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屋上。
洗濯用のロープが交差する道。傘を差して、私はいくつもの水溜りを踏み越る。
空に向かって、呼びかける。
「キャンディ…」
少女は、動かない。
私に背を向けたまま、独り、傘を差して、雨の中に佇んでいる。
コンクリートの、片隅で。
手を伸ばさないと、空に消えてしまいそうな、赤い傘。
もしかすると、私は間違っているのかもしれない。
私たちは、一緒に居るべきではないのかもしれない。
独りぼっちと、独りぼっちが、重なったところで、一時の慰めになるだけで、本質的な解決が待っているわけではない。私たちは、互いに、置かれた現実から目を背けているだけなのかもしれない。ただの逃避だと、後ろ指をさされるのが顛末かもしれない。
もっと、前を向いて生きるべきなのかもしれない。
もっと、建設的に。現実的に。当たり前に、然るべき、誰もがそうするように、前を向いて、後ろを振り返らないで、見えないものに目を向けずに、抱えられない荷物など捨てて、忘れて、置き去りにして、今だけを、前だけを、見ているべきなのかもしれない。
そんな…他人の目ばかり、私はいつまで気にしているのだろう。
捨てるのは、とても簡単。否定するのは、もっと簡単。それでも、本当に忘れてしまうことなんて、出来るのだろうか? 出来るとすれば、心を無くしてしまった時だけではないだろうか? 名前も知らない、見たことも無い、覚えてもいない、雑草や、虫ケラのように、踏みしめてしまったことすら気づかず、笑って忘れてしまえるほど、覚えてもいない過去に出来るほど、関心を無くした時だけでは、ないだろうか?
人殺しの娘と呼ばれても、構わない。私にとって、父は、父だ。結果がどうあれ、私たちのために頑張って、働いてくれていたことを、私は知っている。事故で亡くなった方たちには申し訳ないが、父もまた死んだのだ。私が忘れてしまえば、捨ててしまえば、本当に父はただの人殺しになってしまう。だから、それだけは出来ない。
キャンディは?
彼女が何者なのかは、考えても分からない。教えてもらったところで、きっと彼女の抱える問題は、私には解決できないのだろう。それが出来るのなら、きっとそうしている。初めから、そう言っている。
彼女の本当の名前は、知らない。
でも、私の手の中にあるグレイが、校舎裏で捨てられた名も無き雛であったように。
彼女もまた、誰かにとっては、同じような存在だったのかもしれない。
現実的に考えるならば。
私の抱える雛は、そのまま死んだ方が幸せだったのか? 苦しませるくらいなら、いっそその場で手を下せば良かったのか?
見て見ぬフリをするのが、もっとも安易で、現実的だ…。
そして、忘れて、通り過ぎて、前を見るのが、最も現実的だ。
ならば、私の行いは、非現実的なのだろうか? 間違っているのだろうか?
…そうだとしても、忘れてはいけないものがある。
口にするのは容易い。聞き流すのはもっと手軽だ。飾るだけなら、誰でも出来る。
今、ここに居るのは、私とキャンディ。私たちしか、居ない。
一歩外に出れば、たくさんの人々が居ても。それはすれ違う残像のようなもの。見知らぬ、人生の群れ。未だ関わりの無い、交わることの無い、心の束。私には、彼らのことなんて分からないし、私も分かってもらおうとは思わない。すれ違っても、目が合っても、それだけだ。互いに、必要としていないのだ。
キャンディは…?
この世界にたくさん居る女の子の中で、たった独り、雨に佇む少女。けれど、彼女は誰も探していない。誰も待っていない。何も求めていない。幼い背中は、独りを選んだ。
まるで誰も寄せ付けない、野性そのもの。
でも…。
それはきっと、相手を傷つけたくないという、優しさの裏返しだ。
「キャンディ」
私はもう一度呼びかける。
返事のない背中に、そっと近づく。
ゆっくりと、手を差し出す。
「…お家に帰ろう、キャンディ」
「……」
凍てついた瞳が、問いかける。
お前はそれでいいのか、と。
見開かれたまなざしに、私はおののきを噛み殺す。
目をそらせば、それでお終いだ。まるで檻から解き放たれた肉食獣との対峙。一歩でも動けば、彼女はもう私を信じない。二度と、私を踏み込ませたりはしない。次は、無い…。
私も、彼女の目を見つめ続けた。
雨の中、言葉のない、視線だけの会話。
傘と傘が触れ合って。
やがて、私の傘の中に、彼女の傘が入りきるその時まで。
私たちは、無言で見つめ続けた。
ようやく触れた彼女の手はとても冷たく、それでも内に秘めた熱を感じさせる。壊れた人形のように、立ち尽くしたままの背中を、私は抱きしめる。
どうするべきかなんて、どうすれば良かったかなんて…私にも、きっとキャンディにも分からない。
だけど…どういう訳か、私たちはおそらく、互いに必要だったのだ。
いずれまた独りぼっちになるとしても。側にいたところで、何の解決にもならないとしても。
私たちは、不器用に傘を並べて、歩き出した。
いつの間にか、雨が止んでいることにも気づかないまま。
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