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「あ、飛行機雲」
釣られて瞳を向けると、正面のポプラの梢から、一筋、白い道が伸びてきた。先導する機体は見えないけれど、太く確かな飛行機雲が、大空を分けていく。
互いに無言のまま、顔を上げ首を伸ばして、給水塔の向こうに引かれていく道を追いかけた。
暫く止まっていた飛行機雲は――やがて、ゆっくりと滲み出すと、薄く溶けて、元の空に同化した。
僕らの上には、変わらずに水色の空間が広がっている。
「決めた。あたし、留学する」
「――え」
櫻井は、飛行機雲の消えた上空に瞳を向けたまま、唐突に宣言した。
「もっと広い場所を見てみたくなっちゃった」
コンクリートの僅かな隙間から伸びた若木のように、彼女のしなやかで強靭な精神は、どんな環境に置かれても、多分折れることなどないのだろう。
「ね、あんたは? 榎元?」
「僕?」
「まだこれからじゃない。選択肢、広げないの?」
踏ん切りを着けた後の櫻井は、清々しい眼差しで僕を捉えている。
胸の奥から暗い色をした雲が沸き立つのを感じた。僕の底に押さえつけてきた汚れた澱を、無性に吐き出してしまいたい衝動に駆られる。
「櫻井、僕が昼休みに教室にいないって言ったろ」
表情を見られたくなくて、僕は俯いた。
「昼休みは、貴重な睡眠時間なんだよ。夜、居酒屋でバイトしてるから」
隣で小さく息を飲む気配がした。
うちの高校はバイト禁止じゃない。けれど、それはコンビニや新聞配達なんかに限られていて、夜7時以降のバイトは禁止だ。ましてや、アルコールを提供する店でのバイトなんて、もしバレれば一発停学、それでも続けるなら退学だ。
「うち、母子家庭なんだ。母さん、毎日残業でさ。生きてくのは辛い、厳しい、って口癖みたいに言ってんだ」
誰にも――中学時代のクラスメートにさえ、家の事情は口にしたことがない。母子家庭を何とも思わないが、家計の貧しさは、恥ずかしいと思う。それでも、苦労を見ているから、母さんを責めるつもりはない。
「来年は弟も高校進学だし、それまでは仕方ないんだよな」
居酒屋のバイトを選んだのは僕自身だから、泣き言は言わない。けれど、ゴミ捨てに出た店の裏口で、酔ったオヤジに抱きつかれたり、身体を触られたことは一度や二度じゃない。
生きていくのは、確かに厳しくて辛い。いつからか、僕は「仕方ない」が口癖になっていた。
「大学行って、もっと稼げるバイトして、とにかく就職する。それくらいしか考えられない」
「……ごめん。あたし、無神経なこと言って」
櫻井は謝罪したが、同情は口にしなかった。だからだろうか――胸一杯に膨れた憤りが醜い八つ当たりに変わることなく、スウッと萎んでいくのを感じた。
「いいよ。確かに、つまんない生き方なんだ」
「だけどね、榎元。まだ、何が起こるか分からないよ?」
投げ遣りな返事に被せるように、櫻井は少し早口で反論してきた。
「ホントのこと言うと、あたしね、今日ここに来るまで、自暴自棄になってたんだ。ママへの当て付けに、飛び降りちゃおうかなんて考えてた」
「まさか」
妙に明るい声で、あっさりと物騒なことを言うものだから、つい顔を彼女に向けてしまった。
「本当だよ」
櫻井は真顔だった。
両親の離婚と転校――僕が想像した、その何倍も何十倍も、彼女は傷つき絶望していたのだろうか。多分。だって、彼女は入学以来学年一位なんだ。いくら楽しくたって、たゆまぬ努力を積み重ねてきた筈だ。
「突然飛行機雲が現れたり、いつもは接点のないあんたと話したり、教科書に載ってない思いがけないことって、まだまだあるんだよねぇ」
自ら神妙に頷いてみせると、次の瞬間、彼女は瑞々しく笑顔を迸らせた。
「榎元。一生懸命生きることと、つまんない生き方をするのは、きっと別だよ」
そうか――メンデルの遺伝の法則――3つ目は、「独立の法則」だ。
エンドウ豆の実の色と表皮のシワのように、複数の遺伝的な特徴は、連動せずそれぞれ独立に遺伝し発現するのだ。
「……あ……はは、そうか――独立の法則なんだ……」
眼から鱗状態の僕は、込み上げてきた笑いを抑えられなかった。
「は? 独立の法則って、メンデルの? あれ、遺伝の話じゃない。何言ってるの」
彼女の眉間が怪訝に曇る。それでも、僕の笑いは止まらない。
「はは……そうなんだ……何言ってんだろうな……あはは」
とにかく生きていく。それは、生きていけさえすれば良くて、どうせつまらない日々を耐えていかなきゃならないのだと、勝手に思い込んでいた。もしかすると、いつも疲れた顔をしている母さんを見て、自然と自分自身で刷り込んできた自縛だったのかもしれない。
鎖なんて、最初からなかったに違いないのに。
「櫻井、ありがとう」
馬鹿笑いが収まると、呆れたように僕を眺めていた彼女は、更に呆気に取られた顔付きになった。
「やっぱ、あんたって変人」
「あー、否定できない」
ちょっと間が空いて、どちらともなくクスクスと忍び笑いが漏れだした。そして、本格的にもう一度、今度は2人して笑った。目尻から涙を流しながら。
5時限目の終鈴が重なって、空へ消えた。
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