一章 「マイ・リトル・ガール」

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 終業のベルが鳴った。  窓の外を見るが、キャンディの姿は見えない。  探しに行こうと、席を立ったその時。 「おーい、明子ー!」  教室の外で手を振っている小さな女の子の姿を見つけて、私はダッシュした。 「もぅ…教室まで来ちゃダメって言ったのに…」 「ごめーん。だってぇ、退屈だったんだもーん」 「あのねぇ…」 「明子は、キャンディと一緒に帰るの嫌? 誰かと約束してた?」 「そ、そういうわけじゃないけど…」 「じゃー、一緒に帰ろー」  疲労感はあるけれど、嬉しそうな顔をされては嫌とは言えない。  実際、独りでトボトボ帰るよりは、気分がいい。  普段はアスファルトしか見えない道が、紅い日のかかる美しい街並みに変化する。 「ちょっと、そこのスーパーに寄っていい? 晩御飯のおかず、買わないと」 「いーよ。でも、何を作るのー?」 「お鍋」 「また煮物ー? 明子って、おばあちゃん料理好きだよね」 「わ、悪かったわねぇ…。じゃあ、キャンディは何が食べたいの?」 「オムライス!」 「…却下」 「エビフライ!」 「…却下」 「じゃあ、アイスクリーム!」 「それ、料理じゃないし…」 「ぶー、文句ばっかり」 「どっちがよ。一応、これでも家計簿つけているんだから。まだ夜は少し冷えるし、お鍋ならキャンディも好き嫌いなく食べられるでしょ? 明日の朝にも使えるし」 「よーするに、面倒くさいのね? 明子って、わりと大雑把だし」 「ほ、ほっといてよ…」 「まー、明子の煮物、嫌いじゃないからいーけど。でも、たまにはちゃんとした料理とか作らないと、上達しないよー?」 「わかってるけど…自分独りだと、そんな気になれなかったのよ」  小声で、私はつぶやく。  独りだと、必要最低限の食事で済ませてしまうことが多い。それに、親の貯えで生活している身の上、あまり無駄遣いはしたくない。  しかし、キャンディは子供だ。私もまだ子供だが、キャンディはそれ以上に子供だ。生意気な言葉遣いをするが、生活面では私のペースに合わせているので、キャンディなりに気を遣っているのだろう。この同居生活が、いつまで続くのかは分からないが…たまには、キャンディの好きなものくらい、食べさせてあげないといけないのかもしれない。 「あれ? キャンディ?」  レジで会計を済ませて、ふと気づくとキャンディの姿が見えない。  お菓子売り場を見に行く、とか言ってそのままだったような…。  売り場に戻って、探していると、スカートのすそを誰かに引っ張られる。 「…キャンディ!」  何してるの、どこへ行ってたの、という言葉を、彼女は口に指を当てて飲み込ませた。  キャンディは、店内の柱に、隠れるようにしゃがみこんでいた。 「…どうしたの?」  ふざけているのではなく、とても真剣な表情。私も、声を潜めて身を屈める。 「…変な人がいる」 「どこ?」 「今はいない。さっきまで、ウロウロしていた」 「どんな人? 何かされたの?」 「…男の人。スーツ着てた。じっと、こっちを見てて、追いかけてくる…」  スカートを掴む小さな手に、必死の力がこもっている。 「…ごめんね、気づかなくて。とにかく、暗くならないうちに帰ろう」  黙って、キャンディは頷いた。  きれいだった夕日は、すでに曇り空で覆い隠されていた。  家に帰ってからも、キャンディは落ち着かない様子だった。時々、彼女は窓の外を覗いていた。誰も居ない通りを、何度も確かめている。雨が降る気配はなかったが、厚い雲がずっと空一面に広がっている。まるで、何かに怯えているかのよう。  余程、そのストーカーが恐ろしかったのだろうか。  それとも…。 「大丈夫よ、キャンディ。誰も見ている人なんて居ないわ」 「……」  私はカーテンを閉めて、キャンディを部屋に連れて行く。 「もう遅いから、寝よ」 「……」 「今度さ、キャンディの好きなご飯、作ってあげる。オムライスは、ケチャップとホワイトソース、どっちがいい?」 「…ホワイトソース」 「じゃあ、それで決まり。ほら、ちゃんと歯磨きして、寝ましょ」 「……うん」  私が寝るには少し早かったが、人形のように虚ろで硬直しているキャンディを放ってはいられなかった。  布団の中で、ぎゅっとしがみついてくる。  震えていた。  でもそれは、怯えているというよりは。  何かを、こらえているようにも感じられた。  降りそうで、降らない雲のように。じっと、息を潜めていた。
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