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「暑いね。」
そう言って、会場のエアコンの設定温度を下げる。
今年は、梅雨が来る前に、夏の様に気温が上がった。
葬式を終えて、焼き場から一旦戻って来た。
お骨上げをする前に、式場で食事をするためだ。
最近は、葬儀会社に任せるので楽だとか、座敷じゃなくって椅子だから楽だとか、そんな会話が、年配の人たちから聞こえてくる。
僕は、少し席を外して、祭壇に置いていたものを、膝に乗せる。
うこん色の布を解くと、1本の傘があった。
紫陽花の絵が内側に描かれていて、持ち手のところにタッセルが付いている。
高級なものであることが判る。
そして、祭壇に飾られたおばあちゃんの遺影に向かって言った。
「残念だったね。お棺に入れられなかったよ。」
あれは、1年半ぐらい前だっただろうか、まだ、おばあちゃんも、入院する前で、普通に日常生活も出来ていた時だった。
ちょっとお願いがあると言って、僕を呼び出した。
そして、もし自分が死んだら、お棺に、この傘を入れて焼いて欲しいと頼まれたのだ。
切羽詰まったように言うおばあちゃんを見て、よっぽどの理由があるのかと、その理由を尋ねた。
それは、まだ、おじいちゃんと結婚する前の話だった。
おばあちゃんの息子、詰まり、僕の父親にも、そして誰にも言ったことが無い話だという。
実は、おばあちゃんは、結婚する前に、別の男性とお付き合いをしていた時期があったというのだ。
しかも、真剣に愛していたというのだ。
愛だとか、恋だとか、そんな話を身内から聞くのは、どうも恥ずかしいものだ。
一体、何を話し出すのかと、僕は内心、困ったと思った。
おばあちゃんが言うには、誰にも言ってはいなかったが、おじいちゃんの三回忌も終わったし、あたしも、もうすぐお迎えが来る気がするから、僕にだけは話しておきたかったということらしい。
それで、傘をお棺に入れて欲しいというのだ。
じゃ、その傘は何かと尋ねたら、実はと、おばあちゃんの若いころの話が始まったのである。
その話によると、おばあちゃんは、おじいちゃんと結婚する前に、別の男性とお付合いをしていた。
しかも、真剣な愛だ。
その出会いは、おばあちゃんの職場がある、同じビルに勤務していた男性で、ある時、雨が降っている時に、おばあちゃんが、男性に傘を貸してあげたことに始まるという。
そこから、映画などを見に行くようになって、将来の夢を語り合ったりしたという。
どの程度のお付合いなのかは、聞かなかったが、おばあちゃんにしてみれば、真剣だったらしい。
或いは、結婚も考えていたのかもしれない。
そんな付合いが、1年続いたときに、傘を貸してもらった1年目の記念にと、男性から贈られたのが、この傘だという。
当時、こんな傘を売っているのは、銀座とか、有名デパートぐらいだったのかな。
兎に角、若いサラリーマンには、ちょっと高価な傘だったに違いない。
そんな時に、親から別の男性との結婚を勧められたのだという。
勿論、おばあちゃんは、断るつもりだった。
でも、その時の事情で、引くに引けなくなって、その男性とは別れて、別の男性、詰まりは、おじいちゃんと結婚したというのだ。
今でも、その時の事を思い出すそうだ。
その傘を、お棺に入れて欲しいという。
僕にとっては、面倒くさい話でもあったけれども、普段は考えたことも無かったおばあちゃんの歴史みたいなものを聞いたことで、仕方がないと諦めて、「いいよ。」と返事をしたのだった。
ただ、実際に、お棺に入れようとしたら、燃えない者は入れてはダメだと、葬儀屋の人に注意をされて、入れることは叶わなかった。
しかし、今思うと、おばあちゃんは、死ぬ前まで、その男性の事を想っていたのだろうか。
