たくさん洗剤を使えばキレイになるとか、そういうんじゃないんだけど…。  とにかくお昼を食べてくれたのだから、文句は言わないでおく。  今のうちに、溜まった洗濯をして、夕食の用意をしておこう。やることは沢山ある。  どうせ雛が目覚めれば、否応(いやおう)無しに忙しくなるのだ。そうなる前に、片付けられるものは、片付けておかないと。  私は起こさないように、キャンディの背中にフリース毛布をかける。  本当はベッドまで運んであげたかったけど、そうすれば目を覚ましてしまう。  だから、このまま寝かせることにした。 「お疲れ様。ありがとう、キャンディ」 「……」  ほんの少し、くすぐったく笑ったように見えた。
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