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翌朝。
リビングに寝かせていた雛が、そのまま息を引き取るのではと、悪い夢ばかり見ていたけれど。
急き立てるような、小さな鳴き声に、はっと目が覚める。
時間も分からない。まだ外は薄暗い。一緒に眠っていたはずの、キャンディも居ない。
慌ててリビングに向かうと、すでにキャンディがいた。パジャマ姿のまま、ミルクの用意をしている。
「明子。ちょうど良かった。ミルク沸かして」
「その子、大丈夫なの?」
「私も、今起きてきたところ。具合までは分からないけど、昨日はまともに鳴くこともできなかったから、少しは良くなったのかもね…」
言われてみれば、昨日よりは回復している気がしている。ぐったりと横たわって、スポイトや、つまようじから滴らせたミルクを飲むので精一杯の状況から、わずかに身を起こして、エサをねだっているのだ。良くは、なっているのだろう。
雛のためのミルクを暖める。昨夜から繰り返した作業、手つきも慣れてきた。
ミルクを主に与えるのはキャンディ。やわらかい口ばしに、そっと傷つけないようにつまようじを差し込んで、滴らせる。もちろん、つまようじの先端は丸めてあるけれど、彼女は私より器用に手早く飲ませることができた。
その間に、私は自分たちの朝食の用意をする。まだ朝の五時。時間は十分あった。昨夜は夢中で、朝の下準備をするのも忘れていたので、ちょうど良かった。
交代で、食事をしたり、着替えをしたりしていると、いつの間にか七時を過ぎている。
「ごめん、キャンディ。でも、本当に大丈夫?」
学校に行く時間だ。さすがに雛を連れて行くわけにもいかない。世話を、キャンディに任せるしかなかった。
「いーよ、別に。百倍返しだから」
「うぐ…」
冗談で言っているのか、本気なのか、うかつには返事できない。ここで「分かった、分かった」と子ども扱いすれば、後で大変なことになるのは経験済みだ。とんでもない無理難題が待っている。
そんな、私の心を見透かすように、キャンディは微笑む。
「まー、今日は仕方ないよ。それに、明子ドジだから、とても任せられないし」
「あ、あはは…」
「とにかく、早く帰ってきてね。寄り道しちゃダメだよ。今日はそっちに迎えに行けないんだから」
迎えに行くって…このところ、学校に毎日やって来るのは、遊びに来ているんじゃなかったんだ…。
「と、とにかく…。冷蔵庫におかず置いてあるから、暖めて食べてね。ご飯も、炊飯器に残っているから。ちゃんと戸締りして、誰か来ても返事しちゃダメよ。何かあったらすぐに連絡してね、分かった?」
「はいはい、分かってるわよ」
「そー言って、前もお昼食べなかったでしょ? ちゃんと食べるのよ、分かった?」
「分かったから、早く行きなさい。とっとと行って、さっさと帰る。分かった?」
本当に分かっているのだろうか。というか、なぜ私が命令されているのだろう?