おじいちゃんと結婚をして、50年ぐらいなのかな、一緒に暮らしてきて、それでも、死ぬ間際には、おじいちゃんの形見ではなくて、その男性の傘をお棺に入れてくれなんて、余程の未練というか、想いがあるには違いない。
しかし、そこは、ウソでも良いから、おじいちゃんの大切にしていた物を1つでも入れてくれと言って欲しかった気もするのである。
でなきゃ、おじいちゃんが可哀想だ。
それでも、男性の傘を入れてくれと言うのは、諦めるに、諦めきれなかった、女性としての愛の執着なのか。
いや、女性は、執着という点に於いては、男性よりも淡白だという話も聞く。
いつまでも、過去に引きずられて生きて行くのは、大概、男性の方だ。
男性は、別れても、長い間彼女の事を引きずって、再開した時に、またヨリを戻そうかと考えることもあるけれど、女性は男性のことなど、別れたらすぐに捨てて、覚えてもいないというらしいじゃないか。
しかし、実際に、おばあちゃんは、傘を棺桶に入れてくれと僕に頼んだ。
これは事実だ。
おばあちゃんの、その男性に対する未練なのだろう。
そうなると、おじいちゃんの結婚生活は、あまりにも悲しすぎるのである。
ずっと苦楽を共にしてきたおばあちゃんが、ずっと他の男性の事を想い続けて来たなんて。
おじいちゃんにしたって、おばあちゃんと結婚したかったかは疑問だ。
ただ、もう死んでしまっているので、それを確かめる術もないが、親の意見で結婚したのだろうから、好き合っての結婚じゃなかったはずだ。
おじいちゃんにも、その時に、好きだった人がいたのかもしれない。
そんなことを考えていると、母親が傘を覗き込んだ。
「おばあちゃんの傘やね。」
「知ってるの?これ形見になるのかな。」と答える
そうだと思って、聞いてみる。
「あのさ、何年か前に死んだ、おじいちゃんって、夢とか楽しみってあったのかな。」
「おじいちゃん?どうして、おじいちゃんの事を聞くの。」
「いや、おばあちゃんの事を考えてたら、そういえば、おじいちゃんて、どんな人やったかなと思って。」
「そうやね。すごく優しい人で、怒ったりすることは無かったよ。ひょっとしたら、怒ってたのかもしれないけれど、人には、そんな表情見せなかった。もう、日々、淡々と生きてるっていうか、真面目の典型みたいな感じかな。」
「ふーん。夢とかもあったのかな。」
「おじいちゃんは、自分のお店を持つのが夢やったみたいよ。確か、中華そばのお店だったかな。おばあちゃんにも、何度か相談したけど、その度に、怒ったり、悲しい顔するので、結局は、諦めたみたい。それで、ずっと工場の仕事を定年までやったんちゃうかな。工場の仕事も、おじいちゃん、あまり好きじゃなかったみたい。あたしに、おばあちゃんが先に死んだら、お店やろうかなって、冗談言ってたもの。」
「そんな夢があったんだ。」
「実の息子のお父さんも知らないんじゃないかな。あたしが嫁やから、話しやすかったんかもしれないね。」
おじいちゃんにも夢があったんだ。
でも、叶わなかった。
「おじいちゃんと、おばあちゃん、仲が良かったよね。」
二人の間は、どんなだったのだろうかと気になった。
「そうね。良かったと思うよ。いつも手を繋いで散歩してたよね。あの年齢で手を繋いで外を歩くのは、恥ずかしいんだけれどね。」
そんな話をしていると、妹が、傘を覗き込む。
そして、僕になのか、母親になのか、誰に話すともなく、「おばあちゃんて、幸せだったのかな。」と呟いた。
「どうなんだろ。」と答える。
「若いころは、お金もなくて、生活も大変だったみたいね。」と母親がしみじみと言う。
「だから、夢を諦めたんや。」と妹が呟く。
「夢って?」と僕は聞いた。
「うん、おばあちゃんって、ピアノが弾けたって知ってる?だから、ピアノの先生をしたかったんだって。でも、ピアノなんて買えないでしょ。おじいちゃんの収入じゃ。ローンで買うことも考えたけど、おじいちゃんに言い出せなかったんだって。」
