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どうしても顔を見せろってウルセェから、ちょっと打ち合わせに行ってくる。
そう言って、その日、鷹城は一泊二日の予定で東京へ発って行った。
前日まで、陽太も一緒に来ねえ?と随分ごねていたのだが、陽太はどうしても提出しなければならないレポートがあったので大学を休むわけにはいかず、一人で残ることになったのだ。
陽太は、こっちに越してきてから、鷹城のいない夜を過ごすのは初めてだった。
作曲家の他に敏腕投資家という顔も持つ鷹城のマンションは、無駄にゴージャス仕様だ。
ここには、おそらく陽太が大学に通う間だけしか住まないのに、彼はその6年間のためにいくら使ってこのマンションを購入したのだろうか。
最上階のワンフロアを全部一戸になるよう仕様変更させたその部屋は、二人だけで住むのだってやたらに広いわけだが。
鷹城がいないと、更に広々と寒々しく感じる。
こういう日に限って、バイトも入っていなかった。
せめて仕事があれば、さみしいという気も紛れただろうに。
陽太は大学から帰宅して、いつも何をしてたっけ?と考えながら、所在無げにシーンと静まり返った部屋の中をウロウロする。
帰ってくれば、いつも鷹城が待ち構えていて、ソファで寛いでいてもピアノの前に座っていても、当たり前のように膝を叩いて、そこに座るよう促すから。
鷹城の膝の上で、大学の話をしたり、オリブルの話をしたり、バイトの話をしたり、音楽の話をしたり、最近流行っているものの話をしたり。
天気の話をしたり、ニュースの話をしたり、或いは生活に関わる細々とした話をしたり、そういう様々ななんてことはない日常の会話を、その腕に抱かれて、タラタラとしているだけだ。
それだけで、時間はあっという間に過ぎていくし、その後は二人で買い物に行ったり夕飯を作ったり、そんなふうにして過ごしている。
いつも、特別何をしているわけでもない。
それでも、二人でいるだけで楽しくて、満たされていて。
陽太は、今この家の中を支配している静寂に耐えきれなくて、リビングの真ん中にどーんと置かれたピアノの前にそっと座って、少し鳴らしてみた。
そもそも彼は、鷹城に出逢うまでピアノに触ったことはなかったが、手取り足取り丁寧に教えて貰ったおかげで、指番号や音階がカタカナで書かれている超初心者用の楽譜を使えば、簡単な曲を片手で弾くぐらいはできるようになっていた。
それも、でも、一人で弾いたところで楽しくはない。
鷹城が聴いてくれていたり、簡単な和音を補って一緒に弾いてくれたり、陽太の拙いピアノに合わせて歌ってくれたりするから楽しいのだ。
何をしてみても、鷹城がいないさみしさが募るだけ。
陽太は、観念するかのようにそう思って時計を見る。
少し早いけど晩御飯でも食べるかな。
早く食べて、今日は早めに寝てしまおう。
陽太は、母親もフルタイムで働く共働きの両親の元で育ったので、家事は一通りこなせる。
だから、一人でももちろん調理しようと思えば、簡単なものならそれなりに作ることができる。
でも、今日は、キッチンに立つ気分にもなれなかった。
そもそも、一人でいるとお腹もあまり空かない気がする。
カップ麺でも買ってくるか。
彼はノロノロと立ち上がった。
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