言いたいことは山ほど湧いてきたが、ここで争っても時間の無駄だ。キャンディの主張も間違ってはいないので、私は家を後にした。
…昼休み。
ちゃんとキャンディはお昼を食べているのだろうか。雛の具合は大丈夫だろうか。
後に残してきた心配事が多く、昨夜の疲れもあって、授業にいまひとつ身が入らないまま、時だけが過ぎていった。
お弁当を食べると、睡魔に襲われそうだったので、先に保険室に向かう。
幸い、保険の先生が居たので、昨日の一件を改めて謝罪して、借りていた籠を返した。本当なら、使ったタオルも洗って返すつもりだったが、そこまでしなくていいと言われたので、先生に任せたのだった。普段、口を利く機会などなかったのだが、悪い人ではないらしい。
初老の、女性。
名前は…そういえばちゃんと聞いたことはない。でも、今さら聞くのは気恥ずかしいし、失礼な気がする…。でも、それはお互い様か。相手も、私の名前を知っているわけではない。
「それで、様子はどう?」
「昨日よりは、良くなったようです。でも、怪我も治りきっているわけではないので、安心はできないと思いますけど…」
「あたしも専門外だからね…悪いね、診てやれなくて」
「いえ…。とにかく、出来るだけのことはします」
「ま、何かあったら言ってごらん。大したことはできないけど、相談くらいのってあげるよ」
一礼して、私は保健室を出て、まっすぐ図書室に向かった。
予想通り、図書委員の彼女はすでに鎮座していた。
「安部さん」
私が声をかけると、彼女はそっと指に手を当てる。
お静かに。
「あ、ごめん…」声をささやきにまで落とす。「…昨日は、ありがとう。本、助かったよ」
「…私も、ツバメの雛を間近で観られて、良かった。あんな機会、そうはない」
……。
彼女の微笑に、嘘や冗談の欠片も見当たらない。
「…委員の仕事で先に帰ったけど…どうだった?」
「どうって…雛の具合?」
こくりと、彼女は頷く。
「昨日よりは良くなっているみたいだけど…まだ分からないわ。とにかく、今はキャンディが世話をしているの」
「…キャンディ?」
誰のことか分からない。そんな、顔をしている。
「キャンディよ…私と一緒に居た女の子…というか安部さん、知っているよね?」
ああ、と納得した様子。
「マリーのことね」
「…誰?」
「私が名づけた」
……。
「…もちろん、連想したのはフランス最後の女王。彼女よりは知的だと思うけれど、どことなく、雰囲気が…こう…」
「それ…キャンディに言った?」
「なぜ?」
「なぜって…」
「私は勝手にイメージを楽しんだだけ。本人に押し付けるつもりはない。ちゃんと名前は覚えたから、そう呼ぶ。安心して」
なぜか、彼女は楽しそうだ。今も、何かを空想しているのだろうか? どことなく、いつも遠い目をしている気がしていたが…その理由が、少しだけ分かった。
「ところで安部さん、お昼は?」
「済ませた。なぜ?」
それもそうだ。昼食を食べていなければ、ここに居るわけがない。
しかし、彼女の場合、お昼休みが始まった直後でも、ここに居ることが多い。
一体、いつ食べているのだろう…。
「…そういうことか」
何かを考え込んでいた安部さんは、ふいに足元のカバンに手を伸ばし、ビニール包装されたウエハースらしきものを私に差し出した。
これって…カロリーメイ…。
「私の昼食の残りだ。あなたは昼食の携帯を忘れ、財布も忘れたので、私に昼食が残っているかどうか質問した。違った?」
……。
彼女なりに、気遣ってくれているのだと、私はワンテンポ遅れて気がついた。
「あ、ありがとう…。で、でも大丈夫…ちゃんと、持ってきてるから」
「…そう?」
小首をかしげて、彼女はウエハースをカバンに戻した。
彼女には、私と一緒に昼食をするという発想がないらしい。そういえば、キャンディも誘ったりはしていなかった。
彼女は再び本に視線を戻す。
私は、そっと図書室を出た。
「ただいま…」
家の中は、しんとしていた。
「キャンディ…?」
リビングのテーブルには、バスケットに横たわる雛の姿。静かだが、眠っているらしい。
そして、テーブルに突っ伏して眠っている少女。
炊飯器のご飯は少ししか減っていなかったが、おかずは食べてくれたらしい。台所の流しに、お皿が洗剤たっぷりのボールに漬けられている。
たくさん洗剤を使えばキレイになるとか、そういうんじゃないんだけど…。
とにかくお昼を食べてくれたのだから、文句は言わないでおく。
今のうちに、溜まった洗濯をして、夕食の用意をしておこう。やることは沢山ある。
どうせ雛が目覚めれば、否応無しに忙しくなるのだ。そうなる前に、片付けられるものは、片付けておかないと。
私は起こさないように、キャンディの背中にフリース毛布をかける。
本当はベッドまで運んであげたかったけど、そうすれば目を覚ましてしまう。
だから、このまま寝かせることにした。
「お疲れ様。ありがとう、キャンディ」
「……」
ほんの少し、くすぐったく笑ったように見えた。
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