「へえ、そんなこと知らなかった。」
「あたしも、知らなかったわ。」と母親も、驚いている。
「なんでか知らないけど、2人でお茶飲んでた時に、話してくれたの。」
そんな夢が、おばあちゃんにあったとは、初耳だった。
しかも、ピアノが弾けたなんて、そんな話題もしたことがない。
ということは、おばあちゃんも、夢があったけれど、おじいちゃんの収入とかを考えて、諦めたと言う事か。
ローンを言えなかったというのは、実際に、お金が無い状況を1番知っていたからだろう。
お金がないとうことは、惨めなものだ。
そう思っていると、母親が、1枚の写真を持って来た。
「これ、さっきお棺に入れた写真を、焼き増ししたやつなんだけど。」と僕と妹に見せた。
その写真には、城崎温泉の外湯の前で、すごく嬉しそうな笑顔のおじいちゃんと、おばあちゃんが、並んで写っていた。
何とも微笑ましい写真だ。
しかし、こんな笑顔の写真の二人も、それぞれに、夢を持っていたんだ。
そして、その夢を、お互いに、相手を思うがゆえに、諦めざるを得なかったのだ。
或いは、この時も、おばあちゃんは、別の男性の事を想っていたのだろうか。
いや、どう見たって、そんな風には思えない雰囲気じゃないか。
写真の二人はどうであれ、実際に、僕が近くで見て来た二人は、いつも仲が良くて、幸せそうだった。
この二人は、この二人でなくちゃいけないと思える関係に見えたよ。
いや、二人は、幸せだったのだろうか。
おじいちゃんは、自分の夢を諦めた。
おばあちゃんも、自分の夢を諦めた。
お互いに、1番やりたかったことを、諦めたのだ。
しかも、それは相手の事を思っての決断なのだ。
そう考えると、そこに結婚した意味はあったのだろうか。
自分を犠牲にする結婚なんて、そんなのは、理想ではない。
そんな結婚なんて、悲しすぎるじゃないか。
もし、二人が結婚しなければ、自分の夢を達成できたのだろうか。
おじいちゃんは、お店をやっていただろうか。
おばあちゃんは、ピアノの先生をしていたのだろうか。
それは、分からないけれども、自由はあっただろう。
とはいうものの、何も結婚は、自分の自由を奪い取るばかりのデメリットだけじゃないことは、僕も知っている。
家庭という場が、それ自体、存在していることが重要なんだ。
たとえ疲れていても、帰る場所がある。
そして、そこに待っている人がいる。
そして、たとえ無口な二人であっても、ただ、一緒に居てくれるというだけで、気持ちが楽になることもあるのだ。
でも、そんなことを考えていると、僕も結婚することを考えてしまうな。
結婚する相手を間違いやしないかと、決断できなくなるかもだ。
いや、たとえ間違っていても、次の人を探せばいいのかもしれない。
でも、次の人を考えられるのは、自分の容姿に自信のある人に違いない。
この僕なんて、次はない可能性は、大なのだ。
まあ、いい。
僕の結婚は、考えても仕方がない。
それにしても、1人の男性を、他の男と結婚した後も、50年もの長い間、ずっと思い続けていられるものだろうか。
傘を棺桶に入れてくれというのは、よっぽどの執念というか執着である訳で、そんな感情を持ち続けられるものだろうか。
そう考えると、この傘を棺桶に入れるという行為は、昔の恋人に対する気持ちというよりも、むしろ、自分の夢さえも叶えることの出来なかった自分の運命に対する最後の抵抗だったのではないだろうか。
こんな運命にしか生まれることが出来なかった自分の性に対する、どこにも気持ちのはけ口の無い苛立ちのようなものに、最後の最後、逆らってみたかった。
昔の恋人への愛情なんて、もうすっかり忘れてしまっている。
