痺れるほど、溶けてしまうほどに嬉しかった

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 それから先のことは全部、人づてに聞いた話だ。  結果として、けんちゃんが甲子園に出ることはなかった。  高校そのものは在学中に何度か出場を果たしたけど、けんちゃんはベンチにすら入れず、スタンドから声を出すだけの存在だった。  それどころか、煙草で停学になった話や陰湿な下級生イジメのグループに属しているという話まで舞い込んできた。  耳にする噂話の真偽はつかず、甲子園の中継が始まるたびにぼくはテレビの向こう側にけんちゃんの姿を追った。  野球の天才が、あんなに凄かったけんちゃんがレギュラーじゃないなんて信じられなくて……  だけど、ぼやけた視界の先では、見知らぬ選手がけんちゃんのいるはずのショートを守っていた。   ▽  手に取ると、傘は柄からもげてしまい開くことさえ難しかった。  ネームプレートに刻まれたその名前を、ぼくは知っている。  ショートを守っていた一番バッター。甲子園に出て、いずれプロになる選手だ。  赤土からの帰り道、ぼくらを雨から守ってくれた力強い傘は見る影もなかった。  けんちゃんは三年生になる前に野球をやめてしまった。噂では、喧嘩が原因だったとも言われている。  野球推薦で入学した手前、高校も辞めざるを得なかったけんちゃんの気持ちが、逃げ帰るようでこの町に顔を出せないけんちゃんの気持ちが、ぼくには痛いほどわかる気がした。  中退後、今はどこかの町で働いていると誰かから聞いたけど、それも定かではない。  傘を無理やり開くと、芯の部分が根本からぽっきりと折れた。それを待ちわびていたかのように生地を支える細かい骨もぱらぱらと足元に散った。  駅舎がまるごと冬の雨に押しつぶされたみたいにぼくはしゃがみこむ。  二度と元には戻らないその壊れように、こみ上げてくる想いが真正面からぶつかってしまう。    本当にすごい選手だったんだ。  ぼくらのチームの一番ショートには、けんちゃんがいたんだ。 『お前ら声出していけよ!』  胸の奥にしまい込んだ、痺れるほど、溶けてしまうほどに嬉しかったあの頃のけんちゃんの笑顔を拾い集めるように――  ぼくは膝をついたまま、その傘を抱きあげた。  (了)
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