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旧校舎。
二階建てで、教室棟や実習棟から少し離れている。実習室や部室として今でも使われているが、人の出入りは少ない。
そこの裏口の屋根の下に、ツバメが巣を作っている。
前に、キャンディがそう教えてくれたのを思い出した。
きっと、それを見に行っているのだろう。
私は携帯用の傘を差して、旧校舎の裏手に回る。
扉の閉まった裏口に、小さな女の子がしゃがみこんでいるを見つけた。
「キャンディ」
呼びかけても返事がない。
何かあったのだと、この雨で予想はついていたので、私はそっと近づく。
その手のひらには、ツバメの雛が横たわっていた。
おそらく、巣から落ちたのだ。まだ毛もまともに生えていない小さな身体に受けたダメージは大きく、鳴き声もあげられない。かすかに身をよじり、まぶたを、開いては、閉じる…。
見上げると、巣の中には、親ツバメと雛が身を寄せ合っている。
親は一羽。もう一羽は、餌を取りにいっているのか、それとも私たちが居るのでどこかで様子を見ているのか。
雛たちだけが、私たちにも、この雨にもお構いなく、ピーピー鳴いている。
いずれにしても、誰も、キャンディの手の中にある、子供には関心を向けていない。
…聞いたことがある。ツバメに限らず、動物の世界では、こうした間引きが行われる。仮にこの子を巣に戻したとしても、再び親や兄弟たちに叩き落されてしまう。そして、死んでしまう。
この雛と他の兄弟たちに、どんな違いがあったのか、一見しては分からない。生まれつき身体が弱かったのか。それとも、餌の取り合いに負けてどんどん身体が衰弱したのか。あるいは、初めから巣のサイズと雛の数が合わなかったので、強制的に叩き落されたのか。それは、私たちには分からない。彼らの間の、問題だ。私たちに、彼らを責める権利はない。彼らも彼らで、そうしなければ、生きていけないのだろう。どんな世界にも、どんな社会にも、必ず犠牲はつきものだ。
分かってはいるけれど…。
キャンディは、泣いていた。
涙を流してはいなかったが、心の中で、泣いていたのだ。
「…行こう、キャンディ」
とても黙って見ていられなかった。私はキャンディの肩を抱き、手の平にあるものと一緒に、傘の中に入れる。
「とにかく、保健室。急ごう」
「…行って、どうするの?」
「だって…まだ生きているのよ? このまま放っておけないじゃない…」
「もう、遅いよ」キャンディは雛を見下ろしたまま、私を見向きもしない。「…見に来た時には、もうこうなっていたの。雛を数えたら、一羽足りなくて…鳴き声に気づいて、見つけたの。コンクリートの上だったら、即死だったのに…」
「キャンディ…」
「明子は、この子を治してどうするの? 生きていても、きっとつらいだけだよ。それに治ったとしても、もう飛べない。私たちじゃ、この子に飛び方なんて教えてあげられないし、翼を傷めているかもしれない。ううん、他にも傷はあると思う。こんな小さな身体で負った傷なんて、治りっこない。無理に生かせても、苦しいだけ。もし仮に元気になったとしても、飛べなくて、群れにも帰れなくて、独りぼっちだよ? 何も悪いことなんてしていないのに、独りぼっちになるんだよ? …それでも、いいの?」
そして…まっすぐに、私を見上げるその目。
その場限りの嘘やごまかしやキレイごとなど、その目は許さない。
絶対に、許さない。
まるで見捨てられた雛を、自分のことのように、少女は語る。
彼女のまなざしに圧倒されながらも、私は手を離さないで踏みとどまる。
「…そんなの、私には分からないわ。でも、このまま見捨てるなんて、無理よ。できない」
「どうして? 明子はお医者さんじゃないでしょ? 保険の先生だって、獣医さんじゃないよ? それに、もう息だってほとんど出来ていない。もう永くはもたないよ?」
「…それでも、こんな雨の中、冷え切ったところで独りぼっちなんて、見ていられない。違う?」
……。
私の言葉に、彼女は反論しなかった。
少し意地悪だったかもしれないが、それはキャンディ自身のことだ。否定は、できない。
雨は、止む気配がない。
それでも、勢いはほんの少しだけ和らいでいる。
「…行こう。キャンディ」
返事はなかったが、逆らいもしなかった。
私に肩を抱かれるまま、少女は歩き出した。
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