でも、その恋人に対しての思いを最後に貫いたように振舞うことで、自分にも意思や夢があることを、示したかったんだろう。
そうに違いないと思った。
そんなことを考えていると、父親が来て、傘を覗き込んだ。
「おばあちゃんの傘やな。」
「おとうさんも、知ってるんや。」
「知ってるっていうか。これおばあちゃんが買って来て、自慢げに見せていたからな。」
「ふーん。えっ。何て。おばあちゃんが買って来たって。」
「だから、3年ぐらい前かな。おばあちゃんが銀座で買って来た傘やんか。高かったらしいで。」
「これ、おばあちゃんの昔の恋人に貰った傘ちゃうの。」
「どうしたん。何言ってるの。おばあちゃんが買って来た傘やんか。」
すると、母親が言った。
「そうやで。これ、おばあちゃんが買って来た傘よ。」
僕は、腰を抜かすぐらいに驚いた。
「だって、これ、おばあちゃんが、昔の恋人に貰った傘やから、棺桶に入れてくれって、僕、頼まれたんやで。」
すると、父親も、母親も、大笑いした。
「そんな昔の恋人って、そんなん初耳や。それに、傘は間違いなく、買って来たやつや。」と父親が言った。
そして、母親も、「たしか、銀座の三越で買ったんちゃうかな。レシート無かったかな。」
傘を調べたけれど、レシートは無かった。
「そうそう、たしか2万円ぐらいしたって言ってたわよ。」
「おじいちゃんと喧嘩して、そのうっぷん晴らしに、買って来たんちゃうかったかな。」
そう言われれば、50年前の傘という風には見えない。
デザインも新しいし、状態も新品だ。
父親と母親の言うように、これは、おばあちゃん自身が、買って来たものなのかもしれない。
一体、どういうことなの。
僕は、おばあちゃんに騙されたのか。
怒りよりも、ぼーっと立っている時に、ふいに、後ろから、膝の裏をコーンって叩かれて、膝が、カックーンと崩れる、子供のころにやった悪戯の様に、ヘナヘナと力が抜けた。
ひょっとして、僕を呼び出した時は、ボケてたのか。
いや、入院してからも、おばあちゃんは、しっかりしていた。
でも、この傘は、話を聞くと、自分で買って来たことは間違いなさそうだ。
そして、僕に、棺桶に入れてくれと頼んだのも間違いがない。
おばあちゃん、一体、どうしてこんなことをしたのよ。
遺影に向かって、つぶやいた。
そして、何故か、僕も大笑いした。
今日の事は、始めっから、意図して計画されたものだったか。
そうだとしたら、何故なのか。
それは、分からない。
でも、或いは、葬式で、大笑いをして欲しかったのかもしれないと、何故か、そう思った。
おばあちゃんは、自分の人生に同情なんてして欲しくなかったのだろう。
普通の女として、生きて来た、ただ、夢は叶わなかったが、そんな人生を、みんなで笑い飛ばして欲しかったのかもしれない。
人生なんて、そう上手くはいかないものだよと。
でも、それでいいんだよと。
今日の出来事は、おばあちゃんが、まだ元気な時に考えた、僕たちへのプレゼントなのかもしれないな。
僕たちの、これからに対するメッセージ。
これからの人生、上手くいかないことがあっても、めげるなよと。
そんなものは、笑い飛ばせ。
そして、ありがとうね。
ただ、メッセージにしたら、回りくどすぎるぞ。
それに、えらい長期的な計画やんか。
ホンマか、おばあちゃんたら、もう狂言師か。
そこで、また笑ってしまう。
今度は、小さな笑いだ。
葬儀屋のスタッフが、これからお骨上げに出発しますと伝えに来た。
僕は、祭壇の遺影に向かって、「ありがとう。」と小さな声で言った。
会場を出る時に、もう1度振り返って、遺影を見る。
「おばあちゃん、なかなか、面白いことやってくれるね。」
そう言って、今度は、顔だけで笑いながら、ウインクをした